2015年4月11日土曜日

お誘い 「上町台地を歩く パート3」 最終回

312回「春の歴史散歩」  
「上町台地を歩く パート3」
   帝塚山古墳を見学します。 
          大坂五低山の一つ、   
   マッサンの住んだレトロなまちと  藤澤桓夫も愛した。住吉区
      海の神様・パワースポット 住吉神社の総本社を訪ねる。 
  



・日 時 5月 14日()  午後1:00~4:00
・集 合 地下鉄御堂筋線「天王寺駅」西改札口
・解 散 住吉公園  
・行き先 「上町台地を歩く・最終回」   講師  常任幹事 上村 和功
・コース  聖天山古墳、 松虫塚、安倍晴明神社、阿倍野王子神社、帝塚山古墳、
      奥の天神、住吉大社、 
・距 離 7.3キロ 
 ・参加費 会員:500円  一般:700円
・主 催 吹田市郷土史研究会
・後 援 吹田市  吹田市教育委員会


関連ページ  


 藤澤桓夫も愛した。住吉区   追加 4/23  3/16  3/13 

今回のシリーズ    上町台地を制覇

 『上町台地を歩く』  2014/05/15 難波宮 → 長岡京

 「上町台地を歩く パート3 2015/05/14 藤澤桓夫が愛した地・住吉

本日(11日(土)) イオン南千里店 「黄色いレシートキャンペーン」 

4月11日 イオン南千里店   すいた環境学習協会 
イオン 幸せの黄色いレシートキャンペーン
、  
   地域のボランティア団体などに応援します。
   
   去年の贈呈相当額 2億7,505万円
 

『イエローキャンペーン』 
レシートでボランティア
あなたのレシートが ボランティアの運営資金に
イオンで買い物し レシートを団体に渡す、 ボランティアの運営資金に!
買い物金額の約1%相当がボランティア活動資金に回ります。
カードをお使いの方は、当方にお見せ下さい。記載後 レシートはお返しします。


2015年4月10日金曜日

タイの 仏塔 !! 

ちょっと違う   タイの仏塔は こちら
美味しい筍


大発見 「麻田道道標」 能勢街道を覆すか!

石橋で見つかった道標
この道標が表すことは

1.能勢街道が能勢街道か
2.街道の常識を覆す 道標か

2.街道の常識を覆す 道標か 
  街道はまっすぐ、最短距離を
  街道は困難・障害物は避ける

 下の明治18年の地図に 西国街道、能勢街道、麻田道
  
 これらの常識を覆す、刀根山の山を登る、能勢街道
 私だったら、街道の常識通りに、池田から大阪に向かうには、能勢街道を使わず
 平坦な「麻田道」を利用しますが 
 何故でしょうか!


2015年4月8日水曜日

予定を変更して 梅田 探索  追加 04/22

まず これはなんでしょうか!



実はこれでした。 梅田

04/22
デジカメの修理が終わっていましたので、梅田に引き取り
その間に、梅田の残りを写真に
 
新出入橋  
出入橋
 


 


大阪市堂島庁舎跡
明治四十五年から大正十年まで
 

凌雲閣跡 2015/04/09
梅田を通るので、少し探索

この建物南側は 元梅田東小学校  大阪工業大学校が建設中でした、


帰りには げんつきげんちゃん」
なかなか見つかりません、第一ビル、第三ビルまで、
仕方なく、最後にここしかないと思い行きました。
なーだ ここかというところ、入り口にありました。
三〇分ほど探しました。




「鍾馗様」 流 政之作

別な写真 史跡
元 櫻 橋  南詰
北区大火にて焼失す

茶屋町まで歩きます。
 
菜の花に囲まれた  鶴乃茶屋跡
昭和十年八月 門坂氏


蕪村の句 以前撮った物 掲載していないので 写真を探すのに苦労しました。
「菜の花や月は東に日は西に」

撮影 2013/11/17
2048×1536 ピクセル – 242 KB

凌雲閣跡 夜に撮ったので掲載していないみたいです。

網敷天神社御旅社

歯神社

お初天神

道路元標

南蛮文化館



未登録 スポット
げんつきげんちゃん、徳兵衛大明神、出入り橋、北向き地蔵


2015年4月7日火曜日

まちを歩くと何かが 梅田






梅田へ  点検・診断の間にブラブラ  まだありました。

以前に探索しました。  
 
確認のページを探しますが見当たらず。

「浪漫倶楽部」
 

これなに!
これは、以前の確認 
 確認できませんでした。 4/8

問題は次のポスターです。
  
「お小遣いで頑張る人応援  景気良くなるまで頑張ります。」
ですが、梅田の陸橋に 二人の「物もらい???」が
みんなが幸せになるのはいつでしょうか!


