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2023年12月30日土曜日

80万人 豊中市の文化財 道標編 豊中市の道標 ????

感染割合 
累計 67,856人 約6人に一人    約5.58人に一人  計算しました。
24日感染者数 910人 感染率 0.24%一日当たり

大阪府下の累計1,730,754人  約5.07人

感染者の多い大阪市は 累計592,384人  約4.6人

東大阪市は累計92,925人 5.17人に一人 

将来を担う子供 出生率低下 年間80万人 

  ① 小学校卒

  最終学歴「小卒」80万人 文科省、夜間中の設置促進 

  最終学歴「小卒」が80万人余 NHK


  ② シュツセイ 出産少子化

「2022年にも出生数80万人割れ」の衝撃――政府予測より20年前倒しの少子化をくい止めるには「異次元子育て支援」が必要だ


出生数“80万人割れ”目前…!「止まらない少子化」で危機に ...

  中国の一人っ子政策による現状は

 




    その日本人たちは

鳥居信平~南台湾を今も支える地下ダムの建設者  

「飲水思源」???

  地下ダム・二峰シュウ(土へんに川)は南台湾の宝
   原住民は シカ肉やタケノコを肴に栗から作ったどぶろくを飲んでいた。
   新農場は萬隆農場
   鳥居信平 銅像  静岡県袋井市上山梨の月見の里学遊館
     


   
   東洋一の烏山頭ダム建設し、嘉南平野の100万人の農民を豊かにした




 明治天皇後藤新平新渡戸稲造八田與一磯 永吉
    12人の名前が挙がっている。




豊中市の文化財 道標編 

25. 馬頭観音像を刻出したもの 上新田1-7-11 大岡正芳氏宅前

道標で「立石」とは大きな道標のことを言っている。 さて、この項で 

25 の項の後半に 「上の立石」のことが次のように書かれている。

その1 これとほとんど同じ道標33)(疑問 その2)(但し、33の項はなく30に書かれているが全く違った別の道標です。続き)が上新田小字安場(新千里東町)(疑問 その3)にあった。土地の人たちは「上の立石」と呼んでいた。ニュータウン造成前は「1メートル四方を整地して花を供えて祭っていたが、造成工事中に盗み去られた.これは読売新聞社刊『野の仏』(疑問 その4)に写真入りで掲載されている。それによると、角柱の上部に馬頭観音座像を陽刻し、下に「右 かちおし」と見える。右面には刻文は見えない。・・・」以上

その① (33) の表記は

まるっきり違う道標 旧住所 新千里北町2樫ノ木池北東 (上の立石があった場所だが)

 道標の表記が違う  「野の仏」の画像を掲載しましたので確認

その② 写真 本「野の仏」上の立石 樫ノ木池北東 で安場池ではない。

もうひとつ写真
その② 豊中市立教育センター所蔵 「上の立石」の説明にも 樫ノ木池北東と 在所指定されていてここ22番だけが上の立石の在所を安場池となっている。    

その2. 「33 ➡ 30 はほとんど同じ」・・・ ではない!

 道標30は 万人講道標で まるっきり別の道標編には旧在所は同じだが表記が違う

旧在所は「上の立石」住所だが新千里北町

 表記は「為万人講」は大きさ 14-15cm角柱で「立石」には当てはまらない。

 この表記から30番の道標は「万人講」道標 上新田の西口道標(万人講)と同じ

 上記の道標は 江坂の須佐能神社、油かけ地蔵の石仏群にあった「万人講」道標

別項 江坂の万人講 

 

28.打越池北西三叉路

  右 大 坂 道   世話人

  左 下新田 道   大峰講中 

   消失


29.勝尾寺と佐井寺の分岐 方向が示されていない。(赤字

 (西面)  さいてじ

       かちをじ

 (東面)  大坂 

 (左面) 天明元辛丑/南の濱尼講中  天満にある 南濱か!

 さらに 豊中市最古の道標として挙げられているが、年号刻印 「天明元年」 他の面の刻印と違い 加筆されたのではないか! 

