2015年9月30日水曜日

蓮 臺 野  ??? もう一つの石物  がんこ亭宝塚苑

京都で野がついている所は埋葬地と思っていい

墓地。火葬場。地名となっている所が多い。特に、京都市北区船岡山の西麓の地が有名

化野・蓮台野・鳥辺野・紫野・・・昔の葬送の地
京都には鳥部野(とりべの)・蓮台野(れんだいの)・化野(あだしの)等があります。 
鳥部野は今の
清水寺です。清水の舞台の下あたりと言われています。 
鳥辺野という地名について、死んだ人を木に吊し、その肉を鳥に喰らわせる「鳥葬」の地だった事から名付けられた。
延鎮上人がそれらの魂を供養しようと、宝亀9年(778)に“音羽の滝”近くに庵を結んだのが
清水寺の始まりです。 
その後奥州征伐に向かう途中の坂上田村麻呂が、水を求め立ち寄り(これが清水寺の名の由来)延鎮上人に帰依し、征伐の終わった延暦17年(798)に、京都に都が移るまで都であった長岡京の旧宸殿を移築したのが今の建物の前身です。

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)



もう一つのがんこ亭宝塚苑の石物
正面  蓮 臺 野
右面   享禄己丑二年正月

享禄(きょうろく)は、大永の後、天文の前。1528年から1531年

江戸前の話  享 禄

蓮台野は京都市北区船岡山西麓(千本釈迦堂の付近)


もう一つの石物

2015年9月29日火曜日

古文書 検索レジメ を頂きました。一度チャレンジ 大阪市立大学学術情報総合センター

横関村・横関街道 関する資料検索

①大阪市立大学学術情報総合センターへアクセスする。
    http://libweb.media.osaka-cu.ac.jp/
②ツールバーの「電子コレクション」を選択
③-A 
    3番目の「近世資料室」:「日本経済史資料」画像データベースを選択
    →「閲覧」→「利用目的確認」→入力→enter
        →「キーワード検索」を選択
    →「淀川横関渡船記録」と入力
    →「詳細表示」選択
    →古文書の最初の画像が表示される

     *画像の閲覧だけです。

     *ほかの文書を探す場合は「バーチャル検索」を使ってみてください。
③-B    
    2番目の「近世史料古文書」:「近世大坂三郷・近郊古文書画像データベース」を選択する、
    djvuファイル閲覧用プラグインがダウンロードできます。
    その後、
    → enter
    → 簡易検索 「淀川横関渡船記録」と入力
    → ヒットした 1淀川横関渡船記録 をクリックする
    → http://dlisv03.media.osaka-u.ac.jp/infolib/user_contents/Jecoh/detail/09061.djvu      をクリックする。
    → 最初の画像が表示されます。

        *ツールバーのFDマーク 文書の保存 をクリックするとダウンロードできます。
     1枚単位、文書単位 両方選択できます。

    試してみてください。ほかにもいろいろな古文書原本が見れます。

宝塚市教育委員会からの回答 がんこ亭宝塚苑の石物

がんこ亭宝塚苑の庭先にある石造品についてですが、ブログの写真を
 確認したところ、石造の層塔と呼ばれるものだと思われます。
 層塔には木造や石造のものがあり、三重、五重、九重、十三重のもの
 などが造られています。これは、石造の三重の塔になります。
 また、道標についてですが、詳細についてはこちらでも
 把握できておりません。
 京方面と伏見方面の表示がなされていますので、京と伏見の分岐点に
 設置されていたものと思われ、宝塚周辺にあったものではなく、
 もっと京都に近い場所にあったものを移設したのではないかと思われます。
 このがんこ亭宝塚苑につきましては、元々、個人の邸宅であった場所を
 利用しておられます。庭園についてもその当時のものをほぼそのまま
 利用されておられ、設置されている石造品につきましても、その頃に
 所有者の方が集められたものだと聞いております。

 また、ご不明な点等ありましたら、ご連絡ください。

          
           宝塚市教育委員会 社会教育課
            TEL:0797-77-2029

*******************  がんこ亭宝塚苑での調査(?食事) 

      有難うございました。
 結果として
  経緯 旧在所は不明 レプリカかも不明とのことだと思います。


    がんこ亭からは、返事がない。 
    前回はの池田の場合は その日の内に 返事をもらったのだが・・・・

石橋で見つかった道標 早い返事「がんこ亭」をご覧ください。

2015年9月28日月曜日

歴史街道リレートーク 2015/9/26

西国街道  ~ 町・めぐり歩き ~


参加者 180名 応募者 240名
ラッキーしました。
西宮市役所東館8階大ホールで

向日市、大山崎町、島本町、高槻市、茨木市、吹田市、尼崎市、西宮市
講師の面々 各資料館・博物館の職員


吹田市立博物館 藤井裕之副館長

満員御礼の講演会 次の日はそうでもなかった。



2015年9月27日日曜日

日本のシンドラー

シンドラーはドイツ人実業家
 ポーランドの工場にナチス人労働力の提供を要請し、労働者の名簿を提出、雇用することで強制収容所に送られる運命にあった1200人の命を救った。
 映画「シンドラーのリスト」

