2014年7月19日土曜日

第304回 夏季歴史文化講座 & 投稿写真

2014/7/17

講演テーマ   「吹田の民族学」

 講 師  国立民族学博物館名誉教授 ・         
   吹田市立博物館 館長 中牧 弘允氏

吉志部遺跡の石器  15000年前~10000年前



新会員の「ゆでたまごちゃん」より 投稿写真を頂きました。 
今後ともよろしく
もう一枚は 「吹田くわい保存会」
写真がピンボケであることと、縦横が変更できませんでした。
アート展 木輝希
2014/10/17 ~ 29
亥の子谷コミュニティセンター


まもる自然・つくる環境 吹田市立博物館 2015年夏季展示


上新田

みなさん、上新田にある天神社を知っていますか?この地域の氏神様として、お正月に訪れ
る人も多いかと思います。毎日この横を通って通学している人もいるでしょう。
私はこの5月5日にこの天神社の春祭りの神事に参加しました。
その他、10月10日の秋祭りと1月1日の歳旦祭、そして1月14日のとんど祭りなど、
行事のたびに上新田天神社に伺っています。
先日は、そこで天神社に伝わる古い絵をみせていただきました。
そこには1686年、上新田と書いてありました。天神社は豊中市の指定文化財になってい
ますが、随分古い歴史があるのだなあと思い、上新田の歴史を調べてみることにしました。
皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をつくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で
みんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を
築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区
に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しまし
た。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して
上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専
用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左
かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行く
と勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農
作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることに
なりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。
歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできま
せんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。


上新田西公園(上新田1丁目)
上新田会館が昭和 47年(1972)
に建てられた際に、役目を終えた
公会堂が取り壊され、跡地は公園
として整備されました。公園の一
角には、公会堂の門柱とカイヅカ
イブキが残されています。


↓眞覚寺の境内には、「蓮如上人安座石」もありました。



「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方だった ・ ・ ・ 」
 この徳林院の建立は、およそ200年前になる。
 その当時、箕面の勝尾寺に「徳本さん」という徳の高い聖がいた。
     「聖は時々、大阪御堂筋の小橋屋といふ呉服大店主の請により勝尾
     寺より大阪に至る途中、上新田の徳林院に御足を休めさせられ~(徳
     林院縁起より)」
 その、徳林院の初代庵主は小橋屋の美しい娘さんで、庵も小橋屋の当主が
 建てたものらしい。 その後、養女を迎え二代~三代と尼僧物語は続いた。
 ところで、私の手元には出所がはっきりしない一枚の紙片がある。
     浄土宗知恩院末。本尊は阿弥陀如来。
     もとは京都市東山区の総本山知恩院の膝下にあったが、大正3(1914)
     年に村の有力者により現在地に移転する。徳林院が移転する前の同
     地には常光庵があった。常光庵は延宝元年(1673)に小畠与右衛門の
     娘・清順がはじめて庵地を開いたことにより成る。
     徳林院の入り口には天保(1830~1843)の年号の入った碑があり、そこ
     には「徳本行者遺跡」と刻まれている。
  "縁起" によると、徳本聖が攝津在住期(1801~1814)に徳林院は上新田にあっ
 たことになるが、移転説をとれば聖が立ち寄ったのは常光庵になる。
 しかも、冒頭の「頭をまるめ、灰色の着物を長身にまとった美しい方」の記事は
 昭和41年5月号の新聞「千里」に掲載された今井信子さんの取材記で、三代
 目庵主の高橋智称さんを紹介したものである。取材当時45~46才の庵主が、
 ここの養女に入ったのが12才のときだというから昭和10(1935)年ころになる。
 だとすれば二代目庵主さんの時代に、なにかがあって知恩院系の徳林院を向
 かえたことになるが原因はわからない。(尼寺だけに楽しく物語を作ってみ
 たいが)
 縁起は、徳林院として成立後に作られているので常光庵の名を端折っている
 のではなかろうか。小橋屋さんが、建てたという庵も朽ちた常光庵に手を加
 えたもので名をそのまま使用し二代目庵主さんのとき庵号を変更したとも考
 えられる。

 徳林院は上新田の(旧)勝尾寺街道から奥に入ったところにある。
 狭い参道のすぐ先に急角度の階段があって、上りつめたところに小さな館が
 ある。 本堂右奥の蓮台の上に定印を組む徳本聖の坐像をお祀りし、境内に
 は聖の書を刻んだ六字名号碑(蔦文字といわれる独特の南無阿弥陀仏)が
 ある。



大津追分町の道標


←1976年 09月 26日 撮影  昔 hpに掲載していましたが、今は閉鎖

大津市 追分町。

みぎハ 京 ミち = 右は 京道

ひ多り ふしミ みち = 左 伏見道

私が撮った写真を確認 裏面に「昭和29年再建」2020年8月19日


左伏見奈良街道 右京三條みち道標(写真左)
すぐ先の京阪京津線大谷駅改札口の隣に「
元祖走井餅本家石碑(写真中)
走井餅は、大津の名物として知られ 安藤広重の『東海道五十三次』にも登場するが、
本家は既に昭和初期に廃業しているので、もしかしたらここに本家があったのかもしれない。



