2010年3月6日土曜日

登場しない道標   街道沿いにない道標

勝尾寺への道 
 銘「勝尾寺」のある道標で 一度も出てこない道標があります。
 「街道沿いにない道標」
道標⑦(本道標編12) 名号板碑道標
    本道標編:豊中市の文化財 道標編   昭和50年発行 
 
古い道標です。
名号板碑道標
伊勢街道から能勢街道・箕面街道分岐
右 みのふ山 か□下部地中
左 いけ        

この道標を逆走すると、小曽根道標が
道標編23 (西)左 いけだ、みのお、中山

道標編22 また、小曽根を通り、高川の堤防にある道標に出会う。
(南)馬頭観音像  右 かつをうし、 
            左 みのお、いけだ、多田、中山
   時代は不詳 古い能勢街道にあった物ですので、古い道標になります。

能勢街道は明治時代になり、統一された呼び名であるが
 今の道と時代によって道が違うと この3つの存在も理解できる。 
 この3つの道標のように 一方向の案内(大坂向きの案内がない)は古い道標とされています。
 道標は上新田に見られるように村の出口にあるのが普通でした。

 
次に
曽根東町 西琳寺前の御伊勢参りの常夜灯
送信者 2010-01-09-1658-52
天保二年(1831)
 ここには曽根の芦田池南側をやってくるとこれに出会う。 
御伊勢さんへの案内であっただろう。
 福井を通って、小曽根にでる。それを裏付けるものとして、大坂の「妙見講」による江阪の「妙見宮の常夜灯」があるので、江阪から寺内、福井、岡町を通るルートがあった。
 伊勢詣では日の出る方向に歩き、伊勢を目指す。豊中では伊勢街道を使う。伊勢詣では帰りは同じ道を使わないようにしていたので、帰りは、西国街道小野原から勝尾寺街道(上新田)を通る「2本松道標」で箕面街道で帰宅したものである。
また、ある村の古文書には、帰りを途中まで迎えに行く風習もあった。

能勢街道の原田から南の道は、豊中で云われている「伊勢街道」が主要な道であったと考えられる。
元禄15年の元禄国絵図(1702)には 能勢街道は服部を通らず小曽根、その昔は、福井から石連寺を通り、寺内から江坂を通るルートもあった。
  江阪に「妙見常夜灯」がある。

              「今津っ子」作
それより約百年後の地図では 
 長興寺・曽根・岡山・福井四カ村池争論立会絵図
  寛政11年12月(1799)
送信者
大きくしました。
送信者 10年 本

 江坂西の道標北30メートルにここは常夜灯がある。
 大坂から榎木の渡しで来て、江坂西の道標で 常夜灯を通り、能勢に行く
 そのようなルートがあった。
 「三国の渡し」は古くからあったが、主には、榎木の渡し、小曽根の渡しが主流だったようだ。
 

以上のことから ここに勝尾寺への道標があってもおかしくない。
道標⑦ 名号板碑道標は年号はないが古いことがわかる。
 旧能勢街道と箕面街道の分岐に立っていた。
 

豊中市の道標 吹田市の道標 池田市の道標

古い道標 はこちら 
  

2010年3月4日木曜日

播磨道Ⅳ  道標

この地区には所々こんな案内板があります。 千本地蔵

山口村の元標

道標①  


右  すく三木あふこ

    右 すく道場川原

    左 すく三領きよ水
 
左  すく中山大坂

背  すくなた兵庫 先起人 □□
    観世音菩薩 安政五年三月

 ここは有野川沿いにつづ〈旧道の中央部であり、丹波街道と播磨街道を結ぶ接点でもあった。



道標②


   寛政十一末七月廿一日

     右 京大坂    施主
正  梅原信士        勇連中
     左 道場川原

   俗名 坂田宗重郎
 

 西国三十三カ所巡礼中、不幸にもこの地で病にた
おれた巡礼者を村人はふびんに思い手厚くここに葬
り、供養塔と墓碑を兼ねて建てたと伝え、並んで二
つの西国供養塔が立っている。


道標③、④


      二橋施主 大坂浮田五龍
神  右 兵ご山田  左 京大坂中山
      文政五午三月


 

道標⑤


     右ハ大坂道
  ○南無地蔵菩薩
     左ハ三田みち 

道標⑥


              右 は り ま
正   (地蔵立像)(台石)        みち
              左 をふさうし


 もと、寺の北方、八多小学杖の南の角(播磨街道
上) にあった。奥蔵寺への表参道は寺の前の道を南
へ、北芝徳蔵家の東に納屋の建っているところへ通
し、そこに山門があった。


役行者  ??????