吹田博物館展示物

淀川両岸一覧 安政3年 1856年
 大阪市立博物館蔵


吹田の渡し(摂津名所図会大阪市立博物館蔵)


細川高国・晴元 合戦
 国人領主(こくじんりょうしゅ)
 芥川・茨木・三宅・吹田・池田
 享禄4年1531 摂津国内を転戦し 天王寺で激突  高国は敗れ、尼崎で自害する。


浄土真宗
 宗祖 親鸞 
 存覚(ぞんかく)布教活動をを主に刀根山常楽寺  父は3世覚如かくにょ 親鸞の末娘 覚恵の長男  浄土真宗 本願寺成立後 覚如が定めた  、弟は従覚
 8世 蓮如  本願寺中興の祖
11世 顕如(けんにょ)

荘園 
 平安時代 東寺領垂水の庄、 醍醐寺末清住寺領吹田の庄、醍醐寺末宝塔院領吉志の庄、関白家領垂水東牧・西の牧
 鎌倉時代 興福寺  春日神社も領主
 蔵殿庄 七条院 から 西園寺家・・・・伝わる
 実相院領正木の庄
 室町時代  中島崇禅寺の所領

「絵図っておもしろい」 吹田博物館

10月3日(土曜)13時00分~13時50分開会式・展示解説
14時00分~15時30分

講演会「日本地図のあゆみ-行基図から伊能図まで-」
  講師/三好唯義氏(神戸市立小磯記念美術館)

会場/当館講座室
定員/先着120名

博物館へ行こう  秋はイベント色々


吹田博物館
会期/平成27年(2015年)10月3日(土曜)
      ~平成27年(2015年)11月29日(日曜)


開館時間/9時30分~17時15分
休館日/月曜日、祝日の翌日
    (ただし10月12日、11月23日は開館)



10月31日(土曜) 14時00分~15時30分

「絵図から読む江戸時代」
  講師/上杉和央氏(京都府立大学准教授)

11月14日(土曜) 14時00分~15時30分

「絵図から読む近代」
  講師/天野太郎氏(同志社女子大学教授)

10月10日(土曜) 14時00分~15時30分   終了しました。

「神崎川絵図から見た江戸幕府開発・治水政策の変化」


  講師/村田路人氏(大阪大学教授)

いずれも
会場/当館講座室
定員/先着120名

2015年9月25日金曜日

高槻 

別サイト http://inoues.net/osaka/suita_kyodo1.html

かねがね、我が吹田市には歴史の愛好会がないのかなと思っていたら、家に配賦されてくるミニコミ紙にこの会の案内
 があった。早速参加したら、案の定メンバーの大半はリタイア組で、50歳代など洟垂れ小僧の趣だった。しかし講演
 会や展覧会など、例会は結構バラエティーに富んでいそうだったので、さっそく千円の会費を払って会員になった。
 これで歴史の会の会員になるのは4つ目だ。週末時間がないはずだ。ここ数年 BIRD Watchingにも参加できてないし。
 月曜日、会社に行くとホッとするもんなぁ。しかしまぁ、好きでやってるのだから仕方ない。それに歴史の会をやりだ
 して、近畿圏にめちゃくちゃ詳しくなったし、良しとしよう。

 高槻は他の例会でも来たし、我が歴史倶楽部の例会でも何度か訪れた。個人的にも古墳を訪ねて散策したのでいくらか
 は知っていたが、今日はまだ行ったことの無いところがあってなかなか楽しかった。しかし、もうちょっと若いメンバ
 ーが多くいればなぁ。






阪急高槻駅に集合。カラリと晴れて少し汗ばむ程だった。



<高山右近記念聖堂(カトリック高槻教会)>
 
 高槻カトリック教会内にある高山右近記念聖堂は、キリシタン禁制でマニラに追放された右近臨終の地、マニラ郊外アン
 ティポロの聖母大聖堂を模して建てられたもの。前庭には、イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作品である、ひざ
 まずいて祈る高山右近の像がある。高山右近(たかやまうこん)は安土桃山時代の武将,茶人。キリシタン大名。初め摂
 津(せっつ)国高槻城主として織田信長に対抗したが,のち信長に従い,本能寺の変後は豊臣秀吉に属し明石城主となる。
 1614年、徳川家康のキリシタン国外追放によりマニラで没す。


