2015年10月24日土曜日

吹田の古道 New  佐井寺への道と「津門の中道」2024/08 もう一つの地図


追 加 2024/08/01 

   ① 佐井寺から上新田への道

   ② 「津門の中道」




上新田から佐井寺への道表示されている 地図②です。

他の本では 表示がありません。 地図①  


地図 ② 別の地図を見つけましたので捉える。 



吹田市都市整備部都市計画課編 「吹田市都市景観形成基本

計画」 1993 より

 「吹田市の歴史文化と西尾邸」 

 旧庄屋屋敷保存活用会 1996,1997,1999


以前の地図 地図①

「わがまち岸辺」より

  この地図は 川と池が描かれており、現在と比べるのに非常に有利で、小学生にも分かり

やすいのが特徴である。 利用させてもらっています。


観音信仰 佐井寺への道は 道標のある2点 小路道標、天道道標
 道標はないが他に上の地図で記載されている道が 千里山、片山、山田からの道がある

その① 前回の時 「片山からの参拝道はない。」という意見があったが、この地図からは信仰道として千里山からの道と共に書かれている。

秀吉の「中国からの大返し」? 吹田地域では記載はないが
 その② 「津門の中道」は、吹田を通っているという文言で 「津門の中道は一旦吹田に寄る」と主張し、何でも 片山へ抜ける道を知ってもらっていない。 この地図にはその片山を抜ける道が描かれている。 明治の地図でも 片山を通る道がえがかgれている。下の地図②にも描かれている 但し、津門の中道は当てはまらない。「津門の中道」

街道の原則は 
 「まっすぐな道」
 「障害物は避ける」  ことが前提ですので、その①、②については当てはまらない。
☆糸田川が神崎川に合流する手前で 糸田川を通る道・堤防・街道がある、その道は金田を通り吹田に至る。 それ以降 亀岡街道で茨木・春日で茨木と通り、富田で泊、翌日天王山へ


さて前項で挙げた 片山への信仰道 
その① これにも、千里山からの道と片山からの道が挙げてあり、信仰道の役割をはたしていたようです。 それ以外に 上新田からの信仰道が書いてあります。
 ズート昔になりますが、発表の時に 私も挙げさせてもらいました。上新田からの信仰道

佐井寺への道Ⅴ 信仰道 上新田ルート 2009年12月14日月曜日


上新田に佐井寺への道標があるので、新しい片山への信仰道と挙げました。
 この2枚目の地図では 上新田からの道が描かれていました。

2015年10月23日金曜日

祝 16万件ビュー(訪問者)  2015年10月18日

忘れていました、  私の誕生日でもありませんが!

訪問者数 16万件 記念すべき日でした。 10月18日(日)

 前回 15万ビューは  今年の7月には 15万ビュー  

 
開設が2008年7月13日が開始になる

      準硬式野球のブログも 2008年7月にアップしている。
  
 2006年8月27日掲載の物は むかしの写真をアップしたのでしょう。 


全区間の訪問者数の推移 月合計数

「道標・石物 その歴史を後世に伝える」
 Blogger ページ ビューのグラフ

この三カ月ほど、
 5月 2947
 6月 2860
 7月 2606
 8月 2528
 9月 2575

  
毎日100ビューはクリアしていない。  精々 80ビュー




下記は 今月のページビュー です。 



Blogger ページ ビューのグラフ



 
              

近場でランチ  夕焼け

竹見台にある
 元は内科、小児科、皮膚科などの病院があった、代が変わり 職種変更
 チョット分かり辛い




中華どんぶり

スパゲティー
どちらも盛がいい!  コヒー付きで 1000円
年金生活者には 豪華なランチ

小さな庭ですが、店の前は大きな公園です 「コゲラ」が姿を見せました。








17:55
9/19

2015年10月22日木曜日

江坂ウォッチング  著者 平塚 正明



 送られてきました。







総ページ 52ページの小冊子ですが、面白いですよ!
前回よりさらにグレードアップしています。  図書館に寄贈されたらと言っていましたが

今回は 図書館に寄贈されたそうです。  一度ご覧臭さい。

2015年10月20日火曜日

踏切探索 阪急箕面線 未完成



  
  西小路第1踏切
   

 
  西小路第三踏切

  
  平野踏切

既に調査済みの方がいらっしゃいますので そちらにリンクします。

踏切(阪急電車・箕面線)


