2013年10月12日土曜日

講演会 「吉野ケ里から吹田が見える」

倭国大乱と垂水遺跡
講師 国立民族博物館名誉教授 
元吹田市立博物館館長  小山修三氏

 
10月27日(日) 13:20~ 15:30
メイシアター 小ホール
無料
吹田郷土史研究会 6877-8193 会長宅

関の地蔵にまつわる話


俗に「関の地蔵に振り袖着せて奈良の大仏婿にとろ」
と唄われた美男の地蔵菩薩である。
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地蔵菩薩は釈迦が亡くなられたのち五十六億七千万年
の後に弥勒菩薩が出現する間。地獄、飢餓、畜生、阿修羅、人、天の六道に輪廻してさまよう私たちを救うという菩薩である。
髪がない剃髪、袈裟を身にした僧形(男)の立像、または坐像
か半伽像が特徴である。
俗謡に
 「関の地蔵に振り袖着せて奈良の大仏婿にとろ」
 関のお地蔵様に振袖を着せれば女よりも美しい。そして奈良
の大仏を婿にとってみたいものだ。

 これが美男を賛美する唄の本来の意味である。
中には関の地蔵は男か女か?と真面目に議論する人もいるだ
ろうが、いちど関の地蔵のお顔とお姿をじっくり拝観してほしい。
まさしく男、それも日本一の美男のお地蔵様と納得されるであろう。




*****  一休和尚と関の地蔵の麻の布
むかし、京の都の名高い一休和尚(いっきゅうおしょう)が東海道を旅しとったんやそうや。
 そのころ、関(せき)の宿場(しゅくば)に地蔵(じぞう)さんが立っとったんやけど、往来のちりによごれて見苦しなってしもたもんで、里の者らが集まってきれいに洗(あら)い清(きよ)めたんやて。ついでに破れとったお堂も直して、お坊(ぼう)さんが通りかかったら、開眼供養(かいげんくよう)をしてもらおうと待ちかまえとったんやに。そこへたまたま通りかかったのが、一休和尚やったんさ。
 里の者はさっそく、
「旅の坊さん、地蔵さんの開眼供養をしてもらえんかいな」
とたのむと、一休和尚は、
「ああ、よかろう」
と心やすく引き受けてくれた。そやけど、地蔵さんに向かって経(きょう)を読むでもなく、
「釈迦(しゃか)はすぎ、弥勒(みろく)はいまだ出(い)でぬ間の かかるうき世に 目あかしめ地蔵」
と妙(みょう)な歌をよんでな。そのうえ、衣のすそをまくって立小便して去ってしもたんやに。

 あっという間のできごとやったんで、里の者らはポカンとしとったんやけど、われに返るとかんかんに怒(おこ)ってな。
「とんでもないインチキ坊主(ぼうず)にたのんでしもたわ」
「あんなうすぎたない坊主にたのんだのがまちがいやった」
「もういっぺん開眼供養をやり直そや」
ということで、ちがうお坊さんにあらためてたのんだんやて。
 今度のお坊さんは、身なりもりっぱでな。九条のけさを身にまとい、高座に上って鉦(かね)を打ちならしたり、水晶(すいしょう)の数珠(じゅず)をおしもんだりしながら、むずかしいお経を長いことよんでくれてな。そしておごそかに、
「ここにお集まりの善男善女(ぜんなんぜんにょ)は、功徳(くどく)により病苦(びょうく)をまぬがれ、田畑(でんばた)は穂(ほ)に穂が重なり、天災地変(てんさいちへん)も火難水難(かなんすいなん)も無縁(むえん)となろう。ましてこの関の地蔵のご本尊(ほんぞん)は将軍地蔵(しょうぐんじぞう)じゃから、たとえ大敵や強盗(ごうとう)が現(あら)われても、家のなかまで押(お)し入ることは金輪際(こんりんざい)ない」
と、回向(えこう)の鉦を鳴らしながら告げてな、ありがたさに涙(なみだ)をこぼさん者はおらんだん。感激(かんげき)した一同が心をこめてお坊さんをもてなしたんは、いうまでもないことや。
 ところがその晩(ばん)、在所の者に地蔵さんがとりついてな、高熱を出し、うわ言のように、「せっかく名僧(めいそう)の供養によって目を開いたのに、どうしてつまらぬ供養のやり直しなどして迷わすのか。元のようにして返せ」
と口走ってな。これを聞いた者はたまげたのなんの。さっそく主だった者が集まって相談し、一休和尚を追いかけて呼(よ)び戻(もど)そうということになったんさ。
 使いの者らが、やっと桑名の宿で追いつくことができ、かようかようしかじかと、地蔵がのりうつった様子を伝えると、一休和尚は、
「いまさら関まで引き返すことはできんゆえ、この下帯を持ち帰って地蔵さんの首にかけ、わたしが唱えた歌を三べん唱えるように」
と教えたんやて。使いの者は半信半疑(はんしんはんぎ)で和尚の下帯を持ち帰り、言われたとおりにすると、あっという間にのりうつった人の熱は引いて、もとの元気な姿(すがた)に戻ったんやて。関の地蔵さんが今も麻(あさ)の布きれを首にまいとるのは、こんな由来があったんやに。