逢坂のは平安時代に設置された三関(逢坂、鈴鹿、不破)の一つで、京の東入口として重要な場所であった。



下記の項 こちら

 追分/髭茶屋追分
   (おいわけ/ひげちゃや おいわけ)

   <撮影:1993(平成5)年4月>
 右が「京みち(三条街道・東海道)」、左は「ふしみみち(奈良街道)」の分岐点です。今から15年前の撮影ですが、現在とほとんど変わっていません。

今の追分です。<2008年撮影>

追分道標初代道標 江戸時代に建立されたもの。滋賀 県警本部新築工事により、大津市の琵琶湖文化博物館前から安土町にある「安土町考古博物館」に移されました。

追分道標、常夜燈、同じく常夜燈

追分道標 2代目 髭茶屋追分より近い「攝取院(せっしゅいん・大津市追分町)」の境内に移されています。
 交通事故により道標が真っ二つに折れたそうです。総代さんがお寺さんに相談され、修復されて攝取院に移転されました。 「車石
(くるまいし)」ともに保管されています。このお寺は、平日は門が閉まっていますが、インターホーンでお願いすれば開けて戴けます。たけのこのシーズンなど、猪が出没するので、閉門されています。
 また、門前には清水があふれ出ています。近くの人がペットボトルを持って水を汲みに来られます。お寺さんで伺いましたが、「この水を飲んでいるの、長生きしている」との事でした。「浄財」は、水汲み場の整備費用です。

 追分道標3代目(現在、東海道(三条街道)と奈良街道の分岐にある)建立のもの
 <撮影:1993年4月>


 ● 昨年10月にここから伏見まで歩いているので、詳細は「京都伏見周辺の散策、追分から墨染まで」の「大津市髭茶屋追分の道標」を参照下さい。
● 東面「みぎハ京ミち」
  南面「ひだりハふしミみち」
  西面「昭和廿九年三月再建」
  北面「柳緑花紅 法名/未徴」




追加 本物はどれだ  2024/11/09


 
  道標や常夜燈 安政9年(1780年)刊行の「都名所図会」に紹介されている


  追分の道標がない???   2014年5月21日水曜日

2014年7月18日金曜日

??????

2014/07/14    14:38

発信元 090898

役立たたづをぶらぶら提げてほっつき歩く。何か道に落ちていますか。暑いから御自愛を
気が付いたら寄ってね。


*****************
こんなことがありました。



2014年7月17日木曜日

兵庫県庁
歴史がある 神戸

「大アジア主義」 講演会の地
孫中山先生



布引貯水池
臼 ???? 
上流にあった水車小屋の臼です。 
五本末堰堤ともいいます。
貯水池は 明治33年重力式コンクリートダム 神戸市の飲み水 
重要文化財 
六甲山を作っている二つの花崗岩 

谷川橋 
鉄筋コンクリート製の橋


雄滝 夫婦滝 鼓ケ滝 雌滝 の滝がある。
雌滝取水堰堤 



道標が 
 左 妙見宮

 滝山城跡

 ?????
疲れました。 





他のサイトで紹介されました。 追加 上新田の道標

私のサイトに来ていただき有難うございます。
変化を知り、継承する・守るのは 私たち今生きる、私たちの役目です。

見つかった上新田西口道標が他のサイトで紹介されていました。


その ④ 
遅いですね! 私は知らなかった! 2013年春の話ですが
文化財ニュース
豊中   2013/3/31   で紹介

見つけた道標です。 新しい道標 上新田3

この道標は豊中市報で紹介されているのでしょうか!
また、どこかの講演で紹介されているのでしょうか!

初めて見る側からしては???? きちんと紹介する必要がある。

2009/3/26
今までにない道標、 見つかった道標として紹介すべきだ。


******************  その ① / ④

掲載は3番目ですが 最初に紹介された 下記の展示会

2014/9/5  以前に紹介されているのを思い出しました。 

2009年9月24日木曜日

『箕面から大坂への道しるべ展』

箕面市立郷土資料館

(右端の道標 ウツギ谷の道標 は上村 和功が見つけました。)

