2014年11月15日土曜日
新聞報道 拓本 吹田メイシアター ~13 藤沢南岳 武田吾一 終了しました。
有難うございます。
ヤッター アクセス数 130000件 11/15
新聞報道 産経新聞 2014/11/12 写真1

行ってきました。 久藤さんにあいに
アンコールワットの展示・講演の依頼を致しましたが、結局 市博物館と郷土史研究会では
実現できないことになりました。
そのことのお詫びと報告、今後の活動の助言を得る為に 写真 2
ヤッター アクセス数 130000件 11/15
新聞報道 産経新聞 2014/11/12 写真1
行ってきました。 久藤さんにあいに
アンコールワットの展示・講演の依頼を致しましたが、結局 市博物館と郷土史研究会では
実現できないことになりました。
そのことのお詫びと報告、今後の活動の助言を得る為に 写真 2
今回も力作です。
写真 3
今日は 多くの人の来場です。 やはり 新聞報道でしょうか!
写真 4
吹田の歴史碑 写真 4
藤沢南岳 写真 5
この碑は 山田の「弘済院」 文:藤沢南岳 武田吾一作
今月 武田吾一 は2度目 他の展示場案内と 仙洞御料
特別展:「モダニズムの記憶-建築でたどる北摂の近代-」 ~ 12/7
仙洞御料 旧西尾邸 東の離れ
藤沢南岳 も2度目
幕末に活躍した 高松藩の儒学者 大坂の私塾:泊園書院を父から継承
「通天閣」や「寒霞渓」の命名者である。大阪市内の精華小学校・集英小学校・愛日小学校・桃園小学校・愛珠幼稚園も南岳が命名した。
東岳、南岳、黄鵠 の墓地は 齢延寺(大阪市内 生魂神社の南隣)
関西大学の泊園文庫は 初代関大名誉教授の藤沢章二郎の死後 藤澤桓夫と家族が泊園書院の書物を寄贈した。
関西大学の泊園文庫は 初代関大名誉教授の藤沢章二郎の死後 藤澤桓夫と家族が泊園書院の書物を寄贈した。
撮影 2014/09/19 写真 7
その他の碑 写真 8
豊津第一小学校風災記念碑 写真 9
教師二名 児童二八名が亡くなる。
二人の先生が児童をかばうように死んでいたことは有名な話です。
現在の敷地は 東京の西野奈良栄様という女性と
地元の 安封字吉氏が 巨額の資金で現在地を購入し、寄贈された物
豊津尋常小学校彰功碑 写真 10
千里山記念碑 写真 11
下新田開通記念 現春日町 写真 12
写真 14 左側の「右 かち」の道標 江坂西道標
右 みのを 中山
すぐ はっとり あま
背面:すぐ吹田 京
大蛇ヴァースキを引くアスラ王
2014年11月14日金曜日
A―1峠の茶屋 吹田蓮間池配水所と箕面支援学級との尾根
A―2安場池 千里中央体育館の東にある 明治の地図では池はここには 一つしかない。
A―20千里丘陵の竹林 上新田天神社 裏側を通る道 現在はマンション 正面から見て右側を敷地の外を通り、
変貌する町並み 竹藪が 昔の上新田
わたしのぶr
B-29青池 上野小学校の北側にある池B-34二ノ切池 二の切公園の西側 池の北側に碑がある。
C-18待兼山 現在は門はないが! 教養部側から・阪大の中から画いている。 右側が待兼山 左に池がある。
D-8北向いの延命地蔵尊 ????末広町3丁目
E―3能勢街道 これは マンション前に能勢街道の碑があるところだと思う。
F-33ラベンダの巨石人頭、 原野農芸研究所
F-34梵字のある大峰参拝記念道標 原野農芸研究所
33・34は 下のブログを見てください。
F-40山ケ池より興法寺を望む 昔は釣り堀 中央に祠 神刀根線 から撮影
F-57条里制の面影
F-66はりつけさらし首のあった墓地 小曽根3丁目 高川の堤防に墓地あり 奥に見えるのは生駒か
私の記憶によると 赤いレンガは 吹田街道が天竺川を渡るときの右側の墓に残っていたと思っていたが
G-18枡形堤防跡 橋の名前は西穂積橋
http://katuozi.blogspot.jp/2014/07/blog-post_6.html
G-23利倉北遺跡 分からない
G-25旧猪名川をせきとめてつくった池 猪名川風致公園
G-28上津島猪名川床弥生遺跡 発掘は陣内さんに任せます。案内板がない
