2014年10月18日土曜日

「吹田の懐かしい風景を訪ねて」 野口昭雄写真展に行ってきました。 イベント2題追加


「吹田の懐かしい風景を訪ねて」 野口昭雄写真展



新聞報道 大阪日日新聞 平成26年10月17日





平成26年(2014年)10月18日(土)~28日(火)午前10時~午後6時

*ただし、18日(土)・25日(土)は午後1時から


さんくす図書館多目的



天候に恵まれた各地でイベント 吹田「アジアンフェア」
JR吹田駅前





浜 屋 敷   「手づくり市」
今日は 何処に出没するか!

吹田こんなところ! 新しい発見あり 

天満東・西寺町   北摂街道を行く 33


緒方洪庵夫婦の墓 大塩平八郎の墓

④ 12/8  福西茂情報   情報② 豊中図書館から資料発見の℡



11/05 新しい情報③ 新聞と紹介文 
               
                見つかったのは偶然、ひょっこりひょうたんでした。
                池田市立図書館で


またもや 産経新聞 平成元年10月19日
顔写真入り
「池田市に水彩画を寄贈した福西さん」

 リンクを張りました。
 池田市の調査 ① ②   調査  調査



スケッチ画数 合計 3530点
 豊中市 367点、
 池田市 356点、
 箕面市 456点 ここまでは 私は知っていますが
  猪名川町 422点、
 川西市 386点、
 
   宝塚市 664点、

 能勢町・豊能町 425点

 平野区  307点

 東住吉区 147点

 合計3、530点 

*****************************

情報が入りました。 情報②豊中市
 豊中市役所 に問い合わせ。
 御嬢さんの話から「福西茂氏の新聞報道」があったことを 告げ、何か情報はないかと
豊中市から返事 で 「図書館で調査できる、 平日 ご相談ください。」という話で終わっていました。  急に 電話です そのことをすっかり忘れていました。

それが 
「新しい情報です。「新しい情報」もう一つの電話 福西茂情報 新聞報道について  
豊中市立岡町図書館
 結果 産経新聞 北摂版に掲載されている。
     朝日新聞報道と同じ内容で 「平野での展示会」案内であるが、
     報道の日がちがい、産経新聞で報道されていた。ことがわかりました。
    印刷物が 欲しいと申し込みました、 
    (色々問い合わせると 情報が出てきますね。)   
 
豊中市立図書館岡町図書館  
  産経新聞 北摂版 平成2年11月6日(火)
  サイクリングスケッチ 豊中の元高校教師 まず平野区完成
  寄贈作品展示 12月14日から3日間  平野区民ホール
  ベレー帽子の福西茂氏 と 作品の一部が写真に収められています。
ありがとうございました。 
また、資料が 一つ増えました。


  産経新聞 北摂版 平成2年11月6日
記事の内容で
 活動拠点の掲載  豊中市 池田市 箕面市など
 箕面市がまた登場しています。 再度 確認をしなければなりません。


情報①
 ということで、 大阪市立中央図書館 
2つの図書館に行き 新聞を掲載の部分を印刷しました。

朝日新聞 朝刊 平成2年12月9日  
大阪市立中央図書館 A3 1枚70円 壱枚目は薄く 2枚 140円


大変な装置です。 捜すのに苦労しました。
隣の人も 昔の情報を新聞から取っておられました。


この調査で 別項 二題
変貌する町並み

豊中市立第一中学校 旧校舎が解体されていました。 
ここでの 平成三年までの職場でした。
また一つ消える 昔の校舎。 一番左が最初の校舎


もう一つ 豊中一中の東側 空き地ですが    地蔵さんが
 

一中の校舎が見えます。 ビル建設予定になっています。

情報 ① 大阪市立中央図書館 2回目  1回目は2013/8/25 こちら 
                           平野区と東住吉区の資料を入手
情報 ② 豊中市立岡町図書館 市役所に電話で問い合わせ 
                     図書館から電話 調べてもらっているのに
情報 ③ 池田市図書館で    新聞報道と福西氏の紹介文を見つける。
                     「池田の史跡」の中に2枚の資料がありました。
情報 ④ 豊中中央公民館    『展示会』産経新聞報道


