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2019年3月4日月曜日

忘れられた橋   in 奄美

次に ②,③ は   忘れられた橋として登録
何処にあった橋でしょうか! 
 
「たかつ橋」の親柱  
大阪市内に ありました。 ウィキペディアの中にありました。 高津入堀川(こうづいりほりがわ)に
 同一視することは 出来ませんが まずは 第一歩です。
 道頓堀川の下大和橋下流側から南へ分岐し、西高津新地内で一度クランク状に折れ曲がり、国道25号の手前で西へ、南海本線を潜ってすぐ北へ向きを変え、浪速区役所の南東で難波入堀川(難波新川)鼬川に合流していた。長さは約1.8km。現在はクランクより上流側の区間を除いて阪神高速1号環状線の敷地に利用されている。  享保19年1734 開削 
大阪市内の川の地図写真は右側の地図 13:難波新川 14:高津入堀川 こちら
  もう一つの地図  27:高津入堀川 28:難波新川  29:鼬川  37:七瀬川 こちら

「高津入堀川」上流から  市街地図    広域地図

  • 清津橋  
  • 吉田橋
  • 磐舟橋 - 千日前通
  • 末広橋
  • 「高津橋」 この橋でしょうか! 写真か絵があるといいのですが!
  • 福知橋
  • 沖田橋
  • 堀初橋
  • 深田橋
  • 薗坪橋
  • 愛染橋
  • 増井橋
  • 玉水橋
  • 名呉橋 - 堺筋
  • 夕日橋
  • 広田橋
  • 星池橋
  • 高岸橋
  • 船出橋


橋を調べていたら 新しいことが
  ① 環状線芦原橋 鼬川にかかっていた橋 一度は見に行きたい。
  鉄橋・鼬川橋梁が残されていて、橋梁の下は現在は芦原橋駅の自転車駐輪場になっている。
大阪環状線鼬川橋梁(芦原橋交差点付近)
② 平野川の調節池  ためていて最後はポンプで木津川に   こちら
      これによって 浸水家屋が激減する。
  

③ 運河連結工事中に 古代のくり船が発見さた。碑は浪速区難波中3丁目

またまた新しいことが・・・・
  調べることは 楽しいですね ルンルン


2014年12月10日水曜日

池田市から御礼のメール その① 忘れられた橋 その② 一枚のスケッチ画から 巡礼橋 in 奄美    

池田市の御礼メール・回答 10/7
 数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。

ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。

いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。

池田市教育委員会 

忘れられた橋 として登録 

サボテン公園 一枚のスケッチから 

 

     一枚のスケッチ画から 池田市

橋の架け替えの記録
文政5年(1822)、天保14年(1843)
万延元年(1860)、文久2年(1862)
「巡礼橋」 広報池田 平成2年7月1日号  別な調査で 池田で見つけました。
明治10年頃まで「巡礼橋」と言っていた。



その⑤  巡礼橋の親柱
 
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
 後ろは 欄干の丸い穴が


池田市の回答 10/7
 数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。

ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。

いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。


池田市教育委員会 

2014年10月13日月曜日

サボテン公園 in 奄美  見つかった道標 

1枚のスケッチ画から 奄美へ
見つかった道標 27
スケッチ画の左端に 道標が 

道標表示 ① 正面 右 すぐのみち


道標表示 ② 左面 すぐ

道標から 上の写真の面を 正面とします。  地上より高さ 百五十センチ
右面   30センチ 横が 29センチ の巨大な道標です。
 この下は
すぐ 十三? かんざ記  中山道  面白いのが分かりますか
    表示 かんざきを  かんざ記 となっていることです。
 その下には    中国道を表します。
 
解読し教えて下さい
      右 のみち?(明治以降の能勢街道)
(大きく) 左 おはつ天神?  よどやばし  と 

  
道標表示 ③  裏面になります
 
天保十三年(1842)   明治元年は1868 もうすぐ明治

道標表示 ④ 右面 すぐ

右面
大きな文字で上に 「すぐ」と下に「右」とある???? 珍しい 初めて見ます。
この道標の表示は全ての方功の面では このように上下形式を取っています。
        すぐ  右 おはつ天神? よどやばし   
     (小さく)  左  のミち


スケッチ画から解読すると

道標表示 ① 正面

   右  すぐのみち    右 てんま天じん  なにははし
                            左 十そう   かんざき   なかやまへ


道標表示 ②  右面(東向き)
             十そう                      右 のみち
  すぐ   かんざき         左 おまつ天神
      中山へ             よどやばし