H-1小曽根の渡しの碑 これは、高川にある天神様道の道標! 小曽根の渡しの碑は高川の河口・神崎川にある。でも、絵とは違う。
2014年11月12日水曜日
さらに追加 12/9 「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿 困ったな! 確認しなければなりません
横関の名前のいわれはこの中の 23番と43番の文書に書かれています。
添付は23番 1782年のもの。往古南方村濱村ニ■■■候■より
渡シ守リ候ニ付中ノ渡シと唱候■大坂
御陣の節右渡しの少し上ニ御関■■
候間より以来横関渡しと唱来り依の■
ということで...。
2つあわせると大坂の冬の陣の時、濱村と本庄村の間に堰を築き、淀川の水をせき止めた。
その時から中の渡しと呼んでいたのを、横関の渡しとなった。

元に収まったようです。 私の予想通りでした。 めでたしめでたし。
*****************************************
2014/12/9
お話のなかであった南、北の長柄村の件、西成郡史に
書かれているものを添付します。
ご参考にしてください。
P.275 慶長15年までは一つの長柄村だったようです。
添付 「西成群史」
2014/12/02 追加
東淀川区役所にある 西成郡絵図 一柳太郎氏所蔵
中島大水道の模型を撮りに
タイトル名
「ここは、東淀川区役所 中島大水道 本庄小橋、増島橋、三義人」
さらに コメントがありました。
コメント2
匿名 さんは書きました...
回答 追加11/21 まだ調べていませんが 中長柄村、南長柄村は地図で存在が分かる。
さらに追加のコメント 12/9 「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿 困ったな! 確認しなければなりません 2014/
- 横関街道 地名でない街道名(?コメント)
- 勝尾寺への信仰道
2014/12/9
お話のなかであった南、北の長柄村の件、西成郡史に
書かれているものを添付します。
ご参考にしてください。
P.275 慶長15年までは一つの長柄村だったようです。
添付 「西成群史」
2014/12/02 追加
東淀川区役所にある 西成郡絵図 一柳太郎氏所蔵
中島大水道の模型を撮りに
タイトル名
「ここは、東淀川区役所 中島大水道 本庄小橋、増島橋、三義人」
さらに コメントがありました。
コメント2
先のコメントを投稿した者です。 大阪府全志 巻之三 480頁 西中島村 大字濱
の項に次のような記述があります。
字地に文納、横關といへるあり。
の項に次のような記述があります。
字地に文納、横關といへるあり。
明治29年度より着手せられし淀川改良工事の為め、弐拾六町五反弐拾五歩の地は買収せられて同川敷となる。
「淀川改良大阪市西成郡之内買収図」で見てみると、文納は見つかりましたが、横關は見つかりませんでした。
江戸時代、横関は濱村の分村で、横関村を名乗っていたが、橋も架かり渡しの通行量が減って、衰退し、濱村に吸収された。
とみるのが妥当と思われます。
場所は明治18年の地図で、旧東海道線と横関街道に挟まれた、三角形の頂点にある集落
ではないでしょうか?(推測です)
以上
「淀川改良大阪市西成郡之内買収図」で見てみると、文納は見つかりましたが、横關は見つかりませんでした。
江戸時代、横関は濱村の分村で、横関村を名乗っていたが、橋も架かり渡しの通行量が減って、衰退し、濱村に吸収された。
とみるのが妥当と思われます。
場所は明治18年の地図で、旧東海道線と横関街道に挟まれた、三角形の頂点にある集落
ではないでしょうか?(推測です)
以上
中津川の右岸は 薬師寺村、濱村、川口村、木寺村、小嶋村 十三大橋まで
江戸時代の絵図(下記 2題)には、蔵人村など枝村の記載有。 が「横関村」名は絵図2つとも「濱村枝村横関村」の確認できない。
ザ・淀川 2013/3
コメント1
前から気になっていたのですが、横関村について...
吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。
天明六年七月二十九日
ご確認ください。 以上
有難うございます。 吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 それも 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
横関村のがあった。とする公文書 今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。 横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・ 横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村
追加 2014/1/23
稗嶋村
野里村
下嶋村
一津屋村
江口村
吹田村 庄屋 伝右衛門 舟持惣代 八右衛門
江坂村 庄屋 太郎左衛門 舟持惣代 九兵衛
小曽根村 庄屋 彦右衛門 但し村持ち
三屋村 庄屋 彦右衛門 舟持 与左衛門
佃村 庄屋 長治兵衛
大和田村 庄屋 源次郎
〆拾五ケ村
吹田村住 橋本氏
となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村
結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。 ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。
1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。 その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。
そこで終わればいいのですが。
それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
簡単に「横関の渡し」からの命名となります。
でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか
2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ 横関村の存在は確認できなかった。
今回も早い 大阪市の市立中央図書館
横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力
3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には
よこぜき村は存在しない。
国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944
もう一つ
国立公文書館所蔵 天保摂津国絵図(1825~1838) 重要文化財
今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。
そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
では、地図上では何処になるのでしょうか!
明治の地図には 「横関」集落跡の形跡がない。
大阪市の報告には 地名「横関」、村名「横関村」、字名「横関」の記載がない。
新しく字名「横関」が出てきたのは 新しいことです。
但し、地蔵の溝のように、地蔵が先か後かと同様
「横関の渡し」が先か 字名が先はは分かりません。
新事実として
大阪市の報告に修正のお願いを致しますが、現在未調査の為、後日となります。
淀川の橋については
横関には橋は 江戸時代、明治時代とも橋があったとは記載は残っていません。
淀川の橋は 一般的に、木川村に「新橋」と今でいう、能勢街道の一部になっている。明治時代になって作られた。 それ以外 本庄・横関とも 明治時代は橋はかかっていなく、「渡し」となっている。ことが今まで、知らされた事実ですので、横関には橋がなかった。となる。
では、「横関の渡し」にかかわった人は何処に住居を構えていたのか、右岸には形跡内から
左岸 本庄にそのような形跡があるのか、両岸とも、町並みはみられない。
地図掲載 下のページ
ザ・淀川 2013/3
コメント1
前から気になっていたのですが、横関村について...
吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。
天明六年七月二十九日
ご確認ください。 以上
有難うございます。 吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 それも 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
横関村のがあった。とする公文書 今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。 横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・ 横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村
追加 2014/1/23
稗嶋村
野里村
下嶋村
一津屋村
江口村
吹田村 庄屋 伝右衛門 舟持惣代 八右衛門
江坂村 庄屋 太郎左衛門 舟持惣代 九兵衛
小曽根村 庄屋 彦右衛門 但し村持ち
三屋村 庄屋 彦右衛門 舟持 与左衛門
佃村 庄屋 長治兵衛
大和田村 庄屋 源次郎
〆拾五ケ村
吹田村住 橋本氏
となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村
結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。 ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。
1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。 その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。
そこで終わればいいのですが。
それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
簡単に「横関の渡し」からの命名となります。
でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか
2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ 横関村の存在は確認できなかった。
今回も早い 大阪市の市立中央図書館
横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力
3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には
よこぜき村は存在しない。
国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944
もう一つ
国立公文書館所蔵 天保摂津国絵図(1825~1838) 重要文化財
今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。
そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
では、地図上では何処になるのでしょうか!