2014年10月16日木曜日

訪問者数  吹田郷土史研究会

「吹田郷土史研究会」関連ページへのアクセス数の推移
ブログ名 吹田郷土史研究会 編
道標・石物 その歴史を後世に伝える  訪問者数合計
2014/10/1 2014/6/22現在
  題目  訪問者数 掲載日時   増加数
1 吹田郷土史研究会 総会「予定表」, 吹田郷土 339 2012/1/7 299 40
2 新聞記者  面影の道標を拝見する。①北摂 214 2013/5/9 210 4
3 吹田郷土史研究会吹田郷土史研究会 122 2009/7/18 121 1
4 吹田郷土史研究会総会 新常任幹事 上村 102 2013/1/21 94 8
5 平成22年度の行事 吹田市郷土史研究会「予定表」, 92 2010/1/28 91 1
6 竹之内街道 新しい発見が吹田郷土史研究会太子 91 2013/6/24 86 5
7 早春歴史文化講座  吹田郷土史研究会「予定表」, 87 2012/2/9 87 0
8 山田の歴史吹田, 吹田郷土史研究会, 山田村 87 2009/5/21 87 最初のペ
10月1日 6月22日 増加数
累計総数 2613 2358 255
他のページ 増加数
1 西暦早見表 安土桃山-江戸-明治-大正-昭和  2488 2012/1/6 2283 205
2 年5月と11月だけ公開 南蛮文化館Ⅱ 梅田の近く  1718 2009/11/14 1703 15
3 道標 5 基 「見本のまち」 上新田の見どころ  郷土 1330 2010/2/19 1261 69
4 川西市南部の道標 1~15 追加 893 2008/10/14 867 26
5 わかる??? 郷土愛 歴史を知ること 市町村合併 885 2012/4/30 807 78
6 東淀川区の探索 2―Ⅲ 後半 淡路まで 810 2012/1/5 726 84
7 ここにも自然が残る「ヒメボタル」 2013/11/15新リン 694 2012/5/9 674 20
8 能勢街道 マップ 596 2010/6/3 590 6
9 古地図 池田道 567 2011/7/31 519 48
10 一歴史愛好家が描く郷土の風景・・・ 582 2009/2/15 449 133
11 吹田こんなところ!  443 2013/9/12 418 25






25

2014年10月14日火曜日

上新田 徳林寺

「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方だった ・ ・ ・ 」
 この徳林院の建立は、およそ200年前になる。
 その当時、箕面の勝尾寺に「徳本さん」という徳の高い聖がいた。
     「聖は時々、大阪御堂筋の小橋屋といふ呉服大店主の請により勝尾
     寺より大阪に至る途中、上新田の徳林院に御足を休めさせられ~(徳
     林院縁起より)」
 その、徳林院の初代庵主は小橋屋の美しい娘さんで、庵も小橋屋の当主が
 建てたものらしい。 その後、養女を迎え二代~三代と尼僧物語は続いた。
 ところで、私の手元には出所がはっきりしない一枚の紙片がある。
     浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。
     もとは京都市東山区の総本山知恩院の膝下にあったが、大正3(1914)
     年に村の有力者により現在地に移転する。徳林院が移転する前の同
     地には常光庵があった。常光庵は延宝元年(1673)に小畠与右衛門の
     娘・清順がはじめて庵地を開いたことにより成る。
     徳林院の入り口には天保(1830~1843)の年号の入った碑があり、そこ
     には「徳本行者遺跡」と刻まれている。
  "縁起" によると、徳本聖が攝津在住期(1801~1814)に徳林院は上新田にあっ
 たことになるが、移転説をとれば聖が立ち寄ったのは常光庵になる。
 しかも、冒頭の「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方」の記事は
 昭和41年5月号の新聞「千里」に掲載された今井信子さんの取材記で、三代
 目庵主の高橋智称さんを紹介したものである。取材当時45~46才の庵主が、
 ここの養女に入ったのが12才のときだというから昭和10(1935)年ころになる。
 だとすれば二代目庵主さんの時代に、なにかがあって知恩院系の徳林院を向
 かえたことになるが原因はわからない。(尼寺だけに楽しく物語を作ってみ
 たいが)
 縁起は、徳林院として成立後に作られているので常光庵の名を端折っている
 のではなかろうか。小橋屋さんが、建てたという庵も朽ちた常光庵に手を加
 えたもので名をそのまま使用し二代目庵主さんのとき庵号を変更したとも考
 えられる。

 徳林院は上新田の(旧)勝尾寺街道から奥に入ったところにある。
 狭い参道のすぐ先に急角度の階段があって、上りつめたところに小さな館が
 ある。 本堂右奥の蓮台の上に定印を組む徳本聖の坐像をお祀りし、境内に
 は聖の書を刻んだ六字名号碑(蔦文字といわれる独特の南無阿弥陀仏)が
 ある。
   10/01 友人とともにここを訪ね、話好きの佐々木住職に死後の始末を
   相談にのってもらった。

上新田の話

皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をみんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を
築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区
に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しまし
た。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して
上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専
用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左
かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行く
と勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農
作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることに
なりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。
歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできま
せんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。
つくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で

お誘い 是非お出でください。 「吹田の懐かしい風景を訪ねて」 野口昭雄写真展


私の尊敬する郷土史家の一人です。

  郷土を愛し 後世に残す 一人の郷土史家 野口昭雄さん

  郷土は そこに住む人、郷土の人が守ることです。


平成26年(2014年)10月18日(土)~28日(火)午前10時~午後6時
*ただし、18日(土)・25日(土)は午後1時から
さんくす図書館多目的室

        野口昭雄さん の写真展  絶対見に行きます。

行ってきました。

吹田こんなところ! 新しい発見あり 



2014年10月13日月曜日

サボテン公園 in 奄美  見つかった道標 

1枚のスケッチ画から 奄美へ
見つかった道標 27
スケッチ画の左端に 道標が 

道標表示 ① 正面 右 すぐのみち


道標表示 ② 左面 すぐ

道標から 上の写真の面を 正面とします。  地上より高さ 百五十センチ
右面   30センチ 横が 29センチ の巨大な道標です。
 この下は
すぐ 十三? かんざ記  中山道  面白いのが分かりますか
    表示 かんざきを  かんざ記 となっていることです。
 その下には    中国道を表します。
 