高山右近(長房)は、天文21年(1552)、摂津高山(現豊能郡豊能町)で生まれた。父の高山飛騨守(ひだのかみ)と
 父子ともに熱心なキリシタンで、城内に教会堂を建て活発な布教活動を行った。洗礼名ジュスト。
 高山右近は21歳から33歳までの12年間、摂津の国 高槻城主だったが、その間に、キリシタン大名として、戦国時代
 のさなか、イエス・キリストを愛した。2万5千人の領民のうち、1万8千人(72%)がキリシタンになったとパーデ
 レ神父が報告している。しかし、織田信長、豊臣秀吉の家臣として多くの武功を挙げたにもかかわらず、キリシタン禁制
 によりおよそ30年間の苦難の生涯を過ごし、信仰を貫き、最後はマニラに追放された。



右近が高槻にいたのは12年間で、明石城主に転封され、その2年後にキリシタン禁令で大名を追われる。加賀国(今の
 石川県)の前田利家のもとに身を寄せるが、慶長19年(1614)、江戸幕府のキリシタン国外追放令によってマニラに追
 われ、その地で熱病により翌年没した。千利休の弟子として茶道にも優れていて、南坊等伯と号していた。



高山右近は永禄6年(1563年)に洗礼をうけ「ジュウスト」の洗礼名をもつキリスト教徒であり、熱心に布教に努め、天正
 9年(1581年)にはイタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催したという。それほどの熱心なキリス
 ト教徒であった高山右近は、かつての上司であった和田惟政の子、惟長を倒して高槻城を奪っている。戦国時代のキリシ
 タン大名達のキリスト教徒としての務めと、人を滅ぼしてまで城を乗っ取る行為とはどう折り合いが付くのだろうか?



教会の門を入って直ぐ左手にイタリアの彫刻家ニコラ・アルギィニによって彫られた大理石の高山右近像(下の写真)
 がある。これはローマの高名な教会関係者から寄贈されたものといわれている。像の高山右近は手に十字架を持って
 おり、着衣も含め武士、城主というよりも、キリスト教信者という雰囲気が強い



<野見神社>

 文化ホールの南隣で商工会議所の西側、が野見神社である。野見宿禰(のみのすくね)を祀る神社で、 宇多天皇の頃
 (887~897年)に創建されたと伝わる。野見宿禰は日本書紀の伝承上の人物で、出雲(島根)の出身で当麻蹶速(たい
 まのけはや)と力比べをして勝ったという説話が残る。その後、享禄、天文年間(1528~1554年)の頃には祭礼も盛大
 に行われるようになり、歴代の高槻城主の信仰も篤かったという。高槻城主の和田惟政も篤く信仰していたが、その後
 城主となった高山右近は神社を取り壊してしまった。キリスト教徒の、他教に対する排斥・攻撃は、自らが被ってきた
 迫害に対する報復なのか、非常に辛辣なものがある。ブッシュのイラク攻撃などはその最たるものだ。何年経とうと、
 人の性(さが)は変わらない。




元和5年(1619年)に当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に慶安2年(1649年)には永井直清が城主に
 なり、神社の例祭も盛大に行われるようになった。上左の写真は現在の野見神社拝殿であるが、写真でもわかるように、
 最近建て替えられ、見た目にも新しい。 
 高槻城主となった永井家は220年間13代にわたって続いたとされており、野見神社は長年に亘り永井家の庇護を受
 けることになった。野見神社拝殿の東側境内に永井神社があり、永井家の祖先を祀っている。永井神社の東側に「永井
 先公遺愛碑」と彫られた石碑が建てられている。




高槻城は、平安時代に近藤忠範(ただのり)によって築かれたのが最初で、南北朝には入江氏の居城となり、戦国末期に
 は和田惟政(これまさ)が城主になった。和田惟政は永禄12年(1569)に高槻城主になったが、元亀2年(1571)に白井河
 原の合戦で戦死し、惟政の子、惟長が城主となった。その後、元亀4年(1573年)には和田惟政の家臣であった高山飛騨守、
 右近父子は和田惟長を滅ぼし、天正元年(1573年)に右近が高槻城主になった。高槻城跡公園の片隅小高い場所に高山右
 近の像が建っている。
 今の茨木市耳原にあたる白井河原の合戦で、将軍の足利義昭と織田信長が戦って織田軍が勝ち、織田軍に加担して戦った
 高山右近の父・飛騨守が元亀2年(1571)に城主になって、それを右近が継いだ。右近が高槻にいたのは13年間で、
 その後、新庄・内藤・土岐(とき)・松平・岡部氏と目まぐるしく城主が変わり、永井直清が慶安2年(1649)に入城し
 てからは安定し、明治維新まで13代続いた。明治維新後、高槻城は取り壊され、城の石垣は鉄道工事の用材などに使わ
 れた。明治42年(1909)には陸軍工兵隊の駐屯地となり、城跡は大きく変貌した。現在は城域の一部が城跡公園として
 整備され、市民らの憩いの場に変わった。


