2015年9月12日土曜日

戦争させない!9条こわすな!吹田市民大集会 in 南千里

メディアで報道されない!
安保法案の廃案に向けて

先輩たちが起こした戦争
後世に負の資産を残さない
今、生きている私の思い
9月12日 







子ども連れの方も

全員で  私も初めての参加しましたので 多いですね!

警察官に守られて、
千里では珍しい デモ マンションの窓から顔を出している夫婦が
チラホラ  珍しい光景です。

今日のことが  Facebook

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西国街道リレーウォーク  2015 一覧・案内

  返事が参りました。 お試しください。***

お問い合わせありがとうござます。 
本年度の西国街道については、
に掲載しております。
わかりにくくてもうしわけありません。
TOPページの「歴史街道企画イベント参加者募集中」
のバナーから紹介イベントのページをもうけております。
よろしくお願い申し上げます。


*****  TOPページから 皆さんこれで見つけること出来ましたかな!
    リンクを張ってあるところをクリックしてみてください。

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作成のきっかけ 私のブログ
  「西国街道リレーウォーク 一覧・案内 2013」
2013年版にアクセスが多くなりましたので調べてみました。
  以前の案内は 2014saigoku とあり、2015saigokuとして探しますが、見つけることが出来ず 今年は saigoku2015 になっていて、一貫性がありませんでした、私も「歴史街道」hpで探しますが、なかなか見つかること出来ず、上記のような「歴史街道」に問い合わせをした次第です。
   
9/12 西国街道リレーウォーク2015 博物館で手に入れました。
漸く見つけることが出来ました。

2015 魅力再発見 西国街道
オープニング講演会

下記の開催の詳しい情報2015 魅力再発見 西国街道

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第2回 阪急大山崎~大山崎周辺「街道集落大山崎と西国街道を歩く」
約5km
日時:平成27年10月17日(土)小雨決行
集 合:13:00  阪急大山崎駅
解散:17:00頃 JR山崎駅
定員:50名(先着順)
参加費:100円
事前申込み:9月17日(土)から電話で受付
 
問い合わせ先:大山崎歴史資料館 TEL:075-952-6288 まで
 
その他のイベントについては「2015 魅力再発見 西国街道」 をご覧ください。


2015年10月4日(日曜日)午後1時から午後4時
西国街道と結ぶ〈まち〉をテーマに、歴史街道推進協議会加盟の市町村がリレー形式でウォーキングを行う「西国街道リレーウォーク」。今回は、西国街道を出発し、芥川宿から高槻城下町へ向かう道を経て城下町へ。古い道筋や寺社を訪ねながら、しろあと歴史館に至る道を歩きます。(約4キロメートル) 
西武百貨店北西広場・本山寺道標前(集合)→芥川宿→出屋敷通り→紺屋町→川之町・本行寺→本町→八幡大神宮→城跡公園→土橋町・出丸→本丸・二の丸跡(市民の森)→永井神社→しろあと歴史館(解散)
講師: 中西 裕樹・西本 幸嗣 (しろあと歴史館 学芸員)
※小雨決行  ※昼食は済ませてご集合ください


漸く見つけることが出来ました。


2015年9月11日金曜日

中津川4

木川村は能勢街道の要所として発展したところです。能勢街道とは中津を起点とし中津川の新橋渡し(後に新橋が架橋)を渡り、三国、庄内を越え、池田や能勢方面へ続いていきます。木川村はその昔、木寺村と川口新家村の2つの村があり、明治16年に合併する際2村の名の1つずつをとって木川村としたといいます。

木川の堤防周辺を歩くと、明らかに平坦ではなく隆起している場所があります。今まで見てきた中で一番変化がある所です。古地図と照らし合わすと中津川が「への字」に湾曲していた辺りになります。湾曲した部分だけに、流れの圧力が掛かる部分で、川の決壊を防ぐため堤防をより高く強固なものにしていた可能性があります。

中津木川00
現在の地図と明治18年の地図を重ねています。中津川が「への字」になって、現在の堤防から飛び出している辺りが隆起している地域です。この地図を見ると淀川改修工事でいかに多くの村が消えていったかがわかりますね。中津町の村々です。(現在の地図はGoogleマップより)

中津木川01
現在の地図です。1は木川墓地。2、3、4は地蔵尊。5は隆起が分かる場所です。善久寺と正通院も昔から場所が変わっていないので、後の地図の場所を合わせる参考にしてください。(Googleマップより)

中津木川02
明治42年の地図です。1の墓地は田んぼの真ん中でした。3の地蔵尊は街道沿いにありました。2と4の地蔵尊は木川村の中です。鳥居が3つあります。街道の右側の木川村にあるのは産土神社と天満神社と思われます。墓地の下にあるのは、おそらく小島村の猿田彦神社だと思われます。3つとも明治の末に神津神社に合祀されなくなります。塚本地区でも新淀川に渡しが出来ましたが、木川地区も不便になったので渡しが復活していたようですね。