解読し教えて下さい
      右 のみち?(明治以降の能勢街道)
(大きく) 左 おはつ天神?  よどやばし  と 

  
道標表示 ③  裏面になります
 
天保十三年(1842)   明治元年は1868 もうすぐ明治

道標表示 ④ 右面 すぐ

右面
大きな文字で上に 「すぐ」と下に「右」とある???? 珍しい 初めて見ます。
この道標の表示は全ての方功の面では このように上下形式を取っています。
        すぐ  右 おはつ天神? よどやばし   
     (小さく)  左  のミち


スケッチ画から解読すると

道標表示 ① 正面

   右  すぐのみち    右 てんま天じん  なにははし
                            左 十そう   かんざき   なかやまへ


道標表示 ②  右面(東向き)
             十そう                      右 のみち
  すぐ   かんざき         左 おまつ天神
      中山へ             よどやばし


道標表示 ③ 裏面 スケッチには記載なし

   天保十三年(1842)


道標表示 ④  左面

         なにわばし          おまつ天神
   すぐ            右 よどやばし
       てんま天神   左  のみち

以上 スケッチ画から解読


解説 「すぐ」 と 「右」 の表示は 「すぐ」が主で 暫くまっすぐに そして途中で「みぎへ」というあんないである。  同様な表示方法は、十三の神津神社にある道標「小島北口道標」がそれである。 この道標では 行先が 網天神、おまつ天じん、淀屋橋等が書かれている

   以上のことからこの道標が立っていた場所を推定すると
     中国道沿いに建ち高麗橋から来て 左 淀屋橋へ  右 の道 との分岐  
     右「のみち」 は明治の淀川には有料の新橋が出来、この「の道」 能勢街道としている。

     明治の24年(1892)の大阪府地理土木法規
      中国道と能勢街道は・道の時には 今の 大淀警察署を進み、コンビののところを



すごい発見になりました。
中国街道と「野道」への分岐の道標だ!
 明治二十四年には中国街道は国道二十六号線 西成郡中津村大字下三番に立っていて、「能勢街道」と「能勢街道」との分岐となる。これは 天保十三年で この時分には能勢街道ではなかった。 
 能勢街道は それまで経路が違う  明治五年の通達で
  池田街道(今の能勢街道)は 本庄渡を経て池田より能勢丹波に至る 道幅二間 となっている。  
  街道に関する 明治の大阪府の表示方法は こちら
 
  大阪市内を調べると面白い   

  早速、登録させていただきます。

≪回答文≫ 大阪市 10/6返信
お問合せ内容を教育委員会事務局 文化財保護担当へ確認いたしましたが、
残念がらこの度の道標に関する情報は持ち合わせていないとのことでした。
何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

勝手なお願い事 写真募集にご協力を ジャンジャン横丁 別な展示 追加 10/18 ・15 

ここは 大阪市立中央図書館 3Fケース展示をしていました。


通天閣・今むかし 10/18
~ 2014/12/17
参考資料 これらを見るといいのでは。
 「10周年記念特集号 通天閣20年のあゆみ」 
 「なにわの新名所」
 「大阪モダン:通天閣と新世界」

2014/09/06  以前の写真追加
 
今日のジャンジャン横丁

串かつ屋さん は今日も行列です。 外人さんが多い  そんなことが多い今日です。

たくさんの写真が貼ってあります。 写真集にして欲しいと思うのですが。


第一弾は 「その時あなたは若かった」2010/3/1

第二弾 その時代あなたは輝いていた。
 近くのタバコ屋さんがやっています、
    
ジャンジャン歴史横丁

(ジャンジャン横丁、新世界)の古い街並みの写真、思い出の写真をお持ちの方はこの企画にご協力をお願いします。 (原版は、お返しします。)
『連絡先 大西たばこ店』 
電話 06-6641-2420
製作 「ジャンジャン横丁若手の会」
阪神高速はありません。
左下 建設予定地 正面 春日通り
右下 通天閣再建 昭和31年4月
いい写真ばかりです。 拡大してみています。



目が回りそうですが 連続で取っていたら こんな写真が出来上がりました。
もう少しゆっくり動いたらいいのですが

ジャンジャン横丁の写真総数 合計三十六枚でした。
まだまだ あります。 
全てを一枚一枚撮った方が良いが 時間がかかる。
一度は お出でください。 




私にも以前の写真もあるはずです。 2010年3月1日でした。
第一弾は 「その時あなたは若かった」


その時の写真は これ一枚でした。

「軍師官兵衛」を助けた天満商人  北摂街道を行く 32

北摂街道を行く 32

北摂街道を行く,亀岡街道,  産経新聞,