このような自販機に一枚のポスター

梅田 一周 100円
近くにバス停があるようで 行ってみました。 バスは10分間隔 すぐに来ます。

このバスです。
このシステム 2年ほど前からでだそうです。
途中 停車時間が長く、運転手さんとの雑談
超満員になることはありませんでしたが、空では走っていません。
ところで、バス内で配布のパンフレット
このマップで 梅田の史跡が 

予定を変更して 梅田 探索


明日(4/8)の産経新聞朝刊 北摂版に 何かが起こる、

2015/04/16写真を貰いました。 アップ 05/02
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情報が入りました。

 明日4/8 産経新聞朝刊 北摂版 

「マロニー」と「アサヒビール」
街道をおじいちゃんが歩いています。
吹田市郷土史会会長 藤原 学

 久しぶりの「北摂街道を行く」41 :亀岡街道  やっと登場 吹田。

   3月4日 変貌する淡路 もうすぐ北摂へ 

   1っか月ぶりの登場です。
    

2015年4月6日月曜日

別なサイト 大阪駅から吹田駅

ヨネカンの歴史を辿る鉄道 

大阪駅~吹田駅の旧線を歩きます。
実はこの区間は現状と大きく違いがあります、しかし、大阪駅付近から淀川橋梁までは現在とほぼ同じ区間を通っていました。 

大阪市北区本庄西3丁目にある「まんぽ」です、現在この区間は三複線になっていますが、その東側には補強されレンガ部分を白塗りされた、開通時のレンガ造りの構造物が残っています。(写真①)
西側はトンネルを延長したために角の一部だけレンガが顔を出しています。(写真②)
  淀川橋梁手前の道路沿いにはレンガ造りの橋台が残っています。(写真③)
 淀川橋梁の大阪駅寄り第一橋脚はレンガ造りのままです、また、2番目の橋脚以降はレンガ造りの橋脚をコンクリート補強しているようです。(写真④)

淀川橋梁を渡り切ると現行線は北上しますが、開通時の東海道本線は北東へ曲がっていました。 (下図参照。) 
img124.jpg

この地図は明治44年の地形図です。

   この地図をよく見てみると、現・阪急電鉄は梅田から中津、十三を通って三国の方に延びていますが神戸線や京都線はまだ出来ていません、そして路線名は「箕面有馬電気鉄道」と表記されています。。 
   さらに地図の右下、桜ノ宮駅の東側は路線が二つに分かれています、北側の線路が東成線(現・環状線)で南側の線路が桜宮線(旧・関西鉄道)で現在は廃線になり住宅街になっています。

淀川橋梁の京都駅寄りの橋台は下半分がレンガ造りのままです、かさ上げした部分がコンクリートになったのか、レンガ造りの上部だけをコンクリート補強したのかは不明です。(写真⑤)




淀川橋梁を渡った旧線は青い線のように曲がっていたと思われます。(写真⑥)


 さらに旧線は青い線のように曲がっていたと思われますが、果たして道路が廃線跡なのか?左側の工場や店舗が廃線跡なのか?右側の柴島浄水場の敷地内が廃線跡なのかは不明です。(写真⑦)
 淀川橋梁を渡った旧線はこの付近で直線になっていたようです。(写真⑧)

上の写真(写真⑨)と同じ場所から京都方面を見る。(写真⑩)


阪急電鉄淡路駅付近で発見した石積みですが、もしかすると官営鉄道時代に積み上げられた石積みかも?知れません。(写真⑪)
もしかしての大発見!! 
   今まで廃線跡散策の書籍やホームページを見ていて紹介されていなかった明治時代の東海道本線の遺構を発見しました、もしかして、もうどこかで紹介されているかも知れませんが。 

阪急電鉄淡路駅の京都寄りにある暗渠の下にレンガ造りの半円径の橋台が左右に2個づつ残っています。(写真⑫)