道標表示 ③ 裏面 スケッチには記載なし

   天保十三年(1842)


道標表示 ④  左面

         なにわばし          おまつ天神
   すぐ            右 よどやばし
       てんま天神   左  のみち

以上 スケッチ画から解読


解説 「すぐ」 と 「右」 の表示は 「すぐ」が主で 暫くまっすぐに そして途中で「みぎへ」というあんないである。  同様な表示方法は、十三の神津神社にある道標「小島北口道標」がそれである。 この道標では 行先が 網天神、おまつ天じん、淀屋橋等が書かれている

   以上のことからこの道標が立っていた場所を推定すると
     中国道沿いに建ち高麗橋から来て 左 淀屋橋へ  右 の道 との分岐  
     右「のみち」 は明治の淀川には有料の新橋が出来、この「の道」 能勢街道としている。

     明治の24年(1892)の大阪府地理土木法規
      中国道と能勢街道は・道の時には 今の 大淀警察署を進み、コンビののところを



すごい発見になりました。
中国街道と「野道」への分岐の道標だ!
 明治二十四年には中国街道は国道二十六号線 西成郡中津村大字下三番に立っていて、「能勢街道」と「能勢街道」との分岐となる。これは 天保十三年で この時分には能勢街道ではなかった。 
 能勢街道は それまで経路が違う  明治五年の通達で
  池田街道(今の能勢街道)は 本庄渡を経て池田より能勢丹波に至る 道幅二間 となっている。  
  街道に関する 明治の大阪府の表示方法は こちら
 
  大阪市内を調べると面白い   

  早速、登録させていただきます。

≪回答文≫ 大阪市 10/6返信
お問合せ内容を教育委員会事務局 文化財保護担当へ確認いたしましたが、
残念がらこの度の道標に関する情報は持ち合わせていないとのことでした。
何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

2014年10月5日日曜日

一枚のスケッチ画から 中国道と能勢街道の分岐「下三番道標」でした。 07/06 「たかつばし」 追加 02/17  

明日は七夕 10年間での降水確率 23%
     明日は 雨か!
 
追加2
2015/07/01  奄美大島で拓本が出来る方を探しています。 私は拓本はやったことがありません。   問い合わせをしているのですが! いい返事はありません。

  このページ 関心があるようです。 大事な表示は 消したのですが!
 
奄美で見つかった 2015/10/05
中国道と能勢街道の分岐に立って居た 道標です。

  「下三番道標」 が残っていますので、お分かりだと思いいます。

    これはすごいですね!

     奄美大島に行った時、これ下3番の道標だと思っていたのですが、そのままでした。
  以前の 中国道の道標も・・・・・ 大阪市内は道標の宝庫ですね!
  

  •  十三 の道標  2基  2011年4月20日水曜日

  •        これもすごい、ですが、大阪市内でしたので、詳しくは調べていませんでした。
 
追加1
2015/02/17  大阪市立中央図書館 調査相談担当空の返事


お問い合わせいただきました件につきまして回答いたします。

【質問内容】
1.大阪市内に「たかつ橋」という橋があったか
2.大阪市内に「やきやま」とつく橋があったか

【回答】
1. 下記資料に、高津入堀川に「高津橋」が架かっていたことが確認できました。

『大阪の橋』松村 博/著 松籟社,1987<当館書誌ID:0000164468>
p.275-280に「高津入堀川(こうずいりぼりがわ)の橋」の項目があり、
その内、p.278 「入堀の橋数」の項に「高津入堀川には開削とほぼ同時期に
六つの橋がかけられたと思われる。道頓堀に近いところから南へ清津橋(きよつ
ばし)、吉田橋(よしだばし)、末広橋(すえひろばし)があり、川が東折して
南北方向に高津橋(たかつばし)が架かり、さらに南折して福知橋(福智橋:
ふくちばし)、沖田橋(おきたばし)が架けられていた。」との記述があります。
また、p.277には、『摂州大阪地図』(文化3年)の高津入堀川附近の地図が
挿図として掲載されています。

『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』
大阪町名研究会/編 清文堂,1977.9<当館書誌ID:0070049341>
p.387-p.390「高津町一~十番丁」の項の内、p.390の6-9行目に、「高津橋七番
丁、今は埋め立てられ道路になっている高津入堀川にかかっていた高津橋南詰に、
(後略)」との記述があります。

