2014年6月14日土曜日

源流を求めて 堰と原田井の碑 九名井は通じた 

 前回 6/11 ちょっと気になりました。 これ堰です。
箕面川が猪名川と合流した下流にあります。
気になっていたのですが 当日は写真はありません。今日 再度撮影に

もう一つ 伊丹側にも取り入れ口があります。
そうですね、堰・ダムがないと 水を取り入れくことはできない。

 魚道と堰

堰から水門まで 遺構ではなく現役の樋となります。 
次に、名称等については、この碑が決めつけました。

結果は そうなりますが ここからだと大分遠い、豊中への道が長い
この碑には フェンスがあり、近づけません。 一般の人が見れるようにしてほしいものです。

これが決めて  「猪名川土地改良区連合の碑」
次のようなことが記載されていました。

豊中市原田井土地改良区

伊丹市九名井土地改良区

伊丹市森本井土地改良区

     三ケ井統合三十周年記念(統合1960)

  平成二年五月三十日 (1990) 
   
     前回 読み取りにくい  再度 撮影に 6/13

右側面には

豊中市水道局

伊丹市水道局 


下記の写真のように 新しいデジカメの威力です。 役に立ちました。
前回のように 読めませんでしたので角度を変え、何枚も撮り、カメラでチェックして
下記の写真です。

これがあったおかげで、市役所に問い合わせることも少なく、図書館で調べる必要もありません。
ここの樋 が 何故ここに 水路が後どうなっているのが必要だと思います。
水路の略図、説明版があるといいですね!

さて、次は水路は本当か 確認に出かけます。
一つは 交差点「空港地下道西」の水路の先の問題と
原田の九名井に通じる水路を探します。
が、一つ資料で 桑津村(現伊丹市)領堤に取樋口を設けている。というので
箕面川の合流から桑津橋までは 先日の調査で 樋が3ケ所
桑津橋から神津大橋  猪名川橋まで
 
神津大橋 下流を調べました。 
樋はこれだけでした。 雨水排水口  ここの間は取り入れ口はありません。
まずは、地図から見ると、空港の中、三反長が怪しい。

 この水路です。 空港川
 
 鯉がたくさん ここに水が溜まっています。 フェンスの中の水路は
 
上流から水をたたえた水路が2本 
 その下を別な水路がありました。
樋が2基  そのうちの1基が原田に通じているようです。
直線で引けると思います。 やったー これだ!
説明板があるといいのですが! 「とよなか・歴史と文化の会」さんお願いできませんか! 
地図で確認してください。 ここは 「三反長」・「岩屋北西」
https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zJe5zO0j1xvQ.kNWlh8Bf9rfM

後は 空港地下道交差点から この地点までの確認で それはいいのでは!
「空港地下道西」交差点に行きます。
 
交差点の北側から 道路を横断した水路2基 このように流れ込んでいます。
もうひとつ 少ない水の大きな水路がありました。
 
今日は 小学生がいっぱい 校外学習です。
水路はこのまま 伊丹スカイパークの前を三反長に通じます。

今回も遊ばしてもらいました。 2カ月かかりましたね!
疑問、ミステリー どちらでもよいですが! 疑問が解決したのですから。
祝杯を上げます。 やったー やったー
時間がかかった分、やったーの気持ちが大きいことがわかります。

大きな成果は 堰  と  碑
証明するには証拠が一つでは頼りない、多くの資料・証拠があるといいが
今回は これで納得いただけだけると ものと思います。
 こんなところに 原田井土地改良区の名前が
この碑、一般公開して欲しいですね。
ここにも 案内板があるといいですね。
地図入りの案内板であればもっといい。
要望先は 伊丹市、豊中市の水道局のダイレクトよりも
各市の相談窓口に申し入れが良いです。


