2010年12月18日土曜日

移動  石橋の道標

能勢街道と西国街道の分岐にあった道標
移動されました。
道標は元はこの庭にありました。
溝で見つかった物を市の職員が「山形さん宅で預かってくれ」
ということで 長年 外から見える庭に設置されていました。
それが
石橋の踏み切れ横に
大きく、立派な案内板の横に鎮座しています。池田市
ここは元 石橋村の高札場跡です、
黒船の手紙は道標があった「山形」さんが行李の中から見つけたものです。
以前お会いした時、2年ほど前です。山形さんが
「早く 本を出してください。」といわれた方です。
お会いして話を伺いました。大変喜んでおられました。
この家の庭には、保存樹木が3本あります。
そのでも大きな「オガタマの木」が有名です。

一方 豊中市では未だ案内板はありません、
(上新田西口道標)豊中市

石の利用  アートに


写真を頂きました。
臼を飛び石に使っています。
場所は ・・・・・・
次回 お知らせします。

2010年12月17日金曜日

今津っ子さんより  豊中の街道・道標

資料を整理して頂きました。
現代  昔の地図から
現代の地図上では 
能勢街道 箕面街道がこのようのなります。
 道標の位置もこれでいいと思います。

江戸時代の長興寺村絵図より
  道標の位置が記されています。
江戸時代の地図と比べると道標の位置が良く分かります。

2010年12月14日火曜日

発見  大田皇女墓か

悲運の皇女
嫁ぎ先は叔父・早世し妹が皇后・子供は自害
大田皇女墓か
祖母(斉明天皇)と寄り添う墓
12月10日(金)の新聞から

イルミ 中之島

中之島







学芸員との話

お世話になった太子町役場・鍋島隆宏さんに
受賞のお礼と冊子を持参しました。
大変喜んでおられました。
その話の中で
1.巡礼道の道標が移動されている記述が歴史的に記載されているものがある。
  その道標は岩屋の分岐にあった物で
  「左 当麻寺」があった、現在 道の駅近くに移動されている。
  何故問題になったのかは
  「このルートをとるとまっすぐ行く竹ノ内での宿泊客が少なくなった。」
 それで、竹ノ内村の住民が大津の裁判所へ訴えた 
 裁判所は豊中などでは京都になっていたが、奈良県の当麻では、大津の裁判所というのもはじめてでした。
 その裁判の結果が資料として残っているそうです。

 移動するような裁判の結果でしたが、廃棄されずに移動されました。
「当時石物は高価であったのでしょう。現在の道の駅近くに移動されたそうです。」 

2.鍋島さん宅は祖父の時代に新聞社を経営されていたそうで、
 吹田市役所や「セピア色・・・」の鍋島さんも写真を借りに来られたそうです。
 隆宏さんも
 「何時かは整理をしなければ! と思いながら整理できていない。」と言われていました。
 「私も今年度は忙しいが、来年度になると少し余裕ができるので、
     私にできることがあれば、お手伝いします。」
 「デジタル化された方が良いと思います。」
    など話していました。
 またまた、仕事が増えます。また話がいろいろ広がります。

2010年12月13日月曜日

奈良公園で Ⅲ

奈良の大仏さん、南大門からさらに南下した最初の交差点南西地点にある。
これは新しく作り変えられたものだと思います。
「右 氷室神社・興福寺」のほかに「博物館」と見れます。
「すぐ かすが・・・」とあります。
その下に書かれている「道」が大変立派です。

奈良公園で  Ⅱ


二月堂の裏にありました。
「・・・・一丁」

奈良公園で

彫りも深く、みごとな道標です。
「なん・・・・」文字が読まれません。
安政四年
「右 大坂  くぜ」
「左 うじ   京」
「右 すぐ大ぶつ」

2010年12月12日日曜日

野中寺

野中寺(やちゅうじ) 「中の太子」
「上の太子」は叡福時
「下の太子」は勝軍寺

野中寺塔跡
野中寺金堂跡