2.あいにくですが、上述の『大阪の橋』をはじめ当館所蔵の橋や碑に関する資料
には、大阪市内に「やきやま」とつく橋があったことは確認できませんでした。

以上、回答とさせていただきます。
上記でご紹介しました資料は、ご来館予定の当日に、
下記調査相談担当までお電話いただきましたら、
お取り置きができる場合もありますので、お気軽にお問い合わせください。

『大阪の橋』松村 博/著 松籟社,1987
『大阪の町名 : 大阪三郷から東西南北四区へ』大阪町名研究会/編 清文堂,1977.9

ありがとうございました。

********************

解説付きの一枚のスケッチ画から始まる奄美の旅 

奄美で見つけた 「たかつばし」・「高津橋」の親柱

服部緑地にあった「サボテン公園」 in 奄美④ 

寸法記入・「巡礼橋」茨木市からの回答 10/18

炎上中 訪問者 激増 10日間で 60件   10/15

史跡、文化財の解説付き スケッチ画から
最初のきっかけは、展示のために原画を再度見ていて気づきました。
スケッチ「徳林院への道の道標」の中に

「巡礼橋」  「大きな道標」 「たかつはし」 何これ! 

下の絵は 大きな道標  表示から 下三番の道標と考えられる。

情報では破壊された「南町のだんじり」の様子も探るため





原  野 農 芸 博 物 館の所蔵石物 調査報告

昔 服部緑地にあった「サボテン公園」
現在は 奄美大島 「奄美アイランド」へ

「サボテンえん」の入り口
何か見えてきました。 昔の「サボテン公園」のゲージ
移転に当たり 服部緑地をそのまま移築 とのこと 平成元年オープン
この写真に 「サボテン公園」案内と「ラ・ベッタの巨石人頭像」が映っています。
よーく観察してください。2つがあるのです。

分かりますか! 原画とは似ても似つかない、全然違う角度です。 それでも 案内と対に描かれている「巨石人頭像」 このようなことが出来るのが スケッチです。
原画を確認してください。


石物①
 ラ・ベッタの巨石人頭像 
メキシコ湾岸のオルメカ文化の遺跡に見られるネグロイド的風貌の人物の頭部を表現した巨大な石像のことをいう。「オルメカの頭」を意味するスペイン語のCabeza   (ウィキペディアより)
もう一つの ラ・ベッタ
名古屋市博物館

ありましたありました。第一関門です。   続いて
石物② 
豊中の道標 NO.13 梵字大峰道標
180センチ 31.7×23.8   大きな道標です。 
(正面)
大峯山 三十三供養   右 大阪   左 吹田
(右面)
明治四十年八月建立 長興寺花王講
寄進 中務四右衛門
(左面)
世 話 人  講 中
地主 田井巳之助


石物その他    
道標表示 ①上の道標の通路の反対側には 左から①、②、③、④、⑤  の石碑が
②③は形状からして対の物 「高津橋」の親柱
④ 徳本寺への道標  ⑤ 「巡礼橋」の親柱
地域もバラバラです。大阪市、豊中市、池田市と考えられる。

まず①から 上の写真の面を 正面とします。  地上より高さ 百五十センチ
左面   30センチ 横が 29センチ の巨大な道標です。

道標表示② 
 この下は
すぐ 十三? かんざ記  中山道  面白いのが分かりますか
    表示 かんざきを  かんざ記 となっていることです。
 その下には    中国道を表します。
 解読し教えて下さい
      右 のみち?(明治以降の能勢街道)
(大きく) 左 おはつ天神?  よどやばし  と 
  
裏面になります
道標表示 ③
 
天保十三年(1842)   明治元年は1868 もうすぐ明治

道標表示 ④

右面
大きな文字で上に 「すぐ」と下に「右」とある???? 珍しい 初めて見ます。
この道標の表示は全ての方功の面では このように上下形式を取っています。
        すぐ  右 おはつ天神? よどやばし   
     (小さく) 右 のミち

スケッチ画から解読すると
道標表示 ①

   右  すぐのみち    右 てんま天じん  なにははし
                     左 十そう   かんざき   なかやまへ
    解説  三叉路に立っていたものと思われる。
         中国道の案内になり、右 てんま天じん なにははし で高麗橋になる。


道標表示 ②

             十そう                      右 のみち
  すぐ   かんざき         左 おまつ天神
      中山へ             よどやばし
    解説  すぐと 右 のみち  は理解できるが、おまつ天神、淀屋橋のルートを探る。 
              てんま天じん  なにははしから来て、よどやばしの道はない。 
              中国道を高麗橋方面に戻ると
              明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に
              おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、この道のことをさしている者と考え 
              られる。  
              表記方法として、すぐと右は並列にすべきであった方が、理解されやすい。

