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2014年11月9日日曜日

横関街道 地名でない街道名(?コメント)  勝尾寺への信仰道 

珍しく コメントです。

横関村は資料に載っている。

皆さんのご意見を頂きたい。

*******************

「まち組」まち歩き11月 終了しました。 柴島でなく「くにじま」?

横関街道  ― 地名でない街道名 ―
    案内 上村 和功・早川 芳子

日 時  平成26年11月7日(金) 崇禅寺駅 1330 集合

行 程 崇禅寺の桜並木 → 旧JR東海道線跡 → 水道記念館 → 淀川堤防 → 川口の道標 → 本庄街道 → 楠木正成首塚 → 東中島の道標 → 日の出路線橋 → 新大阪駅トイレ(中島大水道) → 「横関踏切」 → 宮原の大邸宅 → 宮原の道標 → 春日神社之址 → 蒲田神社 → 榎の渡し → みまき橋 → 馬廻水路 → 糸田川 → 豊津公園解散

 街道名は江戸時代は5街道しか名前がなかった。それ以外はそれぞれの行先で謂い方をしていたが、例えば吹田街道をある地域では伊丹街道とか、吹田街道とかの言い方をする。ここでは明治以降統一された一般的な街道名で表す。西国は高麗橋を起点としていた。(大正時代は 大阪市役所前)
 大阪から北摂には入るには、亀岡街道、横関街道、三国街道などがある。横関街道は吹田を通る街道で南北の街道の一つで、大坂天満で亀岡街道と別れ、中津川を「横関の渡し」で渡り、宮原を通り十八条で神崎川の「榎の渡し」を渡り吹田に入り、その後、蔵人を通り、吹田街道を横切、江坂の西の高川で三国街道と合流し横関街道は消滅する長い街道ではない。横関街道と合流した、三国街道はその後、下新田村(春日町)を経て、上新田村で勝尾寺街道と合流すし、勝尾寺へ、このルートが勝尾寺への最短距離である。
横関街道に関して大阪市に問い合わせましたが、確証は得られていませんでした。
 我々は「横関街道」の名前は知っているが、さて、横関は何処にあるか! 地名に横関村は存在しない。それは、江戸幕府が作成した絵図にも、明治19年の地図にも、村の形跡はない。すなわち横関村は存在しなかったと考えられる。
 では、何故「横関渡し」と言われるのか? 以前に次の考えを披露しました。すなわち、横関とは「横堰」とも書き、関所でなく「堰」に関係していると考えられる。 昔は安威川にも、堰が「吹田の渡し」の上流にあった。中津川にも塩害を防ぐ為の堰があり、その横を渡す「渡し」が「横関の渡し」のいわれと考えられ、その「横関の渡し」から「横関街道」が伝承されたものと思われる。それが横関街道のいわれになる。  
 また、道標に「横関」の記載は私が調べた結果、現在のところ一点のみである。その一点を今日お見せします。

ここは 蒲田神社 前回には気づかない
「白光社」 の祠の下をよく見てください  樹齢650年以上の樟の切株です。
昔は この上に4畳ほどの 瓦ぶきの六角堂があったらしい。 先の阪神大震災で崩壊し、その姿を見ることはできない。
  境内の案内板の写真を見ても その姿を見ることが出来なかった。
  クスノキは写真に撮ってあった。
  皆さん、ここで 遊んでくれました。


もう一つは  ここ



「みまきばし」の親柱  詳しくは こちら



「しばしま」でなく「くにじま」?
駅の中でも、指折りの難読駅名が「柴島」。
知らなければ「しばじま」と読んでしまうのが普通。
 地名の由来には、“今の西淀川区付近を指す難波八十島の1つ茎島(くきしま)が訛った”“薪の原料・クヌギが多く生えたことから「くぬぎ島」と呼ばれていたが、いつしかクニジマになった”“平安時代は「国島」だったのが、国が柴の字に変わり、読み方だけ残った”…と諸説ある。どれも最もらしく、地名由来の謎は深まるばかりだ。

 地名 国次もある。 よく聞かれるのは 下新庄の「鳩ケ瀬」会館・バス停・踏切にもアクセスが多い

***************** 横関村が存在する
コメントを頂きました。 有難うございます。
別なページに掲載させていただきましたが、ここにも掲載します。

「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿

コメントがありました。

前から気になっていたのですが、横関村について...
 吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。  
天明六年七月二十九日

 ご確認ください。     以上

有難うございます。  吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
 横関村の存在です。   今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。  横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・  横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村

となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村 

結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
  
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。  ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。

1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。  その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。 

 そこで終わればいいのですが。 
 それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
 簡単に「横関の渡し」からの命名となります。  
 でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか

2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ  横関村の存在は確認できなかった。
    横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
    横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力

3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には 
  よこぜき村は存在しない。
  国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944

今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。

そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
  では、地図上では何処になるのでしょうか!