槻の木高校の敷地の東側に隣接して、上右の写真に見られるように「高槻城跡」と彫られた石碑が建てられている。その
 石碑の南側に上左の写真に見られるような石組がある。この石は高槻城の天守台や本丸御門の基礎石であるという。


キリシタン大名として有名な高山右近が13年間城主であった高槻城は、現在その姿は見られない。しかし今の城内町に
 かつて高槻城があったとされ、槻の木高校のある位置が本丸のあったところとされている。その東側の城跡は高槻城跡公
 園になっている。昭和50年に本丸石垣の基礎部分を発掘したが、今でも遺構が地中に埋もれているらしい。現在公園は、
 旧三の丸を中心に公園化しているが、石垣は東海道線建設のために使われたので一部を残すのみになっている。池や石を
 配した、緑のある明るい感じの公園である。なお、高槻城跡は現在大阪府史跡に指定されている。

 高槻城は平安時代に城が築かれたのが始まりと伝えられているが、城の存在が確認できるのは、14世紀の室町時代に
 入江氏がここに居城を構えてからである。当初は小さな館程度だったが、戦国の世、天正元年(1573)高山右近が
 町家も堀で囲い込んだ堅固な城を築いた。さらに徳川時代に入って西国ににらみを利かす拠点として、幕府による城の
 修築が行われた。3層の天守閣や高石垣、土塁をめぐらす、東西510m、南北630mの城域の強固な近世城郭だっ
 たことが発掘調査などで判明している。




公園内には、市の文化財に指定された江戸時代の商家・旧笹井家を移築した 高槻市立歴史民族資料館がある。館内には
 生活用具や農具・漁具、特産の寒天製造用具、古曾部焼きなどが展示されている。古曾部焼きは素朴な落ち着いた色合い
 の焼き物で、かっては高槻の名産品だった。いまも小規模ながら窯は続いている。


上の写真は、かっての日本陸軍の「陸軍工兵隊」碑の前で、吹田市の何とか(忘れた)いう小学校が空襲で倒壊した時、
 真っ先に駆けつけて修復してくれたのがこの師団だったという説明を聞いて、「ホォ-」とか「ヘェー」とか感心して
 いる会員たち。



<八丁松原>(はっちょうまつばら) 高槻市松原町~八丁畷町 阪急高槻市駅より徒歩3分 

 豊臣秀吉が京の町づくりの際、洛中の周囲に「お土居」と称する堤塁を築き、洛外に通じる道を7つ設けて、俗に「京の七
 口」われ、丹波口、粟田口、東寺口などは有名である。
 阪急高槻市駅の東に真っ直ぐ南北に延びる「八丁松原」は、慶安2年(1649)高槻城主「永井日向守直清」が山城国より移
 封されたころ整備された松の並木道で、かつては高槻城から西国街道まで続いていた。京口より西国街道に通じる八丁
 (900m)の間にこの道路を新設し、同時に松数百本が植えられ、明治維新に到るまで城主永井氏代々により保護されてき
 た。




近世、高槻の城下町には他領、他国から入る道が六つあった。高槻城下の六口も、絵図(『高槻市史』第四巻(二)史料篇
 Ⅲ所収「高槻城および城下絵図」)でみると、各々竹矢来で仕切った木戸を設けてあり、常駐の「番所」があったと思われ
 る。まず城下の東側からみると、北から京口―今の京口長で円成寺門前の道を東へ5~60mのところ、それから前島口―
 これは本町通りの高槻小学校北側、いわゆる一丁田の辻のところ、それと大塚口―八幡町から春日町へ抜ける道の是三寺門
 前の3つ。南側には大阪口(土橋町から下田部へ抜ける道の城南町1丁目境のところ)があり、西側には北の紺屋町の芥川
 口(新京町の西端、出屋敷につながるあたり)と南の富田口(高西町から城西橋につながる道の旧湯浅電池のあたり)。
 これが城下から外へ出る6つの口だった。
 京口は今もなお町名として残っているが、近世では藩主の参勤交代路として有名なところで、円成寺の東の辻を真北へ、八
 丁松原を抜けて、別所新町で西国街道に入る。はるか京へ続く口である。城内桜の馬場で終結した参勤交代の行列のにぎわ
 いは、西国街道の「別所新町」を成立させた。現在は八丁畷町、松原町にその一部が残り、当時の面影を偲ぶため復元され
 ている。  立派な松林が江戸時代の雰囲気を感じさせてくれる。