 写真⑫はこの下にひっそりと鎮座しています、数年前までは川でしたので確認は出来なかったのかも知れませんが、現在は下水工事が完了し川底は駐輪場になっています。(写真⑬)
阪急電鉄の連続高架工事のために 
   今まで廃線跡散策の書籍やホームページで紹介されていた明治時代の東海道本線の遺構、ほとんどが土に埋まった状態でしたが。 


今回の阪急電鉄連続高架工事に伴い掘り出されていました、下新庄駅の淡路方面行きホームの下にレンガ造りの「まんぽ」が残っているのです。(写真⑭)
下新庄駅の吹田寄り神崎川橋梁手前の井戸口橋梁の下にレンガ造りの橋台が残っているのです、吹田寄りの橋台は何も変哲も無いアバットですが・・・。(写真⑮)
  井戸口橋梁の淡路寄りのレンガ造りの橋台は下部に半円形の掘り込みがあります、向かい合う橋台なのになぜ違いが?。(写真⑯) 
   ここからは明治時代の地図と現代の地図を比較して私なりにたどり着いた 仮説 です。 
   井戸口橋梁は北大阪電鉄時代に構築されたのでは?東海道本線が敷設された明治時代は円形ウェルと言う橋脚が主流でした、現に阪急電鉄淡路駅の下で見つけた橋脚は円形ですし、鴨川に架けられた橋梁も円形ウェルの橋脚でした(古い写真があるそうです)、神崎川橋梁も2箇所だけ円形ウェルの橋脚が残っています。 
   また、神崎川橋梁に見れるレンガ造りの橋脚も円形ウェルの上に載っている橋脚も北大阪電鉄時代に構築された橋脚なのでは?、残っている2箇所の円形ウェルが明治時代の橋脚で川面から1m位のところに鉄橋が架かっていたのでは?堤防も現在の土地より1m程の高さだったのでは?と思われます。





   大阪市と吹田市の間に架かっている神崎川橋梁です、この橋脚はレンガ造りの橋脚や円形ウェルと言う基礎の上にコンクリートの橋脚を載せた橋脚や全体がコンクリートの橋脚など4種類の橋脚が残っています。(写真⑰)
ここで問題提起!!
   このページを編集するに当たり、古地図を数種類手に入れました、古地図を深く読み解くとひとつの疑問に当たってしまいました。
   廃線跡散策を紹介している本や資料を読んでも、廃線跡を紹介しているホームページを見ても、この神崎川橋梁に関しましては、諸説ある中「円筒形の橋脚が開業当時の物で、廃止後、北大阪電鉄(後の新京阪電鉄)の建設時には橋桁が無く、短いガーター橋を設置するために、橋脚が増やされた。」と言う説が主流です。
   しかし、古地図を深く読み解くと異論を唱えたくなりました、東海道線が複線化後の明治44年の古地図には橋脚のシンボルが記入されているではありませんか、また、昭和2年の古地図を良く見ると鉄橋が分断されています。

   地図を元に私が考えた断面図と鉄橋部分の拡大した地図を参考にしてください。
 明治44年の神崎川橋梁付近の地図を拡大してみました、この時代には東海道線は複線化されています、また、鉄橋のシンボルの横には橋脚と思われる表示があります。 
   この地図を元に神崎川橋梁の断面図を書いて見ました。 
 鉄橋を挟む様に南北に堤防状の道路があります、この道路を基準に断面図を書きましたので、以降の断面図や地図はこの道路に注目しながら見比べてください。

昭和2年の神崎川橋梁付近の地図を拡大してみました、この時代には北大阪電鉄(後の新京阪電鉄→阪急電鉄)が官営鉄道から払い下げになった土地を使って線路を敷設したそうです、鉄橋は明治時代と違い部分的に設置されています。 
   この地図を元に神崎川橋梁の断面図を書いて見ました。 

   あくまでも地図を見比べていて私が感じたヒラメキの空想論です。
   この話を突き詰めるためにはもう少し古地図を集めてみたいです、出来れば東海道線が単線時代の地図(明治9年~明治30年頃)と東海道線が新線に移され北大阪電鉄に払い下げられる前の地図(大正2年~大正8年頃)は必須です。


撮影場所ご案内