*********** 関の地蔵と「しむか地蔵」豊中
地蔵堂の前の道を伊勢に向かった。
その長い道中で、あの名高い「関の地蔵」さんによく似ているとみえて、
「関のお地蔵と、しむかの地蔵は、いとこづくか、似てござる。」と唄われるようになった。

関の地蔵と一休和尚  

東海道53次 予定 2016/02/23

20年に一度の「お木曳き」 関宿 2015/06/01


今日は鈴鹿峠越え パート3 関宿・東追分  2015/05/07



  

2013年10月9日水曜日

年に1度1日だけ  今年の見学日10月26日(日) 今西氏屋敷 豊中市

毎年この時期発表です。 遅いと思いますが。
国指定史跡  春日大社南郷目代今西氏屋敷
今年の見学日 2013年10月26日(日)
周辺の史跡案内 11時、14時
25・26 法事のため参加できません。
 
以前の案内 平成24年
以前の案内 平成23年 近所の見学ポイント

「見本のまち 上新田」 まち組案内(企画案)

コース 山田街道
千里のパワースポット 上新田散策     
--- 大阪府文化財「旧新田小学校」見学会と道標6基にお目にかかる---
 
  千里ニュータウン計画ではこの地も下新田を含め開発予定であったが、青年団、PTAが竹藪を残す運動により、計画から除外された。そのおかげで、江戸初期からの街並みが残っている。
旧新田小学校が府の文化財に指定されたのは昭和50年、開発から約10年後でであり、使用されていたのが昭和48年まで、もし、他の地域と同様、開発されていたら現存しなかったと思われる。それも、時代とともに開発の波により、天神社裏山が開発され、大きなマンションが立つことになった。
 今回はそんな府の文化財旧上新田小学校では学芸員による講和、上新田村内は道端に残る庶民の文化財「道標」を紹介します。

 追加 上新田天神社 「本殿」 市指定有形文化財 の見学ができるようになりました。
     
期 日 11月1日(金) 
集 合 阪急山田駅 北千里側改札口すぐ2F 13:00集合  変更13:15 吹田駅13:10発
             食事処:家族亭  1F:ホールで食事可能   
解 散 千里中央  16:30 
  
 
A.阪急山田駅 北千里側改札口すぐ2F  吹田の街道 亀岡街道・吹田街道・山田街道・横関街道・三国街道 その他 佐井寺への信仰道4ルートがある。
 山田街道は起点終点上新田村 山田 茨木中穂積亀岡街道をに合流、下中条で高槻街道に合流して終わる。 
B.山田三つ辻道標 山田街道、小野原街道の分岐 左 上新田村  をか町  いたみ
  右 をの原村 みのを かちを寺 いけだ  妙見山  中山寺    珍しい三角柱
  *まめ 石は一般的に花崗岩が使われる。
 
 
C.弘済院 大阪市の飛び地 服部緑地墓地 古い写真がある 大きな道路 石公の橋 
   見つかった地蔵がある。 石公橋から濁池への道の途中 今調査中
  豊中と吹田の分岐 
  この尾根筋には道があって今宮から南千里への道であった。
D.上新田入口 東口道標 勝尾寺街道と山田街道 右 山田、いばらき、左 かちをし (道) 
   古い道標 このように表示が一面だけの物は古いとされている。
 横に立っている杭は五一会の人たちによるもので、自分たちの村の資料を残している。
杭は昭和53年、 展示会を昭和55 「写真で見る 上新田」出版 昭和58年
出口は旧新田小学校で三国街道となる。 「見本のまち」  勝尾寺は今宮で西国街道を東進し、鳥居のある新家・表参道を参拝する。江戸前期に上新田は山田村の豪農が下新田と同時に開発  江戸中期には隠し田事件が起こる。 江戸中期、民が力を持ってくる、観音信仰・勝尾寺への参拝者でにぎわう。  初期は80石 明治には605石であった。大きくなったことがうかがえる。