道標表示 ③  スケッチには記載なし

   天保十三年(1842)

道標表示 ④  

         なにわばし          おまつ天神
   すぐ            右 よどやばし
       てんま天神   左  のみち


解説 「すぐ」 と 「右」 の表示は 「すぐ」が主で 暫くまっすぐに そして途中で「みぎへ」というあんないである。  同様な表示方法は、十三の神津神社にある道標「小島北口道標」がそれである。 だが、同様に 左 のみちの説明はできない。 この道標では 先にも述べたが、表記方法 ここでは、すぐと左を並列に表記されていればもっとわかりやすい。
もう一つ、中国道から、おまつ天神、淀屋橋への道は、明治18年の地図に、 JRの東海道線と環状線の間に おまつ天神、淀屋橋に折れる道があり、其の後、分岐して、新御堂筋とわかれているので、その中国道との道のことをさしているものと考えられる。   
   以上のことからこの道標が立っていた場所を推定すると
     中国道沿いに建ち 右 の道 との分岐  右 野道 は明治の能勢街道と考えるのがだとうである、今の 大淀警察署南の角に建っていたものでしょう。     
  訂正 2015/06/13 中国道の淀屋橋への道は、上の地図に因る。 この道標は 下三番村、中国道と野道分岐 野道は明治以降 一般に言われる、能勢街道にあたる。 現代的に言うならば、中国道と能勢街道の分岐・下三番に建っていた。
  


すごい発見になりました。   旧在所の地図を掲載  2016/04/12

「下三番道標」:中国街道と「野道」への分岐の道標だ!
 大発見です。  気付かないものですね! こんな道標に気づかないとは!

 明治二十四年には中国街道は国道二十六号線 西成郡中津村大字下三番に立っていて

「中国道」と「能勢街道」との分岐となる。これは 天保十三年で この時分

には能勢街道ではなく、「のみち」=野道、だったことがわかる。 
 能勢街道は それまで経路が違う  明治五年の通達で 能勢街道(ことの時は池田街道と言っていた。)は 本庄渡を経て池田より能勢丹波に至る 道幅二間 となっている。  
  街道に関して大阪府の定める起点経路は こ ち ら

 これは 「見つかった道標」として登録
 
≪回答文≫ 大阪市 10/6返信
お問合せ内容を教育委員会事務局 文化財保護担当へ確認いたしましたが、
残念がらこの度の道標に関する情報は持ち合わせていないとのことでした。
何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。

管理者コメント 大阪市内の道標を調査するのも面白いのでは
全てが 新しい発見になる。

次に ②,③ は  「忘れられた橋」 に登録
     
何処にあった橋でしょうか!  から 丸一日掛りました 調べた結果

 
「たかつ橋」の親柱 対の柱で   上の写真(片方の柱)には「高津橋」
         高津:こうずとは書かれていなかった。
       かさの大きさ 大きい部分 46センチ角 高さ 23
       下の柱の部分 24.5センチ 高さ70    全ての高さ 93センチ
       「橋」の部分が隠れているので 1メートル以上の大きさになる。  

その①  これを調べるのに丸1日掛りました。
大阪市内に ありました。 ウィキペディアの中にありました。 高津入堀川(こうづいりほりがわ)に
 同一視することは 出来ませんが まずは 第一歩です。
 道頓堀川の下大和橋下流側から南へ分岐し、西高津新地内で一度クランク状に折れ曲がり、国道25号の手前で西へ、南海本線を潜ってすぐ北へ向きを変え、浪速区役所の南東で難波入堀川(難波新川)鼬川に合流していた。長さは約1.8km。現在はクランクより上流側の区間を除いて阪神高速1号環状線の敷地に利用されている。  享保19年1734 開削 
大阪市内の川の地図写真は右側の地図 13:難波新川 14:高津入堀川 
        地図は こちら
もう一つの地図  27:高津入堀川 28:難波新川  29:鼬川  37:七瀬川 
        地図は こちら
上記の地図から読み取ります。
道頓堀からの堀 「高津入堀川」の上流からの橋    