道標⑦


右   嘉永六丑三月吉日

    右 ありま
正  奉供養西国三十三所道
    左 京大坂

   同行
背  平兵衛 清兵衛 惣兵衛 源右衛門
   治兵衛 吉蔵  嘉平治 五平衛 与吉
   重三郎 栄次郎



神姫バス「深谷ロ」バス停前に立っている。
この辻は揚乃山街道と播磨街道が合して淡河宿へ
向う、このあたりでは最も多くの旅人が通ったとこ
ろである。「右 ありま」 は附物・柳谷・五社を通っ
て有馬へ、「左 京大坂」は千本地蔵・八多を通り吉
尾にて播唐街道に分かれて東へ向い、田尾寺・名塩・
生瀬をすぎて丹波街道を神崎方面へ行く

 
三本松跡



道標⑧


   右ハ三木
正            道
   左ハ村 




道標⑨


右  安政四巳十二月吉日

   右 おうこ三木
正  奉納西国供養
   左 むらミち
   施主 嘗村同行二人

左  田中伝左エ門
   池ノ上清三郎

 屏風村の農家の二人は、西国三十三カ所巡礼の旅
に出た。長く苦しい巡礼であった満願成就、無事
巡礼を終えて故郷に帰り、報恩供養のため村の辻に
この道しるべを建てた。


道標⑩



       右 山田兵庫

       スク有馬大坂

正 (仏像) 西国三十三所順礼供養

左      左 スク淡河三木

                 西野ト ミ、
背 明治廿五年九月建之 村上ヤ エ
                池尻ジュウ

神姫バス停「屏風辻」と「西畑口」の中間、小畑
商店前に立っている。ここから右へくだって、南方
の黒甲越えを経て金剛童子山・下谷上を通って兵庫

2010年3月3日水曜日

播磨道Ⅲ 八多 ~ 屏風  旧山陽道?

今日の予定は「北摂」と「播磨」国境まで 残りわずか

道の向こうに祠が
この道は明治19年の地図に載っている。八多町を通る直線道路です。
今でも交通量の多い道です。

極楽寺の五重塔

左手に登ったところに墓地が
地蔵台座道標⑤
 
「右はりまみち」「左をふそうしミち」
元小学校南角街道脇

なぜここに「役行者」

昔 神社かお寺の跡でしょう。奥蔵寺跡
深谷の交差点  その手前を右に山の中に入ります。



右の道から上がってきます。

千本地蔵

千本地蔵の祠



先ほど別れた県道38号線が見える、その向こうに道が「黒甲越」

道標⑥「奉供養西国三拾三所 右ありま 左京大坂 道」 嘉永六年丑三月吉日

「青木先生の碑」
説明板がありますが、教育委員会の銘は入っておりません。
 
向こうに見えるのが「千本地蔵」 国境へ向かいます。

荒れた藪の中に「史跡三本松之跡」 

「摂津名所図会」によると 「三本松 屏風村にあり・・・
屏風に着きました。 火の見櫓が見えます。

旧道は火の見櫓手前で左に折れ、グルーと回って向こうの電柱で合流する

左の 大きな自然石には「右ハ三木大坂 左ハ 村  道」

「右おうこ三木 安政四年十二月吉日 □□西国三十三□□・・・・ 施主 当村二人
 左むらミち   田中伝左衛門 池ノ上清三郎」

県道を三木方面へ

「右スグ山田兵庫  有馬大阪  如意輪観音像  奉納西国三十三所巡礼供養 スグ淡河三木」
 (背)「明治二五年九月建立 西野トミ  村上ヤエ  池尻ジユ」


初期の探索 「播磨道」 
江戸初期の絵図(尼崎市立図書館所蔵)では、この道が 「山陽道」となっている。 

播磨道Ⅰ  下山口 ~ 藤原台北町
播磨道Ⅱ  藤原台北町 ~ 八多
播磨道Ⅲ 八多 ~ 屏風
播磨道Ⅳ  道標

2010年3月2日火曜日

変貌する町並み  阪急淡路  

別のブログに記載していたものをコピーしました。
2010年3月2日付け

阪急電車淡路駅・京都線の高架すすむ
この道と立体交差します。
陸の孤島より改善される。



新庄小橋 ここに橋が ??? 何故 ? 

通路になって います。 通路は後に中島大水道跡とわかり
調査対象になりました。  なお 新幹線は
 中島大水道跡を通るなど、      中島大水道跡、
そして、水の流れない川の橋(忘れられた橋 25橋)

淡路駅立体化
淡路駅周辺地区土地区画整理事業
阪急京都線・千里線連続立体交差事業
区内道路建設計画(都市計画道路など)

踏切が無くなる 踏切名の調査

淡路5 淡路駅の北東方向、 東は阪急北千里線に遮られています。
この辺りは区画整理がされています。


日切延命地蔵

商店街 人通りは多いです。

商店街から一辻北側に賑やかな店が
 「大裕」



南北に道路が建設される予定