 上新田の東口道標は年号が入っていないが 1面に記載されていますので古い道標です。

30.樫木池北東、勝尾寺と野道との三又路 新千里2丁目 


 これは 「万人講」道標で 箕面市に2基あり、上新田の西口道標も同じ表記で、四角柱で大きさが14~15㎝で 本「野の仏」、教育センターの所有する写真「上の立石」は 角柱17~20cmで大きい 全く違うものである。

 30番道標は江坂「素盞嗚尊神社」境内、油かけ地蔵の石造群にあった物  

「またもや発見 ここよ!ここよ!と呼んでいる。」2011年8月17日水曜日

 「箕面の道しるべ」 万人講 2020年2月2日日曜日


別件 古い道標は 別サイト

 道標は初期?古いのは 一面だけに記載されているものが古いとされている。

 上新田では「上新田東口道標」山田道分岐点道標と

 「名号板碑道標」 長興寺2-1-16 が古いのではないでしょうか!

 石造の道標ですが 初期には木造もあったと思いますが、現存していません。

 木造は ペンキであれば 約50年持ちます。上新田の古い木柱は 上新田五一会 が建てたもの 

「写真でみる 上新田」  五一会 昭和53年1978 

 道標の案内の杭は 1976年といわれています。






30番 樫の木池北東、勝尾寺街道と野道との三叉路  新千里北町2丁目
   住所から「上の立石」の紹介がされています。 写真はありません。

写真で見る上新田には 
次の項目
 現 新千里東町、旧 新田字安場に「上の立石」があった。
 文化年間(1804~17年)造立された・・・
 周囲1m四方整地して土盛りされ、常に花などが供えられていた。と伝わっている。
 中野博太郎氏が再建されたといわれる。  

   
記述としての表記は
(南) かちをうし
(西) 南無阿弥陀仏
(北) 
(東) 為万人講衆中法界   となっています

   この30番の道標は 馬頭観音像もないので「上の立石」ではない。
  その他の表記から「万人講」の道標です。

「上の立石」は 本「野の仏」「上の立石」は下記の通り
  
馬頭観音像 右 かちをじ
右面には 記載がない様だ!
以下「上の立石」項は
「樫の木池南東」にあったもの 上新田からここに来て
 今宮を経て新家より勝尾寺を目指す、
 献花が絶えない道しるべであったといわれていた。
 別名 「上の立石」
   馬頭観音像「右 かちをじ」 

 豊中市教育センター所蔵の写真より


福西茂氏 画集 より
A.13 上新田のこの道標
「上の立石」として紹介されている。

豊中市の道標編では
25 馬頭観音像を刻出したもの
「馬頭観音像 右 か 〇〇〇」
裏面 「   上 ○○〇」 と記載されている。



万人講 について
箕面市に2基 
「箕面の道しるべ」箕面市教育委員会 平成三年十二月二十日
 を参照 番号は記載番号 
 万人講道標は勝尾寺街道に4基あるうちの2基は箕面市
要点は 勝尾寺から大阪に帰る案内でその道を箕面市では「大阪道」と呼んでいる。   街道分岐の要所要所に設置されている。

万人講 ①(勝尾寺からの出口道標)
NO48. 表参道の2町石と3町石との間にある。 
    大阪道の入り口        
道に左右に敷石がひかれています、この道が新家からの表参道 
    写真の手前が勝尾寺 真っ直ぐが表参道・新家へ
    表参道から右側に道があります、これが「大坂道」
    この道標は道から右へ5mほど下ると左手に立っています。
    この後、シラミ地蔵を通って 中山の巡礼道を辿り、巡礼道と別れ
    ウツギ谷下池を通り 外院を目指します。 その先は 表参道の新家の鳥居へ


万人講 ②
NO.46, 在所 西小路三町目十    現在 箕面市立歴史資料館
  大坂へは勝尾寺表参道・新家から西国街道新家から西へ 今宮村から大阪への入り口(勝尾寺街道)に建つ  上新田を目指す。
 


 
万人講 ③  豊中市の万人講
  上新田西口道標 勝尾寺街道の分岐 大坂・三国街道へ
   現在 吹田市江坂素戔嗚尊神社の油掛け地蔵石仏群
   旧在 三国街道と横関街道が交わる 高川右岸堤防 

下部欠損  高さ 23cm × 角柱 14cm

万人講の道標は 勝尾寺から大坂への案内の道標であったが
この道標だけ「勝尾寺」への案内。
大阪への案内が・・勝尾寺 入口か! 面白いと思いませんか! 
この道標は何処に建っていたのでしょうか!   その答えは
このページの先頭の「万人講」道標がこの道標の旧在を示しています。  

2021年8月15日日曜日

戦跡を巡る、大阪史跡探訪(11,10)