空港によく出かけました。そのおかげで、新しいスポットも見つけました。

下の地図は江戸時代の地図です。 伊丹スカイパークで見つけました。
岩屋遺跡と神津の歴史  広がる田園
右上から西へ延びているのが「西国街道」
 
岩屋遺跡と用水遺構  
 
右下に江戸時代の地図に九名井の水路が描かれている。
取り入れ口は 中村である。
土地の区割りが非常に大きい 条里制の名残




 離陸

これまでの経過
 きっかけ 豊中の町案内で探索  3/11  自前の案内板

下流 現役の伏越樋 九名井   豊中市                        2014年4月22日火曜日    

中流 源流を訪ねて 九名井は     2014年6月9日月曜日

下流 源流を求めて 九名井の伏越樋     2014年6月12日木曜日


上流 源流を求めて  九名井は通じた  2014年6月14日土曜日

無料講演 「吹田の歴史」の案内 3代

「新田公民館」にて下記講演
6/25(水) 10時30分 ~ 「吹田の現代史」 講演 中牧 弘充氏
7/2 (水) 10時30分 ~ 「千里山住宅」     講演 藤井 裕之氏   

東山田公民館
6/27(金)  13:30~    「行基と吹田」 講演 中牧 弘充氏

空港川の橋


豊中市 「豊中の史跡たずね描き」  1992

 この本は 豊中市立教育研究所が発行し、各学校に配布された。図書館にはあるが、一般に市販されていないもので、長年 豊中の郷土史を教えるのに副教材として使われてきたものです。
このような、世間には名が通っていないが、その道の者はその本のことは、よく知っている。
本人は70歳を過ぎたころから、病気になられ、その為「福西氏の講演があった。」などの話は聞かなかった。 2008年 私がその原画に遭遇し、長年のデジタル化を試みました。
出来上がったその本が「福西茂画集」を編集しました。その本を御嬢さんが病床の本人に渡されたら、頷きながら「泪を流していた。」と御嬢さんから聞かされました。 その後、他の地区の福西さんの画かれた絵の行方を探してみました。その結果、上記の地域から資料が得られました。
ですが、福西さんの本は知っていますが、話など一般に世間に知られることなく、この世を去られました。 今一度、「とよなかの歴史・文化財 ガイドブックの」元になった「豊中の史跡たずね描き」を再度公開し、福西茂氏を豊中の文化人・人物として捉えてみたいと思います。



より大きな地図で 上新田の道標 勝尾寺街道 を表示

千里丘陵

千里丘陵の特徴

ニュータウンを開発した千里丘丘陵地区は大阪市の中心から約15キロのいわゆる千里丘丘陵の一帯にあたる。この地区は六甲山脈が北東に伸びた北摂の山脈から大阪平野に突出隆起している洪積台地で、東側は東海道本線、名神高速道路、西側は東豊中の丘陵地帯、北辺は国道171号線(西国街道)によって囲まれている。行政区域は東は吹田市、西は豊中市に属し、北は箕面市に接している。
千里丘陵は、地質学的には洪積層である。大阪盆地のまわりには高さ100メートルくらいの丘陵地帯が散在し、これらを大阪層群と呼んでいる。
大阪層群は比較的凝固度の低い花こう岩質の荒い砂ないし中粒の砂、砂れき、淡青色の粘土、などからなり、薄い凝灰岩層を数枚はさんでおり、その基盤は花こう岩である。また大阪層群は第3紀鮮新世末(注 ~170万年前)から第4紀(注 170万年前~)にかけてできたと考えられ、その後数回にわたり氷河期における海退と陸化、山地の上昇運動、さらにその侵食、準平原化が繰り返されて、現在千里丘丘陵に見られるようなもろい砂れきと粘土の混じった低く平らな丘陵地帯となった。
千里丘陵の最高地点は西北の尾根にあり、高さは約130メートルである。しかし大部分は50メートルから70メートルの丘陵で、その間に複雑に入り組んだ谷間がある。丘陵部は松、竹、果樹などの林におおわれ、低い部分と緩やかな斜面は田畑として開発された。西部には天竺川が上新田、熊野田の集落を経て東部を流れ、神崎川に合している。その南の高川の流域には下新田の集落がある。千里丘陵北部の蓮間ケ池を起点とする山田川が丘陵の東を貫通し、その流域に沿って南北に細長い山田集落がある。山田川の南には正雀川があり、山田川とともに安威川に注いでいる。これらの河川によって丘陵は大きく分けられ、その流域が帯状平野を形成している。また、この地域は雨の少ない地帯に属するため、丘陵全域にわたってため池が散在している。
               (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)

