2009年3月12日木曜日

  かお

豊中のかお




 もう一つのかお


柳谷観音


 柳谷観音
  田んぼの農作業小屋の横(三枚田)
    左には道はありませんが、田んぼの向こうに「地蔵」があります。
   この道しるべの右側を進むと 小畑川に出会う。   



 その前に
 常念寺前   あたごみち


この川(小畑川)を渡る   

  西国街道の案内

  この日のハイキング  京阪電車中書島駅から

 昔から、軍事上の要として幾多の争いがあった、勝龍寺城跡で昼食をとり その後 京阪石清水まで

 私にとって大事なお寺 ぼけ防止 
   勝竜寺 

  淀川に 3つの川が合流するちょっと上流を渡りました。
 川は 北側から 桂、宇治、木津の3つです。  
 石清水寺の展望から 京都方面
 3つの川が見渡せます。


 石清水 本殿

  境内の道標

  今回の写真は携帯で撮影

山根徳太郎

難波京 発掘
 現在、難波京は公園となっています。第1回目の発掘調査は昭和29年 それまでのいきさつの中で一人の人物が
山根徳太郎氏 
 この発掘は、 明治43年 軒丸瓦の発見で、この瓦を 建築技師 置塩 章 さんが長年にわた地大切に保存されたのでした。 そして、山根さんと置塩さんとの出会ったのは大正八年です。 山根さんはこれぞ「難波京」だと、確信されたそうです。その後、公園を頻繁に散策を行っていましたが、手がかりが見つかりませんでした。 そのころ、この地域を開発が行われることになり、工事現場の人に瓦の拓本を見せ、見つけたら知らせてくれと頼まれそうです。
 その時見つかったのは一辺五〇センチもある 「鴟尾」の破片がでした。「難波京」への確信につながりました。
発掘はその後行われ、また、自費で発掘などを行い、最初の発掘から7年目 昭和36年「大極殿」の一部が発見された。そんな折、昭和37年、国の庁舎建設予定が計画され 反対運動が起こります、難波京を公園に、記録のためと2001年には大阪歴史博物館が建てられた。  長い年月を経て、山根先生の執念が実を結び大発見になりました。  
      今は、難波京公園を博物館にある山根徳太郎氏の銅像が見守っています。
  

2009年3月10日火曜日

最古の道標 大坂

高槻の道しるべ
 昭和58年3月 出版
 高槻市教育委員会 
 定価 350円  
 

 高槻市最古の道標(大阪府最古の道標)
 田能にある 道標
  33所穴太寺(あなおうじ)九十町
  
  宝徳三明心三月日白

高槻市をほぼ直線に横断する 西国街道には
  多くの道標はありません。
 
 観音様信仰、巡礼道、京都に近いので 参拝者の多い寺がある。
 それらの 案内のために 道標が数多く現存している。


最古の道標 ??? 疑問の声が


  

????  高川から

 疑問の道標の解決か
  長島神社よこの道標の説明
  高川からの移動  鹿島先生談(豊南 50周年記念誌)
   
  記載がありましたが、出典名など説明はありませんでした。  
   なぜ移動したのか理解しにくいので説明が必要です。
 
  道しるべ・道標の本来の意味、目的は 何でしょうか?
   旅人が道を迷わないよう案内する為、
    道の角々・分岐に在るべきです。
    高川には同様な道しるべが存在しますので二重に設置するには??、
   以上のことを踏まえても、憶測、推理の域を出ませんが、  
    能勢街道と天竺川の分岐に道しるべが存在しない。
   能勢街道との分岐であれば 説明がしやすいのです。 
    分岐を 重要な西国街道の宿場 「せがわ」を表示してる。    
  次に 
     天竺川の両岸は街道の松並木を残す街道です。
  熊野田の豆腐屋さんの話では、「自分の家の前を糞尿を運ぶ荷車の往来があった。」と聞いています。

  江戸時代の上新田、熊野田への大坂の糞尿の運搬には、坂の少ない天竺川のこのルートを利用していたのではないでしょうか? と言うのが 私の説   


    長嶋神社横の堤防道標は疑問の道標
 能勢街道と天竺川街道(熊野田へ)との分岐を示すものである。