江坂の住民から報告を受けました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありましたね! 今日 確認に行く事が出来ました。
良かったよかった。
現在の道標は、公共の物として国、府、市町村が管理していますが、江戸時代には、人の移動など考えがなく、道先案内には庶民、又は講が立てて旅行者の案内を行っていました。それで、「道標」は昔の人の庶民の文化財だと思っています。
その庶民の文化財は無くすことは出来ませんし、このような土嚢の様な扱をするものでもありません。この道標はある面に「南無阿弥陀仏」と書かれていたので、バチが当たると考えたのでしょうか、上新田では、墓地で発見しました。
先人の意志を後世に伝えるのは現在生きている我々の務めです。
見つけた当初
またもや発見 ここよ!ここよ!と呼んでいる。 2011/8/17
またもや 再登場 気になる道標 江坂 福知山の道標 2011/8/16
その② 下の道標は 勝尾寺表参道の二町石と三町石の間にあり、下記のように書かれています。大きさも大体同じです。 よって 他の三基は完全なものはありませんが想像して書きました。この石が「為万人講衆中法界」と彫られたいるので箕面では「万人講」道標と言われています。
「箕面の道しるべ」四八番目記載されています。
その① 「箕面の道しるべ」に記載 四八 山中・大坂・帝釈寺
その② 下図右側 箕面市今宮2-4 西国街道、大坂道の分岐に立っていた。
現在所は 箕面市立歴史資料館所蔵
「箕面の道しるべ」46に記載
その③ 豊中市上新田 上新田墓地で見つかる 2009/3/26
現在旧新田小学校北東角に移築されていますので
その④ 吹田市江坂 豊中の道標編 30 がこれに当たる。
今は、主なものをいがいは周りに土嚢の役目を行っています。
その①~③の道標は「大坂」への案内になっていますが、その④だけは勝尾寺へ
の案内になっています。観音信仰が流行り大坂の人達が講をつくり、道標を建て
たものだとおもいます。
その①~③の道標は「大坂」への案内になっていますが、その④だけは勝尾寺へ
の案内になっています。観音信仰が流行り大坂の人達が講をつくり、道標を建て
たものだとおもいます。
上新田では保存されました。
0 件のコメント:
コメントを投稿