私の踏切調査 

積層

有馬高槻構造線
 慶長の大地震 1596 みのお坊島断層   上下に約1.2m 右に3メートルのずれ

               茨木市の耳原     上下に約1.7m  
この場所は縄文時代晩期にも地震があった。

 2000年周期の断層が地震を起こしている。

 その断層の上に10万年前の地層がある。 大阪層群  


大阪層群  人類の誕生 170万年前 第4紀 更新世中期~前期

    大阪層群は200万年前から10数万年前までの地層100万年間に10回以上も海面が上がったり下がったりをくりかえした。海面が高い時には粘土をため、低い時には砂やレキをためた


沖積層と完新世

 沖積層とは、最終氷期の終った時(1万5千年前)から現在までにできた地層のことです。氷期には海面が下がり河川が深く谷をけずりこみ、その後の海水面上昇の時に地層がたまるために、この1万5千年を境に、地層のようすが大きく変っています。一方、完新世(沖積世)は、1万年よりも新しい時代のことです。ですから、厳密には、沖積世にできた地層と、いわゆる沖積層とは一致していません。


冲積世、沖積世、完新世

 以前は第四紀は、冲積世と洪積世(こうせきせい)に区分されていました。冲積とは、流水のために土砂が積み重なるという意味で、洪積とは洪水によって土砂が積み重なるという意味を持つ言葉ですから、ほんらいは、時代を特徴づけるものではありません。ですから、もっと古い時代の地層でも「ここは、かつての沖積平野であった」などと言うことがあります。
 そこで、最近では、第四紀を完新世と更新世に区分して呼んでいます。
 なお「沖積」はほんらいは「冲積」と書かれていましたが、常用漢字にはかっため「沖積」と書くようになったものです。

約20000年以降 沖積層ちゅうせきそう 最終氷河期最盛期以降に堆積した地層のこと
約6000年前 縄文海進
約2300年から2200年頃 上町断層の最新活動時期
弥生時代中期 河内湾沿岸の水没と 紀元前3世紀頃まで 稲作  300年頃終焉
3から7世紀 古墳時代

鳥羽で海抜10メートル

千里山   70m
緑地駅   50m
垂水神社  30m  上で40m


木下直三郎

木瓜紋 (もっこうもん)織田信長の木瓜紋が知られている。

元になった本?

「木下直三郎」 昭和7年発行(1968) 藤沢 章次郎 大阪府図書館禁持ち出
  1932年(昭和7年) 168p 図版37枚   出版者 岡本太郎
   東郷元帥閣下題
   元内務大臣水野錬太郎閣下

  序 大正13年10月 

     大阪府知事中川 望 (1923/9/29~1927/5/17)

  発行   勲三等 植  平
              高井 幸三
              西尾 興右衛門(府会議員)


 

木下直三郎翁追慕錄

          嘉永二年四月 吹田村に生まれる。
             大正三年一月十六日永眠(1914)

発起人総代 上野貞次郎 大正12年   吹田町長 昭和3年3月辞任


「孝敬忠誠」 公爵 徳川岡順書
   公爵 徳川 家達 16代 田安徳川家から養子   昭和15年没
              徳川 家正 17代 家達の長男     昭和38年没
      徳川宗家  徳川 恒孝  18代 会津松平家から養子  長男 家廣 

      村治四大綱の樹立   気比 新二郎
      木下直三郎翁逝去せられて■に二十有八年。今回頌徳碑しょうとく成るに際し、追慕の念禁じ難きものあり。世の父要喜知は多年村会議員及び学務委員の職にありて翁と親交あり、また囲碁の友として日々娯楽を偕にせり、翁村町就職の當時、村治の現状に鑑み、神明に誓ひて樹立せられたる四大綱あり。
   一 敬神崇祖の美風を助長■養すること
   二 財政を整理して基本財産を蓄積すること
   三 勤倹勤業を奨励し富力の増進を企画すること
   四 知能の啓発と教育及び衛生の普及改善に力むること
 之を熟読吟味するに、爾来時勢幾たびか■■し、文化頻に進展せりと■、翁が五十数年以前に於いて樹立せられたる村治の大網は■として現代に的中し、其遺志を継承して益々努力を加ふるの必用を認識する物なり。

四大綱目を樹立躬行し自ら早出晩退鋭意実行に移りて其の実現に苦心し村民を導けり

 
郷土史研究室  人物の巻 同文書院 昭和7年

大坂府の人物として4名が挙げられている。
 1、大橋 治水翁    大橋 房太郎のこと

 2、植塩  平翁

 3、秋岡 義一 翁 明治27年衆院議員に当選、以来8選される。広軌鉄道改築準備委員会委員を務めた。また、朝鮮綿業、京阪電気鉄道、京阪土地建物各(株)監査役、利別農場業務執行社員等となった。
没年月日

