2016年3月26日土曜日

海外で活躍した日本人 台湾から東日本大震災への支援 264億円

海外で活躍した日本人 移  民  




林子平 ~ 北方防備の先覚者 はやししへい



 「日本を救うためなら罪人になろうとも」     江戸中期 仙台藩士



 ブラジル日系  移 民一世紀の苦闘

   ウルグアイへの移民 ウルグアイで育った人が 
   日本で生活していたが、再度の移住地にもどる テレビ放映

   ペルーの大統領  フジモリ大統領



日系人が大統領になった国 地図



               ハワイもありますが 小さい島々です。 日本人の移民え

            移民の歴史





 


   児玉源太郎後藤新平、新渡戸稲造
   3. 悪疫予防のために、上下水道を完備
    80歳以上の老人男女を食事に招待する(饗老会)
   4.西郷菊次郎の治水工事
    5.教育に殉じた六氏先生  芝山巌精
    6.台湾の神様になった森川巡査 森川清治郎巡査
    7.蓬莱米を開発した末永仁と磯永吉
    8.台湾の土となった明石元二郎総督
    9.東洋一の大水利事業を完成した八田與一
   10.台湾 加油(がんばれ)
 


 以上 2024/01/05 追加




第3章  台湾統治

下関条約締結でわが国が台湾の割譲を受けた際、清国側全権大使の李鴻章から、台湾には絶対に根絶できない四害がある、との警告を受けた。四害とは、原住民の反乱、風土病、アヘン、盗賊である。

たしかに、台湾統治の当初は反乱がしばしば起こり、これを武力で鎮圧することもあったが、治安はしだいに安定していった。その後は原住民との宥和政策に取り組み、民生の向上に努めた。病院を建設し下水道を敷設するなど衛生環境を向上させ、マラリアなどの風土病対策に取り組んだほか、アヘンも徐々に根絶するなど、四害を次第に克服していったのである。

さらに、鉄道や道路網、港湾などのインフラを整備し、ダムを建設して灌漑事業をおこない、森林を開発して林業を発展させ、学校を建てて教育を施すなどして、台湾の人々の生活は次第に向上していった。

その結果、台湾の民生は大いに向上し、一九〇五年には約三一〇万程度だった台湾の人口が、一九四三年には約六六〇万人にまで倍増している。

台湾開発事業の一つに、扶桑社(一七一頁)が紹介している八田與一によるダム建設がある。


台湾南部に嘉南平野という広大な平野がある。しかし、この亜熱帯地域では、雨季には集中豪雨に見舞われ、乾季には水不足に悩まされており、とても耕作などできる状態ではなかった。

この惨状を知った八田が、ダム建設をはじめとする『嘉南平野開発計画書』を作成して台湾総督府に提出した。これには多額の費用を要したが、八田の情熱に押され、これが実施されることとなった。
原生林の広がる未開地でのダム工事は困難を極めた。そうしたある日、トンネル工事で爆発事故が発生し、五十数名が死亡したほか、多くの重傷者を出した。八田は、台湾人の犠牲者の家を一軒一軒回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えたという。

この事故で八田は自信を喪失し、事業の断念も覚悟したが、「事故はあんたのせいじゃない。おれたちのために、台湾のために、命がけで働いているのだ」との台湾人の言葉に励まされて、工事を再開した。そしてついに一九三〇年、ダムは完成した。これとあわせて嘉南平野には一万六千キロにも及ぶ水路がくまなく張り巡らされ、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わったのである。

今でも、彼の命日である五月八日には、ダムのそばにある彼の墓前で、地元の人々によって感謝祭が行われている。また二〇〇四(平成十六)年末には、日本を訪れた李登輝前台湾総統が、金沢にある八田の生家を訪れている。

ほかにも、一九三一(昭和六年)の第十七回全国中等学校野球選手権大会(いまの夏の高校野球選手権大会)では、台湾の嘉義農林学校が、奮闘の末、準優勝にまで上りつめたというほほえましいエピソードもある。

そうした明るい一面があったからこそ、李登輝をはじめ、きわめて親日的な人物が台湾で数多く現れたのである。

にもかかわらず、扶桑社を除く各教科書の記述は、「日本に統治されることに反対する台湾の人々の運動を弾圧しました。しかし、日本からの独立を求める運動は、その後もつづきました。」(教育出版 一二七頁)、「日本の領土とされた台湾では、独立運動がおこったが、日本は軍隊を派遣してこれを弾圧し、台湾を植民地として支配した。」(日本書籍新社 一五九頁)のように、暗黒面ばかりをやたらと強調している。あまりにもバランス感覚に欠けた偏向的な記述であり、日台関係を正しく理解するという観点からも不適切であって、台湾との友好をもわざわざ悪化させてしまうものとさえいうべきものである。
台湾人の蔡焜燦氏はこう指摘する。

戦後日本では、かつての植民地統治を無条件に批判する言論が幅を利かせていると聞く。が、日本による台湾統治によって、いかに多くの台湾人が恩恵を受けたかという側面を考慮しないことはあまりにもお粗末であり、聞くに耐えない。それは単なる特定イデオロギーに染まった〝こじつけ〟でしかなく、少なくとも日本の統治を受けた台湾人には理解し難いことであることも、ここに付記しておく必要があろう。
(蔡焜燦『台湾人と日本精神』六十七頁)