<上宮天満宮>(じょうぐう てんまんぐう)高槻市天神町一丁目
 
 菅原道真と野見宿禰(のみのすくね)、武日照命(たけひでりのみこと)を祀る。旧島上郡の北部にあたり、その昔野見
 宿禰(後土師氏)一族の居住したところといわれる。式内野見神社を祀り、この場所に古墳があったと言う伝承が残る。
 縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた勅使が、帰途この地で急に牛車が動かな
 くなる異変にあい、調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥ゆかりの地であることを知って、この土地を「野見の里」
 と名付けてここに道真をまつったのだという。天正18年豊臣秀吉が社殿を修造、江戸時代には高槻城主永井直清が拝殿
 や石鳥居を建てたと伝える。元和5年各領主が社領を寄進し、明治12年郷社に指定され後昭和21年宗教法人になると
 共に、京都の北野天満宮より古いところから「上宮天満宮」と言われるようになった。
 『摂津名所図会』には、「上田邊村の上方にあり。此地の生土神(うぶすながみ)とす。(中略)社頭は豊臣秀頼公の再
 建なり。」とある。JR高槻駅北口から北へ歩いて約10分。


<山崎合戦秀吉本陣跡の石碑>(上左)
 上宮天満宮(じょうぐうてんまんぐう)の石段の登り口に、秀吉本陣跡の石碑が立っている。柵で囲まれていて小さな石碑
 なので、うっかりすると見落としてしまう。天正10年(1582)織田信長が本能寺で討たれ、弔い合戦に馳せ戻った羽柴秀
 吉が山崎の戦いの陣をおいたところである。秀吉は此の場所に本陣を構えて采配を振るった。この碑は従来社頭に建てられ
 ていたが危険なため、境内神輿倉横に移転された。
 
 <菅公衣裳塚>(上右)
 太宰府へ流される途中、道真公の衣を埋めたとされる所の碑。道路を隔てた向側に、かつては其の塚とおぼしき土盛りもあ
 ったそうだが、或いは四代目子孫の菅原為理が、後に太宰府から持ち帰った遺品の衣を埋納した所かもしれない。



上の竹藪の方向に天王山がある。竹がなければ天王山の戦いの様子が一目瞭然だったことだろう。秀吉はここから戦いを見ていたのだ。


ここが「式内野身神社」である。このあたり一帯が野身(見)一族の拠点であった事からここに神社がたっているが、下
 の石柱には「野見宿禰墳」とあり、してみると野見宿禰はここに葬られたという伝承が残っているのだろう。




上宮天満宮は、大宰府に次いで古い全国2番目の天満宮という古い由緒を伝えている。前出「摂津名所図会」には、上宮
 天神の祠として記載され、「勅して菅神に贈官有りて、筑紫より神輿上洛し給ふ時、野身郷高月の領主近藤連忠範(こん
 どうむらじただのり)が家にて一昼夜滞留まします。其古跡なればここに祀るなりとぞ」とある。
 正暦4年(993)道真の霊を鎮めるため大宰府に赴いた勅使が、太宰府から京都への帰途、高槻の近藤連忠範の屋敷に一
 泊逗留した。ところが、出発の時、牛車が動かなくなったため、調べてみたところ菅原氏の祖先である土師氏がまつる野
 見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることがわかったため、この地に道真をまつったのだという。また、「織田信長、
 寺社を破却(はきゃく)の時、天満宮と改むるものや」とあり、上宮天満宮という名称になった時期は、織田信長の時代
 であったと考えられる。



本殿は火災により焼失し、のちに豊臣秀頼が社殿を建て直し、領地を寄進したといわれる。このときの本殿は平成8年に
 再び焼失、現在は日本で初めてという、竹で作られた珍しい新本殿に建て替えられている。本殿脇の石燈籠は昭和17年
 5月、国の重要美術品に指定されている。



由  緒 
               御祭神  武日照命
                    野身宿禰命
                    菅原道真命