 4.木下直三郎 p231-239


大正14年3月30日


 


愛知県農会「全国篤農家列伝」 明治43.4

 大阪府の人物
 1.木下直三郎 氏は嘉永二年四月を以て、大阪府三島郡吹田村に生る。天質温厚人と争うことを好まず、少ふして勧業に志し、稍々長ずるに及び念々頭角を現し又常に凡介の人に非ず、一村の興望一身を被ふに至れり。
 氏の抱負は農村の開発にあり、理想村の実現にあり、村老は進るに仕官を以てし、人爵の貴きを以てスト難も毫(すこし)も意に介せず、却て自己の転職を説き長老をして舌を巻かしめし事一再 ならずとか、明治20年衆望により吹田村の戸長となり、村制を施かるるや挙げられて村長となり42年5月に至る二十余年間勤績して村治に盡す(つくす)。
 資性篤實一郷の嘱望する所となり嘗て(なめて)正副戸長となり町村制実施の際本村長に挙げられ能く地方制度の主旨を大認し専ら自治の発達を計り築堤興学勤農奨濟(すます)村債償却に盡力し多年公共事務に誠実に勤勉し其の労効顕著なりとす依って明治14年12月7日勅定の藍綬褒章を賜ひ其善行を表彰す之も即ち明治二十五年11月藍綬褒章賜ひて善行を表彰し給ひし全文の寫しなり、之を以て見るも往時の事業の如何に凡界を脱せしかを知るに足らん。 其の後東西水利に関する創立委員となり、吹田村村農会長となり、三島郡教育界副会長となり、陰に陽に斯界の為に盡すこと一方ならず世人常に語らいて曰く「あの様に働いてよくも健康を損なせんもんだ。」と以て精力家たるを知るに余あり。
 氏の吹田村村長となりし當時に於いては自治の基盤揺らぎ勝にて未だ堅確なりと謂ふ能はざりし、然るに同氏は日夜基身を忘れ村治に満身の活気を注ぎ、勧業方面に於いては競進会を催して賞し劣を励まし、教育にありては、子弟の就学を奨励し、特に吹田村の如きは治水堤防の関係至大しして加えるに悪水排除のこと亦急なり、之が急観破したる氏は拮ひらたく据すえる経営治水堤防のことを完ふし悪水排除の業を遂げ、のみならず二十九年の夏未曾有の水害に罹(かかる)るや身を挺して上京し、貴衆両委員議員を遊説しその結果として水害地地租特別處分法案を見るに至れり、之れ実に至誠の貫徹に因る者なり、當時吹田村民が流離の患を免がれしは、此人の力に拠るとて喜悦惜く所を知らざりしと云ふも宣なりと云うべし。
 明治42年5月其村長を辞するや村民感謝して措かず、其別れに臨み送りしと云う文を見るに


 2.三杉長兵衛 山阪神社(やまさかじんじゃ) 大阪市東住吉区山坂2-19-23  内
           三杉長兵衛紀功碑 明治43年6月田辺村民建
           「全国篤農家列伝」に名前が確認される。  
  3.中野遠平

 4.家村寛太郎  北河内郡招提村 現在枚方市、← 殿山町:牧野村



本「吹田町大観」 山内平三郎 その他の著書
                      「千里村誌」、「豊津村誌」平成10年
                                         「三宅村誌」昭和8年


本 「せい忠記念碑」 元帥伯爵 野津道貫


大阪府知事 従三位勲二等  三 邊 長治
吹田市長             川端 信治郎
大阪府議会議長         磯村 彌右衛門
大日本麦酒會社取締役社長 高橋 龍太郎


2015年10月18日日曜日

十三から三国


店舗名 ねぎ焼やまもと 
本店 所在地 大阪市淀川区十三本町1-8-4 
営業時間 11:30~22:00(LO) TEL 06-6308-4625 
定休日 第2・4水曜日 
席数 カウンター20席


いかねぎ980円
牛肉ねぎ980円
豚肉ねぎ980円
すじねぎ1,190円
えびねぎ1,190円
帆立貝ねぎ1,190円
かきねき(季節限定)1,190円
デラックスねぎ(いか・牛肉・豚肉)1,400円
海鮮デラックスねぎ(いか・えび・帆立貝)1,400円
ハイデラックスねぎ(いか・牛肉・豚肉・すじ)1,800円