2016年3月19日土曜日

洪水の碑 重修桜堤碑 探索結果 04/10 築堤碑・修提碑追加04/08 

淀川に碑がある
高槻側の枚方大橋の下流と
早速行ってみます。   みやたりません。

 ここは、国土交通省淀川河川事務所  高槻出張所

「ニツ樋」
 大正九年五月竣工


淀川筋官道???


大正6年大塚切れの洪水記念碑



裏は




今日はきれいにしたあります。
以前の状態はこちら

長柄に向かいます。 

無村誕生地 淀川左岸 毛馬

明治18年の「枚方切れ」碑
「澱 河 洪 水 紀 念 碑」

桜宮神社内


「重修桜堤碑」判らず。修正
こちら




明治18年水害を伝える碑

淀川最下流から枚方まで6つ

 重修桜堤碑、 此花区春日出中3丁目1 春日出共同墓地内  大阪市
                        04/10 実施 調査予定 
この碑にも 説明版がない。


 淀川大洪水記念碑、        東大阪市
           徳庵橋の東、鴻池新田(新開池跡)の西の端にあたる場所?
                     2016/04/09  調査   
    
       
 墾田紀功碑、       東大阪市
                      2016/04/09  調査 


④ 赤井堤記念碑、 調査予定  寝屋川市
 2016/04/09調査

⑤ 修堤碑調査予定  2016/04/08調査
築堤碑・修提碑  2016/04/08

⑥ 明治十八季洪水碑)



説明版のあるのは   2基 高槻市だけ

   歴史のある大阪市でも
       説明版がありませんでした。

あるhp にさらに追加として
 ⑦ 明治十八年洪水記念碑・安堂

2016年3月14日月曜日

世界初 大阪発

大阪発 世界初

インスタントラーメン  池田市

ロボット  大阪市立科学博物館


自動改札機 北千里・吹田市

2016年3月13日日曜日

びっくりぽんや! 「あさが来た」 北浜界隈探索会

3月例会の御案内
 NHK「あさが来た」ゆかりの北浜界隈探索
   大同生命の資料室展示は3月末まで
      大阪市役所1Fロビーで 「真田丸パネル展」こちらも 3月末まで
  次回の予告 「真田丸」上町台地を行く パート①

実施日  3月22日( )10時 阪急梅田 ホームの先頭の改札口
コース   お初天神、道路元標、北新地界隈、ビールの発祥地、堂島川、ガーデンブリッジ
       フェスティバルホール、錦 橋、大同生命本社ビル
       西横堀川、淀屋跡、日本銀行、市役所ロビー(真田丸)、
昼食会場 市役所地下2F
       (続き) (碑)関一・元大阪市市長、東洋陶器美術館、(碑)
            地下鉄北浜駅・証券所跡、今橋、高麗橋、三橋楼、熊野街道
            八軒屋船着場跡、地下鉄天満橋   解散





びっくりぽんの広岡浅子
 加島屋かじまや  「加島銀行」・池田支店 昭和恐慌で廃業  「潤野炭鉱」、「尼崎紡績」(ユニチカ)、「日本女子大学校」  

目指すは 高麗橋道路元標
 





 
  

 

次回は 「麻田丸」

真田丸

木邨重成表忠碑  中之島公園 旧在所 豊国神社内
 

平五・十兵衛横町  開平小学校前
 江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。

懐徳堂跡 日本生命ビル南側壁面
  享保(きょうほう)9年(1724)中井甃庵(しゅうあん)らが創設した学問所。篤志の大坂商人の協力を得ながら、明治2年廃止されるまで145年にわたり人材を育てた。塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人のことも考え遅刻・早退も自由であった。中井竹山(ちくざん)・履軒(りけん)・五井蘭洲(らんしゅう)・持軒(じけん)らすぐれた指導者が多く、門下生として富永仲基(なかもと)・山片蟠桃(ばんとう)らを輩出している。現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている。

緒方洪庵 
  洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。

五代友厚の銅像   東京で死亡  墓は天王寺墓地
大阪金相場会所跡  大阪証券取引所入口
 江戸時代の貨幣制度は、大別すると計数制と秤量制であった。金は両(りょう)、銭は貫(かん)、銀は秤ではかる匁(もんめ)など複雑な面があった。その上、関西は銭、関東は金と流通範囲が自然に分かれていた。そして相互の交換は法定されてはいたもののあまり信用されず、実際には相場が立てられそれが標準になった。そのため金相場の会所は存在価値が高かった。会所は最初高麗橋付近にあったが、のち現地に移り(寛保3年、 1743)、維新後、銀目取引廃止にともない閉鎖された

里程元標 
 江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。

泊園書院(はくえんしょいん)
 江戸時代から、中井一族による懐徳堂、緒方洪庵の適塾と並び称された私塾である。藤沢東がい(とうがい)が文政8年(1825)開いたもので、一時中断はあるが黄鵠(こうこく)・黄坡(こうは)ら4代、140年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献した。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に泊園文庫」として保存されている。 南岳の孫 黄坡の長男、藤沢桓夫(たけお) 

花外楼:大阪会議開催の地
 明治維新間もないころ、新政府の方針をめぐり混迷をきわめた。体制を固めようとする大久保利通(としみち)は、当時反対を唱え下野していた木戸孝允(たかよし)や板垣退助を引き入れるため、伊藤博文・井上馨(かおる)らとともに、明治8年大阪で会合した。紆余曲折(うよきょくせつ)を経た会議は1カ月にも及び、ついに2月11日孝允の常宿、花外(かがい)楼(加賀伊を孝允が改称させた)で妥協した。これを称して大阪会議というが、ここでの話し合いも長つづきせず、6カ月後には再び混迷度を増したが、この会議は立憲政体を宣言した意義あるものであった。  三橋楼

八軒家船着き場跡   永田屋昆布店前
 天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに8軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和20年ごろまであった。

熊野街道