 日の神、武日照命の天降って鎮座された、此れの太古の杜、日神山一帯は弥生人の住居跡として銅鐸も出土し、南北に並
 ぶ四古墳のうち、中央の円墳上には式内古社の野身神社が在る。此地は「日本書記」が古代祭儀としての埴輪や相撲の逸
 話を記した野身宿禰を千数百年も前から斎き祀ってきた島上郡野身里である。
 彼の率いる祭祀者一族、土師氏は何百年か後に菅原道真、大江匡房始め平安時代に於ける史学、文芸学者たちを次々に生
 み出すが、殊に右大臣にまで昇った道真公は、然しその後天皇廃立に関わったとされ九州へ追放される。その死後百年近
 い頃、正暦四年(九九四)に正一位左大臣の位を遺贈する勅使として菅原為理が太宰府へと赴いた。御霊代など奉じての
 帰途、芥川を遡り当地の上田部(市役所西)に上陸し、領主近藤氏の城館に宿った。ところがいざ出立となると輿が動か
 ず、これを先祖と共に留まりたい霊意と排察して、里人が日神山上に天満宮本殿を造営し改めて三神を併祭し奉った。
 実際の創建はこれより五十年も早く、京都北野社鎮座以前であり、全国天神社のうち二番目の古社とされている。
 戦国の天正年間、豊臣秀吉は当社参道「天神馬場」に本陣を置き、明智勢を山崎天王山に討った。その戦勝を感謝して、
 後に秀吉は社殿を美々しく修造する。江戸初期には高槻藩主永井直清が拝殿を設け大鳥居も建立、時の天台座主親王天松
 院宮筆の神額を奉納した。古来、近郷の三島地方はもとより遠く京都、大阪始め北攝能勢や北河内方面の崇敬を集め今に
 至る。例祭「初天神」は、延々と露天の連なる京阪神きっての民衆的大祭である。 【上宮天満宮HPより】





 西国街道・芥川一里塚(さいごくかいどう・あくたがわ いちりづか) 高槻市芥川町三丁目他

 京都から太宰府へ伸びているから西国街道は、8世紀の山陽道の後身にあたり、約8.1kmにわたり高槻市域を東西に
 貫いている。西国街道は奈良・平安時代から西国へ通じ、山陽道として往来の盛ん重要路であった。京から大坂を通らず
 に山崎、芥川(高槻市)郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹市)、西宮の6宿を経て最短距離で西国へ通じる
 街道だった。淀川とともに三島地域の政治・経済に大きな影響を及ぼした。

 芥川宿の発祥は12世紀頃からといわれており、現在の道筋は、14世紀ごろに固定化したとみられ、戦国時代には三好
 長慶や高山右近、さらには織田信長、豊臣秀吉らが駆け抜け、17世紀初めには徳川幕府により宿場町としての体裁を備
 え、西国大名たちの参勤交代のための本陣、旅籠などが置かれた。そして幕末には、尊攘派の三条実美らが長州に逃れた
 七卿落ちや、多くの勤王の志士たちも駆け抜けた街道である。江戸時代の正式な名称は山崎通(みち)で、高槻の芥川宿
 には本陣がおかれ、19世紀前半(天保年間)には旅籠が33軒、家数も253軒あった。



西国街道(芥川宿と一里塚)

 芥川一里塚は西国街道の宿場町「芥川宿」の東口にあたり市域では梶原(太閤道の走る若山316m~梶原山284mの南山裾・
 阪急上牧の西南)に有りました。街道の1里毎に塚を築き榎・松等を植えて路程の目印ととたもので、丹波・八上城下に
 も1里松の史跡が残ります。淀川とともに重要な交通路であった西国街道は、江戸時代「山崎通(みち)」といい、京都・
 山崎と西宮を 結ぶ脇街道として多くの旅人等に利用され、芥川は12世紀頃には既に宿(町)として成り立っていたが、17
 世紀初め徳川幕府によって宿場町としての姿を整え、参勤交代のための本陣や伝馬(公用の荷馬)、旅籠等が置かれ、享
 保19年(1734)の芥川宿絵巻には整然とした家並みや寺院・一里塚の様子が描かれています。芥川一里塚は平成5年3月、
 府の史跡に指定された。(大阪府教育委員会 高槻市教育委員会)



芥川宿には今も1里(約4km)ごとに設けられた一里塚が残っている。市域では梶原と芥川にあったが。現在は旧芥川
 宿東口の東側だけに残り、平成5年3月に府の史跡に指定された 一里塚は街道の両側に塚を築き、エノキを植えて街道の
 路程の目印にしたものである。芥川宿には祠(ほこら)が建てられた一里塚が、街道南側のものだけ残っている。




一里塚は豊臣秀吉が街道の距離の目印とするために、一里毎に作らせたのが始まりとされ、江戸時代に整備され一般的に
 なったようである。一里塚には祠を建て榎の木を植えるのが一般的であった。この「芥川一里塚」にも小さな祠があり、
 祠の後ろには榎の木が植えられており、一里塚の体裁が整えられている。かって「芥川一里塚」は街道を挟んで東西の両
 方にあったといわれているが、現在残っている塚は東側のもので、その西北の場所にあったとされている塚は現存してい
 ない。この塚から西側、西国街道沿いに宿場町「芥川宿」が拡がっていた。 





現在の西国街道筋には古い家並みが若干残っており、かつての街道の面影を僅かに偲ぶことが出来るが、芥川宿当時の旅
 籠などは全く残っていない。 




これが、高槻市西部を流れる芥川。この上流へ登っていくと、藤原鎌足を葬ったとされる阿武山へ行く。



選挙に行こう! 自分にできること! 