  • 清津橋  
  • 吉田橋
  • 磐舟橋 - 千日前通
  • 末広橋
  • 「高津橋」読み方は                「こうずはし」でなく「たかつはし」 この橋でしょうか! 写真か絵があるといいのですが!
  • 福知橋
  • 沖田橋
  • 堀初橋
  • 深田橋
  • 薗坪橋
  • 愛染橋
  • 増井橋
  • 玉水橋
  • 名呉橋 - 堺筋
  • 夕日橋
  • 広田橋
  • 星池橋
  • 高岸橋
  • 船出橋
  橋を特定するには 余りに無謀であるが 一つの考え方としては有効であるので、
 「忘れられた橋」として あげておく。

橋を調べていたら 新しいことが
  ① 環状線芦原橋 鼬川にかかっていた橋 一度は見に行きたい。
  鉄橋・鼬川橋梁が残されていて、橋梁の下は現在は芦原橋駅の自転車駐輪場になっている。
大阪環状線鼬川橋梁(芦原橋交差点付近)
② 平野川の調節池  最後はポンプで木津川に   こちら

  ③ 運河連結工事中に 古代のくり船が発見さた。碑は浪速区難波中3丁目

またまた新しいことが・・・・
  調べることは 楽しいですね ルンルン

*********************
大阪市内の物と考えられる。  この情報は得られず。 
大阪市内の橋の専門家からの返事もまだです。

その④
  豊中市の道標
徳林寺への案内  中桜塚二-二八-二十 原田神社のあたりにあったとか
高さ 109 横幅 25 厚み 16

左 徳本行者御旧蹟是ヨリ Ⅲ一丁余   上新田 常光庵徳林寺  熊野田  佛眼寺


その⑤  巡礼橋の親柱    忘れられた橋」登録?
 
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
 後ろは 欄干の丸い穴が
直径 30センチ 下の括れまで 15センチ 全高さ 90センチ
「橋」の部分が無いので 高さは 1メートルを越すものになる。


「巡礼橋」の以上の写真情報を池田市、後から知った茨木市に問い合わせ
結論から先に 分からない ということでした。  保管されているところも 池田の「巡礼橋」の親柱 となっていますが。 資料としては残っていません。
 池田が有力です。 もう一つは 欄干、親柱の大きさから推測すると、大きい川に架かっていたものと思われる程、大きな 親柱です。

追加 2014/11/22 
「巡礼橋」 広報池田 平成2年7月1日号  別な調査で 池田で見つけました。
市民レポーターの話
明治10年頃まで「巡礼橋」と呼ばれていた。その橋は 文化12年 大きな橋に変わった。
175年 


回答を掲載します。

回答 その②  茨木市からの手紙 10/17 もう一つの電話
上村 和功 様
  このたびは、本市の歴史文化に関心をお寄せいただき、お問い合わせくださいましてありがとうございます。
 奄美大島で発見されたという「巡礼橋」親柱について、本市のものであるかどうかということですが、確かに市内に2ヵ所、茨木川(五日市2丁目)と勝尾寺川(宿河原町)に 架かる「巡礼橋」と呼ばれる橋が存在します。
  そこで、文化財資料館及び市史編さん室にも問合せ、調査を行いましたが、結果とし
 本市のものであるかどうかはわかりませんでした。
 お役にたてず申し訳ございません。
 なお、今後とも本市に関連すると思われる歴史遺産に関して、何か情報等がございましたならば、お知らせいただければ幸いです。
 よろしくお願いいたします。
           

茨木市教育委員会 教育総務部 社会教育振興課文化財係

回答 その①
池田市の回答 10/7
ご連絡、どうもありがとうございます。
前回、福西茂氏の冊子につきましては、
弊市中央公民館からお渡しさせていただいたかと思いますが、
今回は、弊市教育委員会 生涯学習推進課からお答えいたします。

 数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。

ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。

呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。

いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。


池田市教育委員会生涯学習推進課 

 
 茨木市にもあるので そちらもチェックします。
この橋も特定することはできないが、親柱の大きさから 川幅の広い所と考えられる。

その他の石物
 
「浪花石」??  石の文字に点があるが???

石物の道



石棺と言われている。 道路 又は 溝の橋にしようされていたという。


巨大な臼

 当原野農芸博物館の所蔵石物のデータはすべて
先の2010.10.20 奄美集中豪雨」 失っているとのことです。 
 石物は残っていました。

以上の資料で 再度 関係のある市役所に問い合わせをしなければならない。
 ① この石物・道標が現存していることを知らせる。
 ② この石物・道標に関係している資料はないか!
 ③ この石物・道標の旧在所が分からないか!
 情報をお寄せください。

今西茂さんの資料から 奄美へ調査
       その調査で分かったこと

「見つかった道標」1基、「忘れられた橋」2基
  すごいではないですか!
       やった! やった!
            宝が出てきました。

使用しなくなった石物等を預かっていた
以前の「サボテン公園」の存在が重要になる。
それに代わるものが 今、北摂にあるのでしょうか!