 別件 調べています。どうしても出てきません図書館に問い合わせ

   ネットで調べる「道標 上の立石 下の立石」 


道標 上の立石、下の立石画像をすべて見る

で ブログ掲載の私の写真が多くありました。

         4基の万人講、 


大阪市史跡探訪(11) 城東区

   鴫野古戦場跡 (鴫野東3丁目)
   新喜多新田会所跡 (新喜多東1丁目)
   旧野崎道の跡 (今福南2丁目)
   榎並猿楽発祥の地、榎並城跡伝承地 (野江4丁目)
   

大阪市史跡探訪(10) 平野区

   杭全神社連歌所 (平野宮町2丁目)
   平野環濠跡 (平野宮町2丁目)
   瓜破遺跡 (瓜破東4丁目)
   含翠堂跡 (平野宮町2丁目)

大阪市史跡探訪(9) 西淀川区・淀川区

      判官松伝承地
   佃漁民ゆかりの地
   野里の渡し
   上田秋成寓居跡・加島鋳銭所跡

       皇大神宮の明治三十七八年戦役紀念碑(大阪市城東区)
    明治三十七八年戦役紀念碑(大阪市城東区) 
  榎神社の「昭南島改稱記念」碑(大阪市東住吉区)
  姫路市平和資料館(兵庫県姫路市)
  太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔(兵庫県姫路市)


 

2019年3月14日木曜日

立石 3基 上新田・江坂・野の仏  消失した道標 下新田への道 熊野田からの道

もう一つの写真 「上の立石」  

 豊中市教育センター所蔵の写真より
この写真には花立があります。


  上新田村の村の中央に立つ立石は 
       「豊中の史跡たずね描き」には 
   この道標を「上の立石」として紹介してあり、
   説明文の最後には下の立石のことがこのように書かれていて  
  「下の立石、造成工事中に持ち去られたのか、所在不明である。」とかかれている。
昭和58.1.26スケッチ

条件としては 大きさ 大きいこと 
横幅より奥行きが広いことが特徴で 同じ人または同じ講の設立と思われる。


野の仏の「上の立石」
その紹介には、「(馬頭観音像)右 かちをうし」だけで
他の面には記載がない、すなわち 道標30の後の2行の表記はされていない。
大きさは 17から20cm

 
表記の間違い 別な道標   「上新田西口道標」
  (東) 左大坂
 (南) 南無阿(弥陀仏)
 (西) 為万人(講衆中法界)
 (北) 右くま(のだ)  
  「上新田西口道標」の 2行が同じです。
 これは万人講が設置した道標で 大きさは14~15cmの角柱 
 
「立石」大きな道しるべとして紹介されているが、万人講大きな道標ではない。

失われた道標 30(「上の立石」)樫の木池の北東
混同して表記は
    「かちをうし」、
      「南無阿弥陀仏」、
      「為万人講衆中法界」 と掲載されていますが、
  万人講の道標は大きな道標ではないのでこれは「立石」ではない。
       箕面市では 2基「万人講」と呼ばれている。
       別な資料によると 表記が違う
              4基の万人講道標はこちら         

それから 道標がなくなりました。
豊中の文化財 道標編 の地図の一部を切り取りました。

失われた道標 28 「打越池の道標」打越池の南西
右 大坂   世話人 
左 下新田  大峰講中



2009年10月5日月曜日

野の仏 古き庶民のこころ  大阪読売新聞社 追加2021/09/04

その他の記載 市町村の掲載
吹田市 
  (30)じ ろ う 佐井寺観音内
  (31)防火用水の地蔵 JR吹田駅 吹田郵便局西側道を北へ200m

豊中市
  (10)上の立石 旧在 千里中央 樫ノ木池 北東三叉路

箕面市
  (27)首なし地蔵 粟生新家

池田市
  (47)菩提寺の地蔵 池田市 伏尾

茨木市
  (1)捨て地蔵  茨木市大門寺

高槻市

豊能郡東能勢村
  (2)長安寺跡の阿弥陀 切畑字小松下所
  (7)カネ引き地蔵   切畑字中ノ西

  (46)黒御影の弥陀三尊 切畑字大円    
以上
 「野の仏」 


再度 掲載 2013/10/26
「野の仏」この本は 一般の図書館にはなく
大阪市立図書館から取り寄せました。

古き庶民のこころ  大阪読売新聞社 昭和39年
 大阪府50基の石物
上新田の道標「上の立石」。佐井寺の地蔵の溝「じろう」が載っている。