メディアで報道されない!
安保法案の廃案に向けて


先輩たちが起こした戦争

後世に負の資産を残さない
今、生きている 大人の責任です。

歴史を学ぼう・・・

9月12日 

尖閣諸島、竹島、 占領されているの?

資源 油田が眠っている 

中国の力  自分の国と主張している、 公海上に滑走路3本 何も言わない日本



英語に強くなろう!

歴史に強くなろう!

戦後 70年 節目の時に 知らないことが多すぎる。

郷土の歴史、国土の歴史を整理しよう!

2015年9月24日木曜日

「左 満願寺」 道標 見つかる 見事な道標 川西市 再掲

2009年11月24日の再 掲 写真が分割されているので再度作り変え追加も

なくなってた道標 川西市郷土史家 丸橋さんにより教えていただいた道標 現在の国道より満願寺へ、家の売買で道標がなくなっていました。 現在 多田神社境内に残っていると言われ探索へ 2回目 見事な道標です。


丸橋さんありました。  折れていました。大きさを測っていません。
上面 左満願時 右 渡しの案内
合計 3枚撮りましたがこの一枚だけです。 
追加します。

「左 万願寺道」



川西市道標マップ
川西市道標マップ





サイドチャレンジになります。 
今までの多田神社の紅葉はこちら

能勢電 フリーハイキング 確認を含めて  2015年2月28日土曜日  追 加

福西茂スケッチ画の行方 2014年12月29日月曜日  追 加

4匹目 出てこない 川西市2014年11月26日水曜日  追 加 

           市教委の退職者に聞かねばわからないのではないでしょうか! 


2008年か 能勢電の川西のハイキングが始まり 

  今覚えば、ここから始まるまち歩き、初期の頃です。

        説明付きのガイドにも   能勢電鉄のハイキングはよかった。

話題 台風で流された多田神社の鳥居 2009/10/08 2015年2月28日土曜日

「左 満願寺」 道標 見つかる 川西市 2009年11月24日火曜日


古い道標めぐり 川西市 中部道標   2009/10/05

川西市の文化財 2008年10月22日水曜日  追加








2015年9月23日水曜日

「横関の渡し」のコメント再掲・整理

***************** 横関村が存在する  2012年3月17日土曜日
コメントを頂きました。 有難うございます。
別なページに掲載させていただきましたが、ここにも掲載します。

「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿

コメントがありました。

前から気になっていたのですが、横関村について...
 吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。  
天明六年七月二十九日

 ご確認ください。     以上

有難うございます。  吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
 横関村の存在です。   今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。  横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・  横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村

となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村 

結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
  
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。  ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。

1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。  その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。 

 そこで終わればいいのですが。 
 それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
 簡単に「横関の渡し」からの命名となります。  
 でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか

2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ  横関村の存在は確認できなかった。
    横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
    横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力

3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には 
  よこぜき村は存在しない。
  国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944

今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。

そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
  では、地図上では何処になるのでしょうか!



下記へアクセスしてみてください。
http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/infolib/user_contents/Jecoh/detail/09061.djvu
横関渡しの一連の古文書が読めます。
所定のアプリをダウンロードすると djvu形式の文書が入手できます。

横関の名前のいわれはこの中の 23番と43番の文書に書かれています。
添付は23番 1782年のもの。

往古南方村濱村ニ■■■候■より
渡シ守リ候ニ付中ノ渡シと唱候■大坂
御陣の節右渡しの少し上ニ御関■■
候間より以来横関渡しと唱来り依の■

ということで...。

2つあわせると大坂の冬の陣の時、濱村と本庄村の間に堰を築き、淀川の水をせき止めた。
その時から中の渡しと呼んでいたのを、横関の渡しとなった。

雨予報 中止の連絡 9月の例会 ハイキング

9月の例会 ハイキング  能勢街道 十三界隈編 


明日の天気予報 雨

明日の降水確率 60%ですので、例に倣い、中止

雨男ではないが延期ということで
  天候不順ですね!

