2009年10月31日土曜日

道標・石仏

石仏調査ハンドブック
 庚申懇談会

2009年10月30日金曜日

元興寺文化財研究所

ファックスをお送りしました。(原稿は下方)   すると、下記の物が送られてきました。

大変ありがたい事です。これで、又一歩前進です。

ファックスの全文を載せさせていただきます。 が本人の了解を得てからにします。

家のファックスは用紙に裏紙を利用しましたので、文字の一部が読み取れません。そのまま載せます。


撮影 2009年11月8日

去る、10月15日に当方へファックスいただきました件について、私の分かる範囲でご回答させていただきます。

◎ 「道標」について
「道標」に関する基礎研究はほとんどありませんが、各地の自治体史(『○○町史』のような書物)を丹念に調べていくことで類似の事例を探し、そこから年代を導き出す必要があります。しかし、すでに相当量の「道標」をすでにお調べのご様子ですので、調査された物の中で年代の判明している物を抽出し、それに似た形、似た書体などを参考に年代を決定してゆかれれば、判明する物も多いと存じます。

 「道標」に地蔵が伴うというのは、明快に把握できておりません。地蔵さんは近世には何でもお救い下さるありがたい仏様と位置づけられ、全国でたくさん造立されるようになります。おそらく、交通の安全を願ってのことかと思います。余談ですが、地蔵さん自身が道標になっておられる例もあったかと思います。
 地蔵さんをはじめとした石仏に関しては、庚申談話会でだされている「石物調査ハンドブック」をご参照になれば、着眼点は見いだせるかと思います。また、石仏に関する書物等はかなりたくさん出版されていますので、大きめの図書館などで探されると、いくつも見つかると思います。ただし、すべてがご期待に添うような研究ガイドではなく写真集のようなものもあります。

 一石五輪塔は、多くの研究がありますが、まとまって書物になっている物はなく、「歴史考古学」や「史跡と美術」、「日引」といった石造物を専門に扱っている雑誌から探索していただければと思います。
 が、一石五輪塔の多くは16世紀初頭をピークとして出現してきますので、その前後数十年の幅で収まると思います。ただし、一部地域には江戸時代中期頃にピークをむかえるものもあり、注意が必要です。

 ちなみに、「交野市の石造文化財」については、当方が出版しているかのようにご理解されておられますが、当研究所は作成には全く関係しておりません。刊行は交野市教育委員会さんです。その制作に直接関わっておられた内田氏とは面識があり、いくつかご意見させていただいたことがある程度です。とうほうのめんばーのまなえもでておりますが、色々お話をさせて貰った程度です。内容の詳細は、交野市教育委員会にお問い合わせ頂ければ幸いです。
 
 なぜ唐臼土台に利用されたかはわかりません。ただ、戦国時代を中心に石塔や石物が建物の基礎に使われたり、石垣に埋め込まれたりする事例がたくさんあります。先勝記念的に敗者の墓標を破壊する行為だとの説もありますが、現代とちがって石物や石塔に霊魂が宿っていると言う観念が薄かったようで、転用している事例はかなり多く見られます。たまたま転用されたのが、唐臼だったということではないでしょうか。

 なお、くぼみがどのようなものか分かりませんので回答しょうがございませんが、病気や怪我がなおるとか、縁起がよいとか、いろいろな理由で石仏や石塔、墓石を削ってそれを飲んだりするような風習が見られます。くぼみの場所や形状によっては、そうした可能性も視野に入れる必要があると思います。

 以上 ○○回答で申し訳ございませんが、ご寛怨ください。
取り急ぎご回答します。  
 狭川真一@元興寺文化財研究所

メールいただきましたが、戻ってきてしまいましたので、ファックスいたしました。
 



私が送付 文章

元興寺文化財研究所
所 長 御中
豊中市立第十三中学校
〒560-0055中市柴原町2丁目14番1号
06-6843-7061
ファックス 06-6857-4997

お教え下さい。
 私、豊中で趣味として北摂の「道標」を調べその結果をhpにあげています。
現在、川西市、池田市、豊中市、箕面市、吹田市、茨木市の一部、高槻市の一部を調べ上げました。 そこで、道標に年代が記載されていないものが非常に多いことで困っています。また、道標を調べると必ずと言っていいほど近くに「地蔵」が祭られています。地蔵でも同じく年代が分かりません、時代を判断できる資料があればいいと思っています。
   つきましては
 貴研究所が「交野市の石造文化財」で石仏の年代が書かれていました。
石がん仏については時代分析を文化財Ⅱで詳しく述べられておられます。
地蔵などの時代分析されている資料として、教材がありましたらお教え下さい。
年号のない一石五輪塔一部、地蔵の時代判断の元になる考え方をお教え下さい。
また、教材として、この本を読めば分かるものがありましたらお手数ですがお教え下さい。

2点目 仏がただの石?
野の地蔵などに、くぼみのある物があります。これは、地蔵が唐臼土台に使用されたとあります。現代の考えとしては考えにくいことですが。なぜ、地蔵が唐臼土台に使用されたかお教え下さい。

私のhp
道標 
http://space.geocities.jp/fkyws889/framepage13.htm
自宅  565-0824 吹田市山田西4-4-14-514
ファックス兼用 06-6876-5859


                 元興寺(がんごうじ)

************************ 奈良に行ってきました。

電話での話の最後に
      「一度は 奈良においでください!」

それに誘われて


 紅葉の 奈良 正倉院展


2009年10月29日木曜日

地蔵 石がん仏  市場池の祠

市場池の祠 3
扉のある 「石がん」  

扉の内側になにか書かれています。

もう一つの祠  お地蔵さんです。

3つ目の祠

その他の石仏

気になったのは その中で一番大きい

傘をかぶっていたようです。

最近は、これらの石仏の年代がわからないかなと考えています。


「石がん仏」はこちら
市場池の祠  2009年10月29日木曜日
また新しいことが 石龕 
元興寺文化財研究所 2009年10月30日金曜日
泉大津市  多くありました。2009年11月11日水曜日
西宮市  2011年1月30日日曜日
山田市場の地蔵塚???? 吹田で唯一「石がん」、 2013年9月5日木曜日
交野市の石造文化財 Ⅱ
 

2009年10月26日月曜日

「道標」は、地図のない時代に街道を行き交う人々の案内として、重要な役割を果たしていました。
上新田では、新しく見つかった道標を含め5つの出口にそれぞれ道標が現存しています。上新田の古老西島修蔵氏に聞きますと、道しるべは「昔は、北に行ったところ辻辻に道標が立っていた。」とは語っておられます。このように村々には出口で行き先を記す、「道標」があったようです。そのことを残す貴重な資料が「旧上新田村」に見ることが出来ます。このことは、本市及び他市にはない数少ない例の一つです。
 宝塚市の小濱は宿場町として栄え、各出口に「門」が存在していたが、出口道標も何個か残っている。
 高槻市は、出口名が地名として残っている例もあり、出口道標もいくつか残っています。