2014年11月11日火曜日
急なご案内 遺体に刀剣が 市民が発掘協力した史跡 豊中市勝部遺跡収蔵庫と尼崎市立田能資料館 合同
11月14日(金) 田能遺跡 10時30分~12時
14時から 15時30分
勝部遺跡 10時から 17時
問合せ 豊中市教育委員会事務局 地域教育振興室
06-6858-2581
勝部遺跡収蔵庫 現地案内図 阪急岡町駅から徒歩20分
遺体に刀剣が残っている。
以前の見学会
と書いていたら 勝部遺跡も市民の協力で行い 遺体の中から刀剣を見つける。
遺体に刀剣が残っている。
以前の見学会
市民が発掘調査 田能遺跡
勝部遺跡と田能遺跡 弥生時代と書いていたら 勝部遺跡も市民の協力で行い 遺体の中から刀剣を見つける。
2014年11月10日月曜日
② おかうずゐ池碑 ① くりぬき水路 佐井寺
おかうずゐ池碑
行基の祈願により湧き出た「佐井の清水」が流れていた池。
佐井寺境内に引き込まれ「お香水」(おこうずい)と呼んで、病気の快復、眼病に効き目がある霊水とし
て信仰を集めた。
2014/08/21
「くり抜き水路出口」付近に造られた佐井寺東公園です。
「くり抜き水路出口」付近に造られた佐井寺東公園です。
「くり抜き水路」はもう少し西側にあったといわれています。
昭和61年「佐井寺東土地区画整理事業」により暗渠の出口があった場所が
造成され、現状は残っていません。
左の写真は、佐井寺側の取水口
右の写真は、石組みされた内部の状況。
上左は、水路の中程の竹組された構造写真です。
中央は、吉志部 側の暗渠出口付近の状況です。
右は、出口より釈迦ヶ池への水路の状況です。
佐井寺東地区土地区画整理事業の前の調査資料より
2014年11月9日日曜日
横関街道 地名でない街道名(?コメント) 勝尾寺への信仰道
珍しく コメントです。
横関村は資料に載っている。
皆さんのご意見を頂きたい。
*******************
「まち組」まち歩き11月 終了しました。 柴島でなく「くにじま」?
横関村は資料に載っている。
皆さんのご意見を頂きたい。
*******************
「まち組」まち歩き11月 終了しました。 柴島でなく「くにじま」?
横関街道 ― 地名でない街道名 ―
案内 上村 和功・早川 芳子
日 時 平成26年11月7日(金) 崇禅寺駅 13:30 集合
行 程 崇禅寺の桜並木 → 旧JR東海道線跡 → 水道記念館 → 淀川堤防 → 川口の道標 → 本庄街道 → 楠木正成首塚 → 東中島の道標 → 日の出路線橋 → 新大阪駅トイレ(中島大水道) → 「横関踏切」 → 宮原の大邸宅 → 宮原の道標 → 春日神社之址 → 蒲田神社 → 榎の渡し → みまき橋 → 馬廻水路 → 糸田川 → 豊津公園解散
街道名は江戸時代は5街道しか名前がなかった。それ以外はそれぞれの行先で謂い方をしていたが、例えば吹田街道をある地域では伊丹街道とか、吹田街道とかの言い方をする。ここでは明治以降統一された一般的な街道名で表す。西国は高麗橋を起点としていた。(大正時代は 大阪市役所前)
大阪から北摂には入るには、亀岡街道、横関街道、三国街道などがある。横関街道は吹田を通る街道で南北の街道の一つで、大坂天満で亀岡街道と別れ、中津川を「横関の渡し」で渡り、宮原を通り十八条で神崎川の「榎の渡し」を渡り吹田に入り、その後、蔵人を通り、吹田街道を横切、江坂の西の高川で三国街道と合流し横関街道は消滅する長い街道ではない。横関街道と合流した、三国街道はその後、下新田村(春日町)を経て、上新田村で勝尾寺街道と合流すし、勝尾寺へ、このルートが勝尾寺への最短距離である。
横関街道に関して大阪市に問い合わせましたが、確証は得られていませんでした。
我々は「横関街道」の名前は知っているが、さて、横関は何処にあるか! 地名に横関村は存在しない。それは、江戸幕府が作成した絵図にも、明治19年の地図にも、村の形跡はない。すなわち横関村は存在しなかったと考えられる。
では、何故「横関渡し」と言われるのか? 以前に次の考えを披露しました。すなわち、横関とは「横堰」とも書き、関所でなく「堰」に関係していると考えられる。 昔は安威川にも、堰が「吹田の渡し」の上流にあった。中津川にも塩害を防ぐ為の堰があり、その横を渡す「渡し」が「横関の渡し」のいわれと考えられ、その「横関の渡し」から「横関街道」が伝承されたものと思われる。それが横関街道のいわれになる。
また、道標に「横関」の記載は私が調べた結果、現在のところ一点のみである。その一点を今日お見せします。
ここは 蒲田神社 前回には気づかない
「白光社」 の祠の下をよく見てください 樹齢650年以上の樟の切株です。
昔は この上に4畳ほどの 瓦ぶきの六角堂があったらしい。 先の阪神大震災で崩壊し、その姿を見ることはできない。
境内の案内板の写真を見ても その姿を見ることが出来なかった。
クスノキは写真に撮ってあった。