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奄美大島訪問計画  2014/9/18
   Yooは 何しに 奄美へ?
     「サボテン公園」

昔、吹田市南町にあった「ダンジリ」

吹田こんなところ! 新しい発見あり 


原  野 農 芸 博 物 館  

「奄美アイランド」

奄美の滞在日記

スケッチ画から池田市の探索

福西茂さんのスケッチ画から  針中野探索

2014年10月4日土曜日

昔の雄姿 今は 「南町ダンジリ」元吹田市 由来?  奄美②  

写真: 2010年の洪水被害南町のダンジリ

奄美の写真は掲載しなかった方が良かったかもしれません。
昔の写真を掲載  その他の写真がありましたらご連絡ください。



昔の雄姿 ②  2014/10/10
前日、浜屋敷に電話で問い合わせをすると「資料  しらないな!」でしたが、
「南町のことは」  やはりこの人になります。 浜屋敷 Hさん
いつもお世話になります。 ありがとうございました。

自宅に電話すると「いま 浜屋敷へ行きました。」  「浜屋敷の Hさん」に電話
電話で用件を述べます。「ブログの写真を見たよ、 ・・・見てがっくり」
「ツワーを組んで行きたとおもっていたが! 一言、言ってくれよ! おれも行きたかったな!」 
『・・・ 結果がどうなるかわからないので誘いにくい!』、「写真はありませんか!」
「そうだな 一つ見たことがある。」  早速「浜屋敷」へ出かけます。

写真4  これはすごいですね  人が乗っている 2段の屋根   勇壮 
     これはいいものを見せていただきました。  




帰りに 浜屋敷表の写真
写真5  初代の屋根(たわみから見て 上の写真の左側の屋根のようだ) 
      今は 掲示板として活用 
(奄美に残っている屋根も 左側の屋根のようだ)
                 横幅 230センチ
写真6


「ふるさのの思い出」写真集 吹田  池田半兵衛編 下の本です。 


昔の雄姿 ①
ありました ありました 文化財遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=165241
大阪府中河内郡 → 大正15年?? 吹田市南町へ  → 昭和38年 サボテン公園・原野農芸博物館へ

南町地車の由来


初代
本体は天保年間に建造 地元の大工(六地蔵の茂右衛門)や彫り物は河内といわれ
大正10年 曳航困難  その時の
絢爛豪華な2代目
大正10年7月に購入 新しく作ったのか! 他の場所から譲り受けたのか!
昭和38年 原野農芸博物館に寄贈 
南町地車の由来より

明治/1886年完成
無節総ケヤキ造り
間口3m、奥行5m、高さ5m、重さ5t
原野農芸博物館


写真1  写真4 から推測すると 2つ屋根の 左側の屋根か

写真2

上部はすべて破壊されました。  
ただし、 彫刻されたものは 今貸出し中とのこと。 それもみたかったな!
天災だから仕方がないですね 展示されていた建物がしっかりしていたので  ばらばらになることはなかったようで
このように 一部でも残っていることが 奇跡ではないでしょうか!
台車がしっかりしているので 再建は可能のようだ!


被害状況 表示ページの下の方に掲載 ▼ 被害状況(2010年) ▼

あの災害から 土を取り除き、部品を拾い集めたのはすごいですね

写真3  下部は 一応健在です。

台車 はすべて 一枚板・柱 こんな材料が取れる木材は あるのでしょうか!

写真 もう一つ タイヤです。

ダンジリのクルマです。
心棒、くるま・タイヤも 全てが 木製  すごい  現代では作ることができないのでは!
この土台しっかりしていますし、それであれば 上だけですので
復元出来るのではないでしょうか!

製作一億円とも言われるが・・・・ 難しいのではないでしょうか
上だけでしたらそんなにかからないと思いますが
 
南町ダンジリの  昔の勇壮な写真は ありませんか!

この辺りまで 土砂で 埋まってたらしいです。
原  野 農 芸 博 物 館 職員に案内してもらいました。

京都のちんちん電車 その下の車輪には 土砂崩れの痕跡がある。
ダンジリは 左側に見える建物の中に展示されていたということです。
土砂は その建物の 下の部分 色の違う部分 修理した部分まで着たという。