徳林院(尼寺) 常光庵 開祖小畠清順 徳本上人・徳本行者 享和元年(1801)から箕面勝尾寺松林庵13年間 箕面を去る1814年(文化11年) 粟生間谷西の碑:有名なのは独特の丸文字で書かれた「南無阿弥陀仏」の六字名号の掛け軸が伝えられている。その他全国に1000基以上の碑がある。
E. 豊中市最古の道標南口 左面 天明元年(1781) 右 さいてじ 左 かちおじ 吹田の佐井寺への案内  見えないが裏面は 右 大坂   
*杭の頭は平らであるが、道標はお墓と同じ4角錐であり、たいらでない。一番多いのは四角柱 
F.道標北口 半彫馬頭観音像 「右か」文字一文字勝尾寺への道標 裏に 上・・・
* いろいろあるようだが北摂の馬頭観音像は冠が高い座像が多い。
* 役行者 膝を立てている。飛鳥・奈良時代の人 修験道の開祖
  役行者の道標では彫で表示、像は開祖箕面瀧安寺にあるが、豊中・吹田では見当たらない。
  
G.大阪三里の道標 (東)右 ざい所、左 大坂へ3里   (南)右かとをし
(西) 天明二年  名前2名は書いてあるが立てた人の名前であろう。
H.御旅所 赤塚橋
I.旧新田小学校 見学 市の職員が案内してくれます。 秋には1週間の一般公開が行われます。
 小曽根の今西家は 1日だけの公開:案内が付く時間に行くとよい。
 上新田は明治になり下新田と合併し、新田村で、明治6年小学校を真覚寺に置く 小学校建設1900年 1973年まで使用、下新田との分離昭和28年豊中市へ それまでは下新田の75歳以上の方々は、この旧新田小学校で学んでいた。
J.見つかった道標(新田の墓地) 左側が愛宕さん・北向き地蔵
 珍しい村、村の出口すべて揃う 大阪平野の13出口にあった地蔵
  南面 左大阪 西面 南無阿(弥陀仏) 北面 為万人   東面 右くま  上3文字下部欠損  
 さて問題です、この道標は何処に立っていたのでしょうか!地図を頭に描き考察してみてください。
 万人講・石清水八幡に同名の講があるが、同一のものではない。
 鈴鹿峠にある巨大な常夜灯も「万人講」が建てた。
 なお、大阪から勝尾寺への道筋に 4基 江坂の油地蔵の「右かつ・・」下部欠損と上新田村の2基は、上村 和功が見つけました。他に2基  合計4基があります。 
 
K. 山口家(旧山田家) 上新田の薬酒 「日本外史」の著者:頼山陽は酒を愛し伊丹と上新田を行き来していたらしく、この家には頼山陽「歳寒堂」と命名した部屋がある。 門は他のところでは見ることができない、武家屋敷門
 山田家は酒屋を営むも、後には親戚筋の岸部の中西家を頼ってこの村を去る。
L.大きな地蔵 上新田天神社
  
  千里のパワースポット 上新田天神社 千里の氏神様・千里の天神さん
  「とんど祭」 市指定無形民俗文化財 1/14日 火を持ち帰り、小豆粥を炊いて食べると、一年間無病息災で過ごせるという習慣があります。 

*まめ 形状は四角柱、そのほかに地蔵、灯篭など 材質は花崗岩が多い。
 年号の入っているものはすくない。 誰が、個人、講  何のために・・・・
 ・・・・街道の名が入っているのは 明治以降の物
 時代的に北摂では寛文年間の作成された物があるが、吹田市からは出ていない。
 右左の表示から元立っていた場所を推定できる。

 
上新田の道標位置
 赤印は西口道標の旧在所

より大きな地図で 上新田の道標 を表示

その他の上新田の資料はこちら  
関連資料


2013年 旧新田小学校 一般公開開催
今年は 11/7~11/10 4日間
ぜひこの機会においで下さい。
もよおし 豊中市文化芸術企画制作講座関連事業     
美術作家・牛島光太郎さんの作品展 『意図的な偶然』      
企画展     「地域が支えた小学校~明るく豊かな学びのために~」         
                       教育資料展(昔の教科書やチャイムなど)
            蓄音機や石盤(せきばん・計算や書取の練習をした石のノート)、]
                   機械式計算機、ガリ版印刷の体験などもできます
 