他の地域では
今度は高知市内が よく雨が降ります。
それも「どかあめ」  

 お日様が顔を出すのも少ない。
 作物ももう一つです。





ミスが多かった試合でしたね。  同じテンポでのパスがインターセプトされるなど、22:15 ~ 24:25
日本×スコットランド

吹田博に持ってきてもらいました。有難うございます。

すごい、見せていただきました。有難うございます。
今回の博物館だより 63号まで
バックナンバーです。


探していた物です。「博物館だより NO.14

マスダさんより頂きました。

「横堰渡し」謂われ・・・新資料  江坂の郷土史家 平塚正明さん 「江坂ウォッチング1」

吹田市立博物館から電話 9/30
 図書館から「博物館に来られる際はご連絡の上お出で下さい。」とのことでしたので、電話をすると担当者が展示の準備で外出中、別に急ぎませんから、来週でも再度電話します。「問い合わせがあったことをお伝えください」と伝言しました。
その間に、新しい情報が入りました、 そうこうしているうちに 博物館から電話がありました。
 「覚」 資料は書き写された物、情報が寄せられたので、マイクロフイルムであっても
  「濱村」が正解ですが、3文字の「横関村」と間違うわけがないので、これは、他の地区での「覚」を探す方が良いと思います。
  電話内容で、閲覧は必要ない旨、江戸の元禄の地図と明治の地図とで、「横関村」の存在はない。 「横関の渡し」の言い伝えが出てきた。 堰が出来、それまで、「中の渡し」と呼ばれたのを「堰の横を渡す= 横堰渡し」というようになったこと。これで十分
  そうゆうわけで結論は、私が云っていたことに落ち着きました。  めでたしめでたし!!


  
吹田図書館に行ってきました。 9/29 
 唯一 「横関村」の記銘が存在する  吹田市史の「横関村」に関して図書館にメールを出しましたが、返事がないので、南千里の図書館へ 以前の博物館からのメールをコピーし、吹田市史第6巻を持ち、カウンターへ   「原本を見たいが、何処に行けば見ることが出来るか!」  博物館に問い合わせ、見ることが可能と 博物館では「中央図書館に返事している。」ど二重の問い合わせになった模様である。 それで、長いこと待たされた。
  コピーできるかわからないが、原本が観れたら気が済む話です。 横関村・・・・の項目です。

記載の村名
 長栖村、横関村、川口村、成少路村、薭嶋村、野里村、下嶋村、一津屋村、江口村、吹田村、榎坂村、小曽根村、三屋村、佃村、大和田村

  
さらに詳しい情報を入手 2015/09/29
   大阪市立大学学術情報総合センター  から 入手
  「淀川横関渡船記録」





大事な契約書でしょ、横関の渡しのことにも関わらず、濱村・南方村となって、
「横関村」になっていない。
やはり、横関村は存在しないということになる。


完結編となります。

「横関の渡し」に関して、新しい情報の提供されました。

    以前のコメントはこちら

    その他「横関の渡し」「横関街道」に関すること

横関の名前のいわれはこの中の 23番と43番の文書に書かれています。
添付は23番 1782年のもの。

往古南方村濱村ニ■■■候■より
渡シ守リ候ニ付中ノ渡シと唱候■大坂
御陣の節右渡しの少し上ニ御関■■
候間より以来横関渡しと唱来り依の■
ということで...。
2つあわせると大坂の冬の陣の時、濱村と本庄村の間に堰を築き、淀川の水をせき止めた。
その時から「中の渡し」と呼んでいたのを、「横関の渡し」となった。
    
やりました! 平塚さん

元に収まったようです。 予想ははずれることもあるが、

今回は私の予想通り 的中 ばっちりでした。 めでたしめでたし。

有難うございました。

この項目 大阪市立中央図書館からもらった資料に追加してもらいたいので

今回も早い 大阪市の市立中央図書館 に報告しておきます。

もちろん、平塚 正明 
情報提供者は上村 和功と 9/24

もう一点 尿船のことで、「横関村・・・・」とあります、
唯一「横関村」の記載がある吹田市史の件
この記載が問題です、ここから「横関村」の存在がクローズアップしました。
大阪市史、東淀川区史等 大阪市の資料からは「横関村」の存在は出てきていません。
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回作成されたが
国立公文書館に元禄の摂津の国が残っている。 その中にも「横関村」はない、
明治18年の仮装地図にも集落は見つかっていない。 

唯一の記載  
吹田市史第6巻史料編

174 過書方摂河村々渡船出入控え帳

 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」

の記載があります。  

天明六年七月二十九日

「控え帳」の原本が見られないか! 今、吹田市中央図書館に問い合わせ中 9/25
9/30日 博物館から電話 



昨日に続き、今日も吹田博物館
1時間も前に行きました。 今日は、昨日よりもっと多いと思いましたが、もう一つ
くつろいでいると、 以前、横関街道で議論した方で、
そこで、「こんなことをやっています。」と渡された資料です。

江坂ウォッチング1   編 平塚 正明 さん
    


私が気になったのは このページ
「江戸時代のくらし3」  蔵人に高札場があった。

吹田図書館に寄贈された方が良いのではないですか!