中津木川03
明治18年の地図。5の辺りをみると、川から堤防を越え民家までの距離が極端に短いのがわかります。他はそれぞれの距離がもう少しあります。なぜでしょうか?おそらく中津川の水面と堤防の高さには、かなりの高低差があったのではないかと考えました。だから、川からこんなに近い場所なのに家を建てれたのだと思います。そうでなければ安心して住めないですよね。

隆起001
現在の5の場所です。右の道と左の道にだんだん高低差ができていきます。おそらくここが中津川の堤防だったのだと思われます。撮影した位置は地図上の5の下の辺りから北東の方向を見ています。

隆起003
左の道を少し進んだ所。緑地帯がありました。右側に工事中の家が数件ありましたが、右側の道路沿いに玄関があるとすると、この道の出入り口は地下になります。

隆起004
高低差が少し分かると思いますが、この土自体がかなり盛ってあります。

隆起002
高低差が分かりやすい壁がありました。壁の上が先ほどの右の道の高さです。2メートルぐらいはあるでしょうか。かなり古い石垣ですね。もしかして、中津川の堤防跡だったりして…

木川墓地
木川墓地です。昔は田んぼの真ん中にあったのですが、今は敷地も狭くなって、交通量の多い淀川通り沿いにあります。ここには戦国武将島左近の供養墓とその孫で中津川の治水に人力を尽くした島道悦の墓碑があり結構有名な墓地です。

2地蔵
2の地蔵尊です。民家の横の歩道の真ん中にあります。向こうに堤防が見えます。昔からここにあったとすると木川村の中にありました。

3地蔵
能勢街道沿いの地蔵尊。昔はこの前を多くの人々が行き来してさぞ賑わっていたのでしょう。今は人通りがほとんどありません。

4地蔵
4の木寺子安地蔵尊。古くから木寺村にあった地蔵尊のようです。淀川改修工事により今の場所に移されたました。このお地蔵さんの後ろ一帯の宅地開発が始まりました。木川の町もどんどん変わっていくのですね。


(追記)
新橋
明治32年撮影。淀川改修工事前の中津川に架かる新橋と十三渡御用帳(中津町史より)
新橋の写真を見つけましたので追記します。北岸からの撮影とあるので手前が木川です。意外と川幅が狭いと思われませんか?実はこの写真、私は対岸が木川だと思っています。明治18年の地図を見ると、橋のたもとに建物が記されています。写真にも同じ場所に建物があります。皆さんはどう思われますか。

中津川3

消えた中津川 3 十三篇

十三の渡しがあった川は今の淀川ではなく、その前にこの地に流れていた中津川です。昔から中国街道や能勢街道の通行の要として「十三渡」と木川の「新橋渡」が利用されていました。


明治11年、中津川に私設の十三橋が完成し十三の渡しはなくなりました。明治後期の淀川改修工事でその橋もなくなります。その後、新淀川に十三大橋(先代の十三大橋)が架橋され、中津川は河川としての機能を失い埋め立てられていきます。中津川の跡を歩きましたが、その痕跡はまったく見当たりません。唯一、土地が隆起している地域がありました。ただ、これが中津川の堤防跡かは不明です。

中津十三01
現在の地図(Googleマップより)。
緑色の辺りが隆起している所です。1は空楽寺周辺。2は銀座通りにある地蔵尊。3はその西側にある地蔵尊。4は元今里墓地です。それぞれ歴史があり、昔からこの地にありました。当時どの辺りにあったかをみていきたいと思います

中津十三02
明治42年の地図です。中津川の埋め立てが進み、明治40年には修徳館の建設が始まっています。緑色の隆起している辺りは、この当時中津川の堤防からは離れており、大野川(中島水道)との間にあたります。2と3の地蔵尊は中津川の堤防沿いにあったことがわかります。元今里墓地も中津川と大野川(中島水道)に挟まれた場所にありました。

中津十三03
明治18年の地図です。緑色の隆起している辺りは、中津川と大野川(中島水道)との間で今里村の辺りになります。細い街道は野里や尼崎方面につながっており、この道しかありませんでした。この地域は昔から水害の多く、少し小高い土地を利用して今里村の集落が出来たのかもしれません。1の空楽寺は、まだここにはありませんでした。

