2012年12月6日木曜日

千里丘陵の歴史

千里丘陵の歴史
千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしない。丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められない。丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられる。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようである。また丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれた。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っている。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できる。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話がある。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられる。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像される。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句がある。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われる。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座である。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられる。社伝には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したという。これは伊勢の国山田の原の名を移したという説である。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたい。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられる。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺がある。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとある。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定される。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでている。
室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録がある。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章がある。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の楫の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称した。遊びとは遊女である。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしい。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしている。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるいう。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれている。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいる。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過している。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地であった。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めた。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築いた。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できる。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村があった。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生した。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熈の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗邑に移り、享保8年5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納した。
明治4年7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となった。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示している。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年内務省が編集した「群村誌」や明治13年「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、糯、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、蕨、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、葱、水菜、蕪、4月菜、蕃椒等の作物がしるされている。
           (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
 
 千里丘陵の昔 Ⅰ                                                                       2010年2月8日月曜日
千里丘陵の昔 Ⅱ 展示(南千里) 一度はおいで下さい。        2012年9月23日日曜日
千里丘陵の歴史         
 

三谷照男水彩画回顧展2

案内が届きました。
「塔建立」 高松市立美術館買い上げ品
2012.12.12(水) ~ 12.17(月)
案内文
 昨年、10月の回顧展に次ぐ2回目の展示になります。
 漁港と志度寺などの風景画で地位を高めた父、照男です。高松、豊中、池田、大阪、神戸市など各地の風景を描き、自然に対する憧憬と感動を伝える表現にしています。
 画材での光と影の表現、草木の重なりや水面、空の輝きなど、水彩画の特色を充分に生かした表現方法を使い、多彩に描写しています。また、技術の高さを示しながらも評価されなかったもの、色彩の変化、遊びをした作品も今回は展示します。
 2011年1月、92歳で他界するまで、毎日、絵筆・鉛筆を持ち、病身を背負って画家を志し、実現した半生でした。
 多数の方々のご来場とご高覧を賜りたいと思います。
 
前回の回顧展
(池田市立 art gallery  IKEDA)
阪急池田駅構内2階
 
****************************** ブログ移動中 三谷照男で検索ください。
 
  
 
 
 
 


2012年12月4日火曜日

中学生の主張 外交問題 Ⅱ


10. 竹島は日本固有の領土であり、領海線とか線を各国のよって勝手に作られ、あたかもそれが昔からあったかのように韓国は竹島を奪い取り、しまいには竹島周辺でとれるホタテなども考えもなく全て取り、ホタテは取れなくなってしまっている。これは今でも問題で、今、解決すべきと思います。 

11.外国との仲が悪すぎると思う。まずはもっと自分たちの意見を共有することを専念して欲しい。 

12.政治家は自分の考えは、ズカズカ云うけれども結局行動には移るてない。原発や消費税の政策を行動に移せば日本国民の政治に対する態度も変わってくると思う。

13.領土問題  裁判を強制的に行う。

14.北方領土を早く解決して欲しい。 昔から日本の物になっているのに今更、ロシアの物と云っても遅い。 日本はもっとはっきり意見を言うべきだと思う。

14.政府が弱気な姿勢を見せているから領土問題が解決しないのだと思う。日本の領土
だから中国・韓国にもっと強気な姿勢で臨めばいいと思う。

15.政府は外交に弱腰だから日本の領土なのに他国の支配されている島などがある。だから内閣はもっと外交に強い人・姿勢を任命すべきだと思う。

16.現在の問題は 政治の不不安さだと思う。外交問題に取り組みまず、国の政治を安定させた法がいいと思う。

17.いろんな国に訴えたいいと思う。

18.政治が現在一番の問題だと思う。なぜなら、

19.尖閣諸島の経済水域に毎日中国の船が入ってきていること。

中学生の主張 外交問題 Ⅰ

中学生の主張 外交問題 Ⅱ

中学生の主張 Ⅲ

2012年12月2日日曜日

いいものを貰いました 三谷照男水彩画 が部屋を飾る Ⅱ

2枚目の絵 「白木蓮」 
      三谷照男水彩画
額がようやく届きました。 1っ月かかりました。
特注でした UVカットのアクリル板 前回よりひとまあり大きい額縁です。
    さっそく部屋に飾ります。
裏書 「白木蓮」 平成4年3月27日
日本水彩画元審査委員 三谷照男

千里中央で買い求めました。
  
床でまず 写真を
もう一つの絵が飾ってあったところ 一時的に飾ります。
なかなか いいものです。気に入りました。
掛ける場所がありません。 反対側は 壁がコンクリートですので
接着剤で止めなければなりません。 今から買い求めます。  
 



秋が 絵画鑑賞へのお誘い    2011年9月5日月曜日
三谷照男水彩画回顧展 Ⅰ   2011年9月30日金曜日
 


エコか  ある夜景  天罰か 今夜お通夜 

8/9日の当マンション
節電 節電 と言われていますが ここはそんなことはありません。
夜遅いですが 電気煌々 ゴミ捨て場も24時間点灯中です。  
節電節電です。 このマンションでは無関係のようです。

先週から 毎週のよう救急車 今日はこのマンションの住民のお通夜  
その住民は 同じ住民であって、6年ぶりに再開しても
挨拶もしないし、本人でなく他の人が 私に声をかけようとする人も呼び止めてその人が私との接触を嫌がる。また、通りでは私の影を見たら目をソラし、こここそと隠れる。犯罪者の行動の人でした。
同様な人が このマンションにはたくさんいます。 そのような人は年金生活者ですが
私も年金生活者ですが とうていあのような 服装、外食、振る舞いは出来ません。
それも 高級車に乗り、服装も一般の人とは違います。 3丁目に住む様相です。
それであれば  「桃山台3丁目」に住むべきです、
そのような住環境、生活環境が出来るのでしょうか! いや違うのでは
 話では 賛成者、主に主になっていた人は 「マンションの一室を貰っている。」
という話も聞いています、 ですから その他 賛成人は (私に挨拶できない人)
 そのような 話があると思うのですが、それが一般的でないでしょうか!
それで 何かイイコトをしていたのではないでしょうか!その
        天罰でしょう!
このような人は 後ろめたいことをしたのでしょう。
しばらくその人を見たいなかったが
訃報です クモマッカ出血で死亡。寝たきりのお母さんを残し
ここで
 日本では自殺者などには罵声を浴びせないのが一般的である、
に対しての尊厳を持っているから。
 絆  「人の命」 現在の日本には、東日本震災後 「絆」をいわれているが
ここにはない!開発から40年 隣とのかかわりももない、それを求めようともしない、それらを打ち砕いた人たちがいるから。
人と人とのつながり 人と自然とのつながりを大事にしない人、自分こことしか考えない
江戸時代にいわれ、私たち高度成長期の者には「向こう3軒両隣」
6畳一間が一般的でした、
  万博で一変し、3C時代です。 仕事に打ち込んだ結果 現在があります。
 金とのつながりを大事にする人には 私は近所付き合いをしたくない。
私 36年間働きましたが、年金は「生活保護家庭」の金額を下回ります。

 後世に残そう自然と絆(村の絆)を
人生80年 山田村は江戸時代前から歴史が違います。

我が人生 この世は仮り住まい 

 後世に残そう日本人を心を、自然を

もう一つ 私も初めてのことですが