千里丘陵の歴史

千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしない。丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められない。丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられる。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようである。また丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれた。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っている。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できる。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話がある。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられる。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像される。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句がある。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われる。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座である。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられる。社伝には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したという。これは伊勢の国山田の原の名を移したという説である。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたい。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられる。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺がある。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとある。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定される。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでている。
室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録がある。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章がある。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の楫の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称した。遊びとは遊女である。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしい。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしている。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるいう。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれている。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいる。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過している。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地であった。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めた。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築いた。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できる。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村があった。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生した。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熈の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗邑に移り、享保8年5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納した。
明治4年7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となった。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示している。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年内務省が編集した「群村誌」や明治13年「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、糯、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、蕨、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、葱、水菜、蕪、4月菜、蕃椒等の作物がしるされている。
               (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)

2014年6月13日金曜日

源流を求めて 見つけました 決め手は樋・碑  九名井?(伊丹市)


九名井 今日こそは と思い、探索です。
今日はいつもとチョット違い  川にある樋を先に調べ 堤防に上り樋を調べる
2段階に分けて調べました。
ありましたありました。
その前に これは 箕面川
    猪名川との合流地点です。 水が流れていません。そんな川中を横切ります。
では 樋は上流から
      ①      ②    ③
これは 猪名川です。軍行橋の下流から イオンモールの桑津橋までに3つの門・樋が
②は排水口 のようです。


③ 堤防の上では 逆 川を上る   これは雨水排水



別件・堤防に碑が
 
千鳥なく ゐなの河原を 見るときは大和恋しく 思ほゆるかな
紀貫之 古今和歌集より
昭和58年11月
伊丹市文化財保存協会

もう一つ
中村地区整備事業  完成記念碑
内容を読むと
 1940年大阪空港拡張工事に従事した労働者(主に韓国、中国人)の飯場が建てられ、
戦後も、国有地に引き続き居住するという不正常な状態から、生活環境等の整備が遅れ、
適切な市街地形成がなされていなかった。
 2001年から2008年まで
 156世帯 361人
 碑 2009年3月


② この樋は 川に水が流れていますので 排水門となります。

③ 2枚目の写真に説明版が

三ケ井用水樋門
猪名川土地改良区連合
かんがい用水
しろかき期     6/23 ~ 7/2
普通かんがい期  7/3 ~ 10/1

これで3つの樋が分かります。 くみ取りには ③の三ケ井用水樋門となるわけです。
やったー  ではない 「九名井」でないから すると 堤防の下水路の東側に石碑が
水門と 樋 うむうむ となりますが!  ちょっと納得いきません。
豊中では原田の水路を「九名井」といっているが、この碑には 
 伊丹の「九名井」豊中の「原田井」と記されている。

飛び立つ飛行機を取ると右側に碑が
猪名川土地改良区連合の碑  ちょっと違うようだが
堤防からはフェンスが張られ 入り、確認することが出来ません。
空港横の道から入れるか見ていると フェンスがない隙間がありました。
この碑 自由に見れるようにしてほしいものですね。
フェンスがないところに来ましたが、濠が深く渡ることが出来ませんでした。
近くで見れるようにして欲しいものです。

これが決めて  猪名川土地改良区連合の碑」には

豊中市原田井土地改良区

伊丹市九名井土地改良区

伊丹市森本井土地改良区
     三ケ井統合三十周年記念
  平成二年五月三十日(1990)     
     読み取れず 再度 撮影に 6/13

右側面に 豊中市水道局
       伊丹市水道局

 また地図上ではこの地区を 伊丹市「中村」 という。
     



ここが 取り入れ口でしょう。 下流を探索

樋の裏側から堤防を見る 

水をたたえた水路が出現  
一度 空港内に入るのか 暫くすると 空港のフェンスから水路が現れる。

空港の西側を流れる水路 

左は空港敷地  道路を挟んで 並木道 その右に水路がある。
遠くに山のように見えるのは 
子どもたちの理科教育 プラネタリウムが見られる

この後は 交差点「空港地地下道西」になる。
そのページを参考してください。

次に ここからの水路が豊中にどのように流れているかが
そこを解決したら いいのだが!

九名井の源流さがしは これが ①
伏越樋


経過
 きっかけ 豊中の町案内で探索  3/11   自前の案内板

 豊中の伏越樋                        2014年4月22日火曜日    

 源流を訪ねて 九名井は     2014年6月9日月曜日

 源流を求めて 九名井の伏越樋          2014年6月12日木曜日