その前に 年に一回・1日の公開 今西氏屋敷公開
10月26日(土)10:30~16:00
周辺の史跡案内 11時、14時 2回

年に1回の公開 国の重要文化財 「仙人掌群鶏図のふすま絵」
11月3日(日) 西福寺 (小曽根)
 
******** パソコンの使い方
メールで添付ファイルの開け方 ファイルをダブルクリックすればよい。
私のように メールでブログのアドレス(ページ)をもらった場合の方法 
http://suitasgc09.blogspot.jp/2013/10/blog-post_11.html これがアドレス

上の青色部分 http:・・・をダブルクリックすると「千里のパワースポット 上新田散策」が提示されます。  1ページ表示です。
このブログの他の項目を見る場合は
1.一番上の大きく書いてある「すいたシニア環境大学9期生」をクリックすると全体が表示されます。
2.一番下最後尾にいった 「次の投稿」 「ホーム」 「前の投稿」があります。「次の投稿」を押すと(クリックすると)次の日のページへ 「ホーム」を押すと1番 一番新しいページへに戻ります。
   「前の投稿」をクリックすると 前の日時のページが開きます。それの繰り返しです。
3.簡単にある月日のページに行くには 右側のフレームの年月の中から選んでください。
4.このブログには検索機能もついていますのでそれを使うのもよい。
5.ブログの中でよく読まれているページは右端のフレームの中に読みたいものを選び、写真がありますのでそれをクリックするとそのページに飛びます。 
6.ページの最後尾にはもう一つ 「次の投稿」の上「コメントを投稿」のさらに上に「ラベル」があります。関連するラベルをクリックすると関連ページが後に表示されます。 検索機能の簡易型です。一度試してください。

次にページの中で次のような場合もあります。
例えば上の「見本のまち」 上新田の見どころ にマウスを持っていくとマウスの形が☝に変化します。そこをクリックすればよい。別なページが表示されます。 そのことを文字の色が違う部分「リンクが張ってある」といいます。 簡単にはマウスの形が変わったらクリックです。写真の上でもそうなります、この場合写真のところに行ってしましますので写真は避けた方がよい。 他の場所でも試してください。 

2013年10月8日火曜日

最高の訪問者数 月間4310件  2013/09 


気になる人気度
全期間の月別訪問者数の推移
4310件/月   140件/日 すごいではありませんか!
 
最高は9月16日の252件でした。
1クリック5円だったらいいですね!

記念にこの写真を竹田会長から頂きました。

小野原にあった「山田と上新田」の分岐道標 撮影竹田純立
向こうにお墓が見えます。  
その後開発のため 一時 資料館に保存
何べんか 探しに行ったのですが! わかりませんでした。
 現在の様子      大きく
 
 山田上村の絵図 天保14年(1843)
 
 山田上村の絵図 天保14年(1843)
中山寺への道と各村への距離が掲載されている。
上新田が登場している。
道標が2基掲載・・・ 三つ辻のところが白くなっている三つ辻の道標はない。
濁池道標    右 かちを寺、左中山 
水遠池道標  右郡山 左小野原の2か所
 

2013年10月7日月曜日

万人講  鈴鹿峠

ここにも「万人講」
でっかい常夜灯 

5メートル44センチ  関係ないが 重さ38トン
鈴鹿峠 「坂は照る照る、鈴鹿は曇る、あいの土山雨が降る・・・」

その他の万人講
                   
 

         
上新田:勝尾寺街道と三国街道の分岐   江坂:勝尾寺への案内  

万人講!!!!! 

 

ミステリー? 西国街道リレーウォーク②  西宮 - 伊丹で  問い合わせ2回

ミステリーを解明する。
解明1 一考察 今夕(16日)掲載予定 
 
道標表示「すぐ」が「すぐ」でないこともある!「近く」でもない! 
2013/10/06(日) 西国街道リレーウォーク②  西宮 - 伊丹
参加者 57名   約9キロ 23741歩
 
神戸市東灘区~西宮市上大市
西宮市上大市 ~ 箕面市瀬川
立派な立石です。門戸岡田町の道標
 
正面 『☜ 日本三躰 厄神明王社』
東面 『すぐ京都伊丹池田道   左ハ参詣近道 ???』
 
裏面 『是より門前まで西へ五丁 中山荒神 三田 有馬道』
西面 『文久二壬戌冬再建』 松井源兵衛 中尾権兵衛 播磨屋喜兵衛 泉半兵衛』

 
もう一つ  案内では道標⑨
西国街道 下大市東町の道標
左手の道が大阪への道、 手前の道を
左に行くと厄神明王  右に取ると 今津への道
 
この道標の「すぐ」も元来た道を表示しています。
正面 左尼崎大阪道
左面 右厄神明王道
右面 すぐ高木今津道 ??? 
下の写真をご覧ください。
このようになっていました。「すぐ」この道をまっすぐに進むむと、行き先です。
「すぐは厄神明王道」のはずだが、ここでは「すぐ 高木今津道」とはなっている。
 