箕面から大坂への道標展開催にあたって  
 当館では、平成18年度に西宮から京都までの西国街道沿いの道標を紹介する西国街道の道標展を、平成20年度には総持寺から勝尾寺、勝尾寺から中山寺と続く西国巡礼道の道標をテーマに巡礼街道の道標展を秋のこの時期に開催してきました。 
  西国街道も巡礼街道も本市を東西に横切っている古道ですが、本年度は、本市を南北に横切り、大阪へ向かう道に建てられている道しるべを拓本を駆使して展示いたしました。明治43年、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)が開通して来年で100年になりますが、それまで、箕面の先人たちは大都市大阪を目指して歩きました。また、昔から紅葉と滝の景勝地として、多くの観光客が箕面を目指して歩いてきました。今回展示しています道標は、箕面街道、能勢街道、亀岡街道、勝尾寺街道のもので、箕面市域だけではなく、池田、豊中市域のものも含めて45基を展示しています。
  展示にあたり拓本のご協力を賜りましたアンコール・ワット拓本保存会及び箕面市文化財愛好会の皆様、並びに道標の所在につきましてご教示を賜りました、上村和功氏には心から厚くお礼申しあげます。
  小展ですが、ご見学賜りますようお願い申しあげます。
                                平成21年(2009年)秋 


NO45 上新田西口道標
(旧新田小学校の道標)  

この道標の所在につきましては、豊中市立第十三中学校教諭の上村 和功 氏から
当館にご教示がありました。 展示にあたりましてお礼申しあげます。

 見つけられた「道標17基」




********************  その②  ありがとうございます。

もう一つのサイト  転載  2012/9/13 掲載

十三のいま昔を歩こう

千里丘陵を歩く(8)
上新田の道標
IMG_0595.jpg
六地蔵の後ろに道標がある。
IMG_0590.jpg
「右 くま」
「左 大坂」
IMG_0584.jpg
「くま」とは熊野田村のことでしょう。
元はどこにあったかというと最初の地図の【D】の場所。
旧新田小学校の角の辺りにあったようです。

(参考ブログ)
「見本のまち」上新田 勝尾寺街道
shinden_003.png
地図と重ねるとこの場所です。


管理者のコメント

この位置は 大きな間違いがあります。

昭和23年のことを資料として取り上げられています。参考にするには明治の地図ではないこと 

旧新田小学校は明治33年 場所も規模も現在の大きさで建てられ、以後運動場・校舎も増築され廃

校になる昭和48年まで使われていました。増築された状態の写真では明治江戸時代の街道。道とは大

きく違います。

よって、昭和の写真を元に道標の元位置を特定するのでなく、明治の地図で特定すると

私が云っている、旧新田小学校北東の角にあった物と推測されます。
 
同じ写真を使用して説明していますのでそちらをご覧ください。

   南に 上新田村 があります。  水色は ため池
       一番北にある池が「樫の木池」  

   赤色の道は 上新田から今宮に抜ける 古道:勝尾寺街道  



*******************  その③  ありがとうございます。

2012/9 掲載

みのお市民まちなみ会議
http://minohmachinami.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/13-4385.html


(6)上新田西口道標(上新田墓地内)最近、上新田墓地内で半分に折れた道標が発見された。「右くま」、「左 大坂」の文字は「右は熊野田(勝尾寺街道)」、「左は大坂・三国街道(小曽根の渡しへ)」と考えられる。従ってこの道標は、元は勝尾寺街道と三国街道が交差する旧新田小学校側の「落合橋」付近に在ったものと考えられる。
5_2 6_2
サイトより 転載

北摂街道を行く 27  池田(上)

信長がこよなく愛した? 池田城


池田 (上)

2014年7月16日水曜日

庄本南水門之址 福西茂氏資料より


ここは何処  校章で分かればえらい!

由来記
 昔当所に水門あり、天保六年石造りに改修さる、
高さ五尺 幅九尺 長さ拾間、南二丁に「島ノ水門」あり、
外島に「高見水門」あり神崎川に排水高潮防止の重要な役を果たす。
 庄内五カ村水利組合で用水反別に百三十四町四反五畝三歩であった。
内用水路には庄本村「牛屋の樋」丁田「十三の樋」島江村「北の口樋」三屋村「内法利樋」
畑崎用水池「新樋」「島田村の樋」「北南の石樋」「野田土の樋」等あり。
当水門内外には、船留りあり付近日常生活品の洗い場
農産物及び田畑肥料船が水門を出入りし農民の大切な浜として栄えた。
古老云う「昔より伊勢参宮にはこのところより乗船し神崎川に出
西島河門より淀川を経て伝法の河門にいり 尻無川、安治川、古川等を
経て出発せりという 我ら等はこの風習従わず子供のころより
春夏秋冬船遊水永魚とりその遊び尽きる今年らず
昭和四十二年九月 区画整理に依りその姿を消す
今このところに碑を建てその遺構確かにこの下に埋もれてあることを
示し後世に残す
  昭和五十七年 三月」吉日


遺構の一部、遺構はこの地下に眠るか

この碑のおかげでなんとなくわかった。
写真や地図があるともっといいのだが!

この辺りの 史跡一覧表はこ ち ら


展示会を開催  昔の豊中 福西茂さんのスケッチから」 
展 示 平成26年12月5日(金)~12月11日(木)
10:00 ~ 17:00
主催 豊中市教育委員会   豊中の歴史を掘る会 
協力 シニア自然大学校豊中支部