ガレージ神社
1の空楽寺の横のガレージの中にある地蔵尊です。いつからあるのかは不明ですが、昔の今里村集落の中心に位置するので、由緒あるお地蔵さんかもしれません。

空楽寺
空楽寺。1577年に開基とあります。1908年(明治41年)に西区からこの地に移ってきました。

空楽石垣
空楽寺の敷地内にある石垣。この地が平坦でなかったので家を建てるときは、こんな石垣があちこちにあったのではないかと思います。

隆起01
空楽寺の裏の私道。写真ではわかりにくいですが、隆起しています。

隆起02
上の写真の反対方向からみた写真。撮影場所自体が少し坂になっていて、この路地はさらに隆起しているのがわかります。

隆起03
さらにその下から見た写真。左の家をみると高低差がわかります。この道の後ろは大野川跡の道路になります。北から南方面を見ています。

銀座
2の銀座通りにあるみかえり地蔵尊。お社が新しくなりました。

風呂近
3の福智延命地蔵尊。目立つ場所にあって、子供の頃から一番親しみのあるお地蔵さんです。

元今墓地
4の元今里墓地。いつからこの地にあるのでしょう。今里村のお墓です。

神 州 橋(洲到止の渡し)

地域と近隣の主な出来事
ようこそ上杉のホームページ へ!( 写真集で綴るわが町紹介)

木造でジャリを引きつめた橋
1957年(昭和32年)の写真




昭和10年11月竣功の碑が建てられています。三国橋が明治時代であるのと 比較すると大分遅い架設です。長老の話では当時の若者が 橋を架けると川むこうへ遊びに行って、村が空っぽになることが 予測できたので、橋を架けるのをためらった。と言われています。 昔、男性が遊びに行く所ってどんな所だったんでしょうね! うふふ・・





神 州 橋 竣 功 記 念 銘


庄 内 村 長岸 岡 庄 一 郎
橋梁架設委員 
村 会 議 員瀬 川 庄 平
洲 到 止 区 長上 島 富 平
村 会 議 員中 井  要
有  志後 藤 常 吉
有  志中 井 吉 次 郎
 昭和10年11月












1955年(昭和30年)に庄内町は豊中市と合併しましたが、大阪市と合併したいと いう人たちや庄内町のままでいたいという人たちが、豊中市との合併に大変激しく 反対する運動がおこりました。庄内町議会は豊中市に合併することをきめたのですが、 丁度私の親父が議会の副議長という役目についており、反対運動者の矛先となり、 自宅にまで提灯デモ隊がおしよせ門の入口を蹴破られました。私は中学3年の時でした。 親父たちは危険を感じ非難していましたが、残りの家族は大変こわい思いをしたことが、 記憶に残っています。






中島大水道 他のブログ

http://www008.upp.so-net.ne.jp/niyu-ken/untitled82.htm

     中島小橋踏切

東日本大震災  台湾からの200億円を超す援助があった。 


東日本大震災  台湾からの200億円を超す援助があった。 
 
  第2次世界大戦時には、東南アジアの諸国を植民地からの独立を目指して、戦争をしたことも言われている。

 台湾は日清戦争で日本が割譲を受けた。
 それまで、植民地だった台湾を開放する。
 台湾協会が発足した。会頭に第2代台湾総督だった桂太郎
 台湾での起業を後押しする方針をかかげ、台湾の産物の収集、陳列などに力を入れた。またそのための人材育成を目指し33年、台湾協会学校を設立、桂が初代校長となった。後の拓殖大学である。


新渡戸を児玉台湾総督が推挙し、
半ば強引に彼を台湾総督府技師として迎え入れた。

技師と言う役職は、官になるのを嫌がった新渡戸の希望だとも言われている。
それが明治3年、彼が39歳の時の事である。
台湾へ渡った新渡戸は、半年かけて全島を巡り、
殖産興業の要は製糖業にあると確信した。



調査の後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、
欧米諸国及び,その他の植民地の製糖設備を調査して歩いた。
帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、
殖産局長心得を学んで帰ってきた。
  
製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、
栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」
児玉総督と後藤新平に提出した。

台湾糖業の発展は新渡戸の改善策により、
品種改良開始から11年目には砂糖生産量が6倍になったと言うから、
彼の貢献度が相当なものだった事が判る。「台湾糖業の父」


その後の技術向上により、日本領台前には年間5万トンだったが、
昭和11年から翌年の最盛期には、年産100万トンを越えた。

五千円札の肖像ともなった。
   

黄文雄氏著 「台湾は日本人がつくった」より

台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市台南市高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。