高木今津からここに来ると「すぐ」は元た道をさしています。
 
  北面    西面   南面    東面


























 
 
 
立ってる位置  
厄神明王道     高木今津道  
 
 
このように来た道を「すぐ」と表示です。ここ西宮で二基
 もう一基は 摂津市の道標
 
この道標は 南北に走る高木今津の延長線上にある。そこで、この道標を角度を90度右に回すと
『すぐ』の反対側は 右 厄神明王となっているので 大坂方面をさしているので当てはまらない。
 
 
色々な話を総合して次のように考えます。
1.もし書き換えてなければ 元の位置は 高木今津より南のT字路に立っていたもの。
2.書き換えられているとしたら 「すぐ」の間違い
 
この街道沿いにはそのほかには一般的に行く方向で「すぐ」の表示でした。
 
 
 
     
 
問い合わせの電話
詳しい人はいませんでした。 私の素朴な疑問 「すぐ」が「元来た道になっている。」
溝に落ちていた物で二つに折れているのがわかる。
道標⑨ 高木村 津高平兵衛 の道標で考えると 今までの考えと違う、
考えられないことですが、「今まで問題になっていない。」とのことでした。
なぜ、そうなっているのか! その疑問に何か妙案を出してください。
一度 ご検討をお願いしたい。
 
もう一つ。話の中で、元の位置と違う場所にあるのでは?
道標ですから立って位置が違う場合などは、立てたときに分かるはずで、
溝から取り上げ、設置する人たちが、方向、立ってた位置を間違えることはないでしょう。
古道をやっている人がそのような立て方はしないし、
また、腑に落ちない場合、間違いなどは説明板・資料等には但し書きがつきます。
 
この地区にこのような表示「すぐ」が元来た道とされているものが他にあるかもしれないので
それをおしえてほしかったのですが!
 
 
以前の調査
 
今回の「西国街道」 2013
 
もう一つの「西国街道」
                    天下人が駆け抜けた天王山 ① 2013年5月9日木曜日  
新聞報道  吹田郷土史研究会の紹介   2013年5月18日土曜日  
新聞記者から電話 「名水が生んだウイスキー」 ② 2013年5月24日金曜日
2013年6月4日火曜日  高槻に「お台場」があった ③ 
2013年6月26日水曜日 パワースポット ④
西国街道 「芥川宿」 北摂の街道を行く
西国街道 「今城塚古墳」
中臣鎌足ゆかり「三島」の里 ⑦
久しぶりの「北摂街道を行く」⑧  つわものどもが夢の跡
 
****************************** メールでの問い合わせ
早い 西宮市立郷土資料館
電話です。  長時間の電話です。
西宮市で他にそのような表示方法があるのかは分かりませんでした。
記載表示について 「すぐ」は「すぐ」での認識でしたので、この地域だけ特別なひょうじではないようです。昔からその場に立っていたということで表示については検討はされていないようでした。
ただし、道標⑥については 正四角形でなく、後で訂正されていることが他の資料に出ているということです、それであるならば、私としては
  配布資料等については、表示が違うことを掲示して欲しいと要望しました。
 
追加 10/11
この表示が正しいのであれば、旧所在地は 
1.「すぐ」を基準に考えると 西から来た人が「すぐ」京都 と考えると
  日本三躰厄神明王社 その道から左の方向になる。
  それで 旧在所地 日本三躰厄神明王社 は王社の北側にあったことになる。
2.問題なのは、設置したものが間違った可能性が高い 
 
 
 
****************************  その他の情報あり 
箕面市立郷土資料館 より資料を頂きました。
その上に立って、再考した結果の地図です。 10/16 夕方発表します。

より大きな地図で 門戸岡田町の道標 を表示

********************* ミステリーの解明
移動されたもので、旧在所が確定した事例
ミステリー西宮 一考察

1.新高公園の道標は   中島大水道をわたる、東西の橋の袂にあった
2.江坂の道標 は 旧在所 福知山市上天津の道標 
3.上新田墓地の道標は 上新田西口の道標
4.江坂西西道標 は 下新田の失われた「下の立石」?
 

西国街道 萱野三平の里 ⑩


産経新聞 隔週水曜日 「次回は初恋の味」