2012年3月17日土曜日

横関街道の名の由来は 「吹田郷土史研究会」で発表

横関は何処  「横関を探しに」
   
 公表 「早春歴史文化講座」  
         主催 吹田郷土史研究会
  横関は「横堰」
   
講演で発表しました。

吹田市の街道で横関街道はご存知の方が多いでしょうが、なぜ、横関街道というのかわかりません。
 「横関街道」、「横関の渡し」として、「横関」とは実際あるのか!
 街道には行先表示が一般的である。通称の呼び名で能勢街道を「馬車街道」と表現する場合もあるが、街道は一般的に「行先地名で表す。」 余野街道を「池田道」など
 明治18年の地図には「横関村」は探し出せない。村落の形跡が見られない。
 よってこの時以降は、地図上では地名「横関」は出てこないが、
「横関街道」、「横関の渡し」として、「横関」の名は語り継がれている。
 「横関村?」は本庄の渡しの「川口村」同様、淀川の改修の為水没しているので その伝承が残っているところがあればよい。
  色々探しましたら、横関がありました。下記の江戸時代の一枚の絵図に「横関」が表示されています。が、淀川の「河絵図」 同じ図柄 3枚ある、その内の1枚に
「横関」の地名が載っていました。
下の地図 「河絵図」 寛政9年 1797年に地名「横関」が掲載
この絵は公式のものではない。 それから、吹田の渡し付近の絵図は現代版の描き方がされ、昔の地形と大きく違うのも問題だ。

今のところ この地図だけに地名「横関」が載っていることになる。が
同じ図柄で3枚書かれているにもかかわらず、1つだけ地名「横関」が掲げられていることが
不自然である。 
官庁:江戸幕府はどうしたか! 江戸幕府が公式に4回作った絵図 4、5年かけて作成したものがある。その中には村名はもちろんだが、大事な生産量:石高が記載され、街道も記載されている。 
公文書江戸幕府が作った絵図には「横関村」の名前はない。元禄絵図

また、次の文献を読むと
 「東淀川区史」川端 直正/編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会,1956.6
「横関街道は旧幕末時代 大坂より池田に通ずる要路で長良川の「横関渡」を越えるところからかく呼ばれた。」

********************************
追加     大阪市立大学学術情報総合センター  から 入手
         「淀川横堰渡船記録」   この項 さらに詳しい情報を入手 2015/09/29
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 これにより、地名「横関」はなかったとなる。
 長柄の堰、その堰の横の渡しであるから 「横堰渡し」となったのが有力で、その渡しの名前から「横関街道」:「横堰街道」となったものと思われる。
「横堰の渡し名」が街道名となったことになる。

街道名には吹田・亀岡・能勢・高槻・大阪など地名で表すのが一般的です。
 地名「横関」というのは吹田近辺ではありません。ただし、横関街道とは一般的に言われていますし、大阪府史にも
 街道では長良川の渡しで有名な「長柄の渡し」がありますがその他北摂に関係ある渡しとして
 「本庄の渡し」と「横関の渡し」があります。「横関」の古い地図にも載っていません、地名・村名がありません、このには、満潮時の塩害を防ぐために「堰」が設けられていました。
 よってその「堰」の横を横切って渡る船を「横関の渡し」とし時々は「横堰の渡し」と表示されるばあいもあり、関所でなく塩害を防ぐ堰に関係していることがわかる。 

街道跡は今では3つの道標と中津川、長良川に架かる橋が設けられている。
 横関街道は 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
渡し
神崎川
江口 ・・・・ 一津屋
吹田 ・・・・ 小松
榎木 ・・・・ 渉村
小曽根 ・・・・ 十八
淀川   
下島■   三百三十間
平田番所 ・・・・ 百八十五間 ・・・・ 八番
中津川
薬師堂 ・・・・・ 北長柄 -----(淀川)毛馬と友淵の間   
横関  ・・・・・ 本庄
川口  ・・・・・ 本庄 ―源光寺 ― 濱 ― 北野

北野で 十三への道(中国道)と合流    


古い地図の名称?  いろいろある 「河絵図」 寛政9年 1797年
http://atamatote.blog119.fc2.com/tb.php/347-5ed45956

慶長・正保・元禄・天保の4回
大坂指掌図(淀河筋図)1847 波華書屋    懐宝 大阪図11b 年代不詳   大阪指掌図no.17b
上新田から佐井寺の道  もう一つの絵図 
道標は養根を積む、陰徳を積む ・・・ 茨木の道標
人に知られないようにひそかにする善行。隠れた、よい行い。
山田郷土史(毛筆) 山一小学校
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-347.html
資料 地図
京街道を歩く(28) 八幡市橋本 道標3基  柳谷の渡し

追加資料  大阪市立中央図書館 より
地図  方角改正五畿内掌覽  1840年代

次は 下記の常夜灯
この常夜灯は妙見宮と書かれており 横関街道の江坂西道標を北上すると出会います。
明治時代のものです。
常夜灯は一般的に参道に立っている物です。 ということは
この街道 妙見宮参道となる。????
能勢街道ではないのか! これを解明しよう。
何故ここに「妙見宮」の常夜灯が立っているのか!