扶桑社を除く各教科書も、暗黒一色の「お粗末」な記述を改め、われわれの先人が台湾の発展のために尽力したという歴史的事実を明確に記述すべきである。特に、日本人と台湾人が協力した八田ダム建設などは、扶桑社以外の教科書でもコラムで子供たちに紹介したいエピソードである。
針原 崇志 より転写 
 映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』

「湾生」戦前の台湾で生まれ育った約20万人の日本人を指す言葉です。

透過

びっくりぽんや!「あさが来た」 北浜界隈探索会 実施編


別なグループは案内役 講談師 


講談師 旭堂 南陽さん
「北摂の武将を訪ねる」 高山右近
大阪日日新聞 3/26

びっくりぽんや!「あさが来た」北浜界隈探索会 終了しました。


錦橋の昔の情景を見るシニア自然大学の会員

大同生命 資料室の見学
皆さん熱心です。  梅花高校は・・・・

旧ダイビル の4階に設置されていたもの。


堂島米市場跡

                      新 町 橋

                 
玉江橋            安治川橋

 

これは 心斎橋 今でも人通りが多い

現在、鶴見緑地に「緑地西橋」として保存

高麗橋

忘れられた橋



大同生命2階資料室



適塾

伍代友厚像  
大阪市内に銅像は4基
今回 大阪市大に銅像が建てられた。 5基になる。

下のポスター 伍代友厚が作る 明治の遺産

明治日本の産業革命遺産   小菅修船場(長崎製鉄所) 非公開

長崎空港にて 


前回見つけることが出来なかった 大阪会議 「花外楼」

料亭「加賀伊(かがい)」店名を「花外楼」と改名

最初の大阪会議は 「三橋楼」

後は 高麗橋

8軒家船着き場の跡

熊 野 街 道

街道 色分け  亀岡街道,横関街道,本庄街道,能勢街道,中国道,





街道 色分け 
 紫色 左から中央へ降りているのが 中国道
 赤色 能勢街道 明治以降 橋が架かっていた
 黄色 本庄街道
 水色 横関街道
 白色 亀岡街道

木下直三郎 資料

[PDF]Page 1 Page 2 Page 3 Page 4 Page 5 恩盟忘るる能わぬ港の ...


   二十四年十月大阪府の有志五人 (大橋房太郎、 植場平、 前田欣汰郎、 木下直一二郎、 藤富衛) は京都府有志と共. に上京し、 内務大臣品川 .... 藤田伍三郎は独力工事の引受を申出たが、 同様許可されず、 築港のことは再度挫折した。



格上げ 下三番村の道標 中国道と能勢街道の分岐に建っていた道標!

結果を先に  この道標は 中国道と能勢街道の分岐に建っていた道標です。
場所で言うと 中津の下三番村の分岐の北側に立っていたもの。
下の地図 赤印   中国道と一般的云う能勢街道の分岐


一枚のスケッチ画から  福西茂さん

現在はない 緑地の「サボテン公園」のスケッチ
左端の道標
馴染みの地名が出てきます。 何処に立っていたものでしょうか!
現在は奄美大島の 「奄美アイランド」に立っています!
石に刻まれている文字を拾ってみます。
           左面       正面       右面
 
大阪市に問い合わせをしましたが! これに関する資料は見当たらないとのこと。
裏面には 「天保十三年」(1842) 明治元年は1868 もうすぐ明治
ということで、 正面が道路に向いている。
中国道の三叉路の北側に立っていた。

赤色 能勢街道 明治以降 橋が架かっていた
 黄色 本庄街道    水色 横関街道   白色 亀岡街道

正面 これから説明した方が分かりやすい、高麗橋からの道の案内 「すぐ の道」は現在の能勢街道 江戸時代は、野道であった。 明治5年の大阪府道路修理通達でも、この道は野道で、池田に行くには、「池田街道は本庄の渡を経て池田より能勢丹波に至る」となっており、 下3番が登場するのは 明治24年大阪府補助道路一覧に 6番目に能勢街道として西成郡中津村大字下三番国道第二十六号路線より能勢郡歌垣村大字吉野管轄界迄」 これが、下三番村が出てくる所以です。 これより、私たちは「能勢街道」と呼ぶようになった。 天保13年には、能勢街道はこれでなく、ただの「野道」だったのです。
 能勢街道であれば、「すぐ いけだ」にはなっていない理由が分かっていただけたと思います。
左右は それぞれ、尼崎、なにわばし(高麗橋)への道としている。







小野原にあった 吹田への道標

http://space.geocities.jp/fkyws889/miti_toyonaka.html#1

鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン

鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字鄭成功簡体字郑成功ピン音:Zhèng Chénggōng、ウェード式:Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日1662年6月23日))は、中国代の軍人政治家。元のは森。は明儼。日本名は福松[1]に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
日本平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、時の第28代藩主宋陽隆信の寵をうけ川内浦に住み、浦人田川マツを娶り二子を生んだ。二人に、福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県生員になった。明の陪都・南京東林党銭謙益に師事。

明の滅亡[編集]

1644年李自成北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、は滅んでが立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍なの軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。
そんななか、ある日鄭森は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。

抵抗運動の継続[編集]

鄭成功軍の占領地と影響圏
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。

台湾占拠[編集]


鄭成功が攻め込んだオランダの城跡に建つ「赤嵌楼」

安平古堡の鄭成功像
鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍フリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)。
歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている[1]

赤崁楼(せきかんろう)は別名を赤嵌楼紅毛楼 とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懐一事件(1652年)の後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。現在は中華民国内政部により国家一級古蹟に指定されている。