皆さん、ここで 遊んでくれました。
では、何故「横関渡し」と言われるのか? 以前に次の考えを披露しました。すなわち、横関とは「横堰」とも書き、関所でなく「堰」に関係していると考えられる。 昔は安威川にも、堰が「吹田の渡し」の上流にあった。中津川にも塩害を防ぐ為の堰があり、その横を渡す「渡し」が「横関の渡し」のいわれと考えられ、その「横関の渡し」から「横関街道」が伝承されたものと思われる。それが横関街道のいわれになる。
また、道標に「横関」の記載は私が調べた結果、現在のところ一点のみである。その一点を今日お見せします。
ここは 蒲田神社 前回には気づかない
「白光社」 の祠の下をよく見てください 樹齢650年以上の樟の切株です。
昔は この上に4畳ほどの 瓦ぶきの六角堂があったらしい。 先の阪神大震災で崩壊し、その姿を見ることはできない。
境内の案内板の写真を見ても その姿を見ることが出来なかった。
クスノキは写真に撮ってあった。
皆さん、ここで 遊んでくれました。
もう一つは ここ
「みまきばし」の親柱 詳しくは こちら
「しばしま」でなく「くにじま」?
駅の中でも、指折りの難読駅名が「柴島」。
知らなければ「しばじま」と読んでしまうのが普通。
地名の由来には、“今の西淀川区付近を指す難波八十島の1つ茎島(くきしま)が訛った”“薪の原料・クヌギが多く生えたことから「くぬぎ島」と呼ばれていたが、いつしかクニジマになった”“平安時代は「国島」だったのが、国が柴の字に変わり、読み方だけ残った”…と諸説ある。どれも最もらしく、地名由来の謎は深まるばかりだ。
地名 国次もある。 よく聞かれるのは 下新庄の「鳩ケ瀬」会館・バス停・踏切にもアクセスが多い
***************** 横関村が存在する!
コメントを頂きました。 有難うございます。
別なページに掲載させていただきましたが、ここにも掲載します。
「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿
コメントがありました。
前から気になっていたのですが、横関村について...
吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。
天明六年七月二十九日
ご確認ください。 以上
有難うございます。 吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
横関村の存在です。 今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。 横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・ 横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村
となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村
結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。 ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。
1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。 その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。
そこで終わればいいのですが。
それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
簡単に「横関の渡し」からの命名となります。
でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか
2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ 横関村の存在は確認できなかった。
横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力
3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には
よこぜき村は存在しない。
国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944
今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。
そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
では、地図上では何処になるのでしょうか!
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