 横関街道 検索 


2012年3月16日金曜日

江坂を通る 横関街道 地名「横関」は存在しない? 追加「日の出跨線橋

横関探索  研究会で発表
  道標・街道を探索当初は吹田で「横関街道は」と話を聞くが、私としてはまったく別なところの話と聞いていました。そのことは、先だっての「なりあい」と 全く同じで、この近郊には「横関」という地名が地図上でも上がっていないので、他の地域の話と思っていました。 話をよく聞くと横関街道は吹田江坂の高川の三国街道から分岐し南下し、吹田街道を横切り、蔵人、榎木の渡し、大阪市内十八条町、横関の渡しで大阪市本庄に行く街道です。
 街道の名称・名前は明治以降に名づけられまれ、それまでは、行先を街道名にしていました。能勢街道も大阪に向かう道は「大阪道」といっていたようです。 ところで、地名、「横関」は現在の地名・町名には存在しませんし、吹田市内では横関への道標は存在しませんが、
「横関街道」というのは一般的に使われています。
 横関街道は どのようないわれで発生し、語り継がれたのでしょうか! 明治19年の地図には
横関の村はありませんが、「渡し」は記載されております、名称は江戸時代の地図、及び、渡しのあった場所などには「横関の渡し」が記載されています。
 でわ、横関街道を南下してみます。 街道は区画整理されており街道をたどるには無理がありますが、明治19年の地図を参考に実測し、道標を見つけられた方がいます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
追加
道標・地図は見つけられた 今津っ子さんのブログを参照してください。その地図で次の点を注意してください。
1.横関街道がJR新大阪駅の関西空港線の踏切を渡る。
2.横関街道がJR東海道線を横切る、その後、斜めの道
3.その道を進むと唯一の「横関への道標」がある。

追加
4.「横関」の名のある絵図を紹介します。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
吹田から神崎川を超え、十八条町へ 後は右が途切れます。

JR新大阪駅踏切に「横関踏切」とある。



 
新大阪駅 横関踏切 京都方面 右のプラットホームは東海道線
新幹線は右上になります。 

JR新大阪駅東海道線東淀川駅南側陸橋
(もしこの橋に名前がついていたらよいのだが!)
大阪市に問い合わせ すぐの返事 
この橋は 横関街道が鉄道を横切り、街道の名残の「日の出跨線橋」です。
「跨線橋」の項こちら
細長いホテルビルの左側を斜めに進むと・・・・
下の写真は  2010年8月12日
続きはこちら
振り返るとJR新幹線新大阪駅

写真⑨ 以前の写真から 
 
唯一の「横関」表示のある道標 「東中島の道標」 表示
   右 本庄
北かち於じ
左 よこぜき   とある。

    東西南北の表示は立っている方向を示すものがある。十三大橋の中津側に立っているどうひょうがそれである。    
 ただし、ここでは唯一方角「北」を示し、道案内を行っている。
 この表示は 非常に面白い。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 地図 明治18年には 川口村はあるが、「横関の地名はない。」
その後、淀川改修で 横関、川口村は水没しているので、現在まで地名「横関」は存在しない。
下の地図は新之助さんから借用しました。 点Bをご覧ください。
senri_0004.jpg
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
追加
下の絵図で横関を発見 大坂指掌図(淀河筋図)
弘化4年(1847) 波華書店
同じような絵図が3種類あるが
横関の表示はこの絵図だけである。

中津川の川上から 薬師堂、濱 、横関、川口、木寺 5つが揚げられているが
よく見ると 横ぜきは赤丸○でないこと
この地図だけ 横関の地名が掲げられて、他の地図では 横関の地名はない。
また、明治18年の地図にも集落、「横関」はない。

公式の絵図:江戸幕府の命令で作られ
官製地図には「横関村」は記載がない。

以上のことから横関の村は存在しなかったと考えられる。 

しかし、「横関の渡し」は時々「横堰の渡し」が使われることがあり、また、どの地図にも「渡し」が掲げてあり、横関渡しから横関街道となったものと思われる。また、街道・渡しの名称は近くの地名・名称に由来するもので、横関とは、このあたりに「 堰 」が設けられていたのでその「堰の横」 横関の渡しとなったのではないかと思われる。


江戸時代 
この地図は江戸時代の地図です。中津川の「渡し」を見ると
薬師堂(長柄の渡し) ・・・・・ 北長柄 -