2010年12月28日火曜日

能勢街道 は天満橋から

ひいらぎ峠の吉野関跡
能勢町教育委員会の吉野関跡説明版には、
摂丹国境の儀宝永元(1704)申年裁許図面墨引印章の通弥相違無之事と記されている。
丹州蚊屋野村へ出る、大坂天満橋ヨリ長柄渡へ二十八丁、長柄渡ヨリ小曽根渡へ二里六丁、渡ヨリ池田ヘ三里七丁、池田ヨリ吉野へ四里二十二丁、吉野ヨリ国境領へ六丁合〆十里七丁と記されている。
と記されている。

街道も時代とともに変更されたのか!
この時代、大坂の 梅田 北は下野であったので

                              
  与謝蕪村の歌                  
      「菜の花や               
            月は東に 日は西に」  
                              
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2012/12 追加訂正    与謝蕪村は毛馬村に生まれる。 江戸時代中期

街道の出発点は 豊臣時代は重要な街道として大阪と京都を結ぶ京街道で 出発点は大阪城北西にある京橋であった。江戸時代になり西国とのかかわりで江戸後期は基準が高麗橋東詰と明治時代も高麗橋であった、それ以後 各町村に道路元標をせっちすることになり、基準は各府道県の所在地が基準「道路元標」となる、大正11年大阪市役所前に移築 そこで各村への基準となり、「各町村は元標」を作る。その後 元標な亡くなり、現在の元標(昭和28年)は大阪市現在1号線と2号線の分岐に立っている。役所にあった元標の表示が
    現存する大阪府下の道路元標は 4基である。 下の道路元標をご覧ください。
  
  道路元標 ネットワーク
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道路元標のある高麗橋東詰から天神橋通りを通って長柄の渡しへ
後は、横関の渡しで十八条町へそして、小曽根の渡し
長興寺の「名号板碑道標」に出会うことになる
つじつまが合うようだ。

2010年12月27日月曜日

お伊勢参り

 一生に一度は「お伊勢参り」へ
 60年に毎に「おかげまいり」
 「ええじゃないか、ええじゃないか」
 天からお金が降ってくる。
 講を組み、お伊勢さんへ

1.お伊勢参り Ⅰ 豊中  おかげ常夜灯
2.お伊勢参り Ⅱ 小川村郷土誌
3.お伊勢参り  『山田村郷土誌』より
九日間  
1日 大津泊
2日 石部水口、横田川、水口で昼食、大野(焼き鳥、かいが坂)、
小栗判官の墓、 「鈴鹿権現」、「関の地蔵」  関(泊)
3日 津で昼食  松坂町(泊)
4日 宮川、伊勢の両宮   古市(泊)
5日 二見ヶ浦       松坂(泊)
6日 津にて昼食      関(泊)
7日 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」
水口で昼食 草津(泊)
8日 近江地域を観光    伏見(泊)
村人が迎える
9日 芥川で昼食

その後、小学校の修学旅行となる。

その他の資料
「小川村郷土史」
地図「街道筋 御定人馬賃銭附 駅々宿屋附 日本全国道程図」
天保14年    安政4年5月 刻成

お伊勢参り Ⅱ

2.お伊勢参り  小川村郷土史より

ここには行程が詳しく書かれていて、 17歳のとき選ばれて45里を長旅である。

初日 向山の坂を越え、清水の谷まで見送り

京都・山科・大津・草津(泊)

2日 あいの土山、三雲、鈴鹿峠、関の玉屋旅館(泊)

3日 津、一志田、松坂、宇治山田、

外宮、内宮参拝、古市の油屋旅館(泊)

4日 二見ヶ浦  同じルートを通り帰坂

阿念坊(?)まで村人が迎える。

留守宅では 「宮巡り」と言って飲めや踊れやで祝う会が行われ、大散財だったといわれていた。


往復同じルートを使い、宿も例年決まっていたようだ。
また、送迎・「宮巡り」の風習があったようだ。

お伊勢参り Ⅰ


 1.豊中での話 お伊勢参りには
   豊中では詳しいルートは書かれている文書を見ていないので憶測する。
一般的に、昔は行きと帰りは同じ道を通らないと言い伝えがあった。
   お伊勢さんには日の出の方向へ向かう。

  追加 伊勢神宮のお参りには豊中の記録には 玉造から伊勢に向かう。とのこと
       玉造が大阪からの出発点であった。 玉造稲荷神社

  お伊勢参りに関するものして 、
豊中にはある若中の常夜灯がある。この道を通り、伊勢を目指す
 

   豊中では伊勢街道とも言われていた。

   また、染香地蔵の歌には「染香地蔵は関の地蔵によく似ている。」と言われている。

   このような話があるのでそうなると、ルートは
   「関」を通ったのではないでしょうか!
   関を通ると、吹田街道で京に上り、伏見、草津、関、津を通っていたのでしょう!
 隣の吹田市山田地区にはお伊勢参りに関する古文書が「村史」として残っている。
 それによると 上記のコースをたどっていたようだ。

   帰りは途中までは同じルートだと思いますが
   豊中地区では、小野原、熊野田のルートで帰ったようである。

   他の地区では出迎える風習があるが豊中では出迎えの風習はなかったようだ。

このように、昔は 一生に一度は行って見たい、「お伊勢さん」

小学校の修学旅行も「伊勢志摩」方面であったようだ!   現在は 広島・長崎か!