1918年(大正7年)、八田台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。

烏山頭ダム。下村海南によって珊瑚潭の美称が与えられている(2004年3月11日)
2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も八田によるものであった。また、八田の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。
1939年、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍潜水艦グレナディアーの雷撃に遭い撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。沒後贈正四位勲三等が贈られた。
日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。
日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。また、現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。住民々意と周囲意見で出来上がったユニークな像は、固辞していた八田本人の意向を汲み一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置された。その後国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。今は台座上に修まる銅像の経過や、八田が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、八田の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。
中学生向け教科書認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢も訪問した。2007年5月21日に陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。また馬英九次期総統(当時)も、2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った[1]。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の森喜朗元首相が参加した[2]。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された[3][4]。宿舎は一般公開されている。
顕彰事業は妻の外代樹にも拡大され、2013年9月1日、八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立された。
八田の業績と嘉南の人たちとのふれあいを取材したテレビ・ドキュメンタリー「テレメンタリー96 たった一つの銅像 〜衷心感謝八田與一先生〜」が 1996年(平成8年)6月30日にテレビ朝日系列で放送された。2008年には、八田を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」が制作された。


文化財保護に尽力した日本人最後の台南市長

政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生
miwa鄭成功所縁の都市
 多くの古寺廟や近代的建造物が併存する台南市は、「台湾の京都」と呼ばれている。何とも言えない風情と趣があり、随所に台湾400年の足跡が残されている。中でも至る所で目にするのが、17世紀半ばに台湾を支配していた鄭成功所縁の史跡である。
 鄭成功と言えば、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」の主人公のモデルで知られる。長崎県で中国人と日本人のハーフとして生まれ、7歳の時に父親の鄭芝竜の故国である中国に行き、その後、文武の道を究め、軍人となる。
 「反清復明」をスローガンに、当時、滅亡の淵にあった明朝の再建に向けて孤軍奮闘し、清朝に徹底抗戦を挑みながらも大敗を喫し、勢力立て直しのために台湾に向かった鄭成功は、1661年4月、この地を占拠していたオランダを駆逐し、鄭氏政権を樹立して、今の台南市を「大陸反攻」の本拠地とした。39年という短い生涯だったが、台湾では、孫文、蔣介石と並んで「国神」として崇められており、中国でも英雄扱いされている。
 台南市には、そんな鄭成功の歴史的遺産が数多く残っているが、中でも観光客に人気なのが、オランダ人によって築城された赤煉瓦造りの楼閣「赤嵌楼」である。「紅毛楼」とも呼ばれ、原名は「プロヴィンティア」、鄭氏政権の時に「東都承天府」に変り、その当時、行政庁舎として使われた。国家1級古蹟に指定されており、台南市のシンボルとなっている。
 その赤嵌楼の中に1人の日本人の胸像が置かれている。日本統治時代末期に台南市長を務めた羽鳥又男である。これは奇美実業のオーナーである許文龍の作品で、羽鳥の生誕100年を記念して2002年4月に寄贈されたものである。

  • 台湾
    • 台北水源地水道喞筒室(現 自來水博物館、1908年、台北市、市定古跡)
    • 台南郵便局(1909年、台南市、現存しない)
    • 総督官邸・改築(現 台北賓館、1912年、台北市、国定古跡
    • 台中州庁(現 台中市政府、1913年、台中市、市定古跡)
    • 専売局(現 台湾菸酒公司の本社、1913年、台北市、国定古跡
    • 台北州庁(現 監察院、1915年、台北市、国定古跡
    • 台南州庁(現 国立台湾文学館、1916年、台南市、国定古跡
    • 台湾総督府(現 総統府、1919年、台北市、実施設計を担当、国定古跡

  • 日本
    • 旧久邇宮邸(現 聖心女子大学パレス、1924年、東京都渋谷区、登録有形文化財)
    • 本所公会堂(現 両国公会堂、1926年、東京都墨田区)
    • 新宿御苑 台湾閣(1927年、東京都新宿区、都選定歴史建造物)
    • 旧蜂須賀邸(オーストラリア大使館、1927年、東京都港区、現存しない)
    • 片倉館会館・浴場・渡廊下(1928年、長野県諏訪市、国の重要文化財
    • 東京歯科医学専門学校(東京歯科大学水道橋校舎、1929年、東京都千代田区、現存しない)
    • 東京弁護士会館(1932年、東京都千代田区、現存しない)



後藤 新平    阿片漸禁策

社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。

1907(明治40)より1916(大正5)年と、1924(大正13)より1932(昭和7)年の2期に渡って台湾で美術教育に携わり、同地の近代洋画の祖としても仰がれている。


塩月桃甫 しおつき-とうほ 1886-1954 大正-昭和時代の洋画家。

明治19年2月27日生まれ。愛媛師範,台北高などで教壇にたつ。大正5年文展に初入選,台湾では総督府美術展を創設。戦後宮崎市にすみ,県美術展の審査員をつとめた。昭和29年1月22日死去。67歳。宮崎県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。旧姓は永野。本名は善吉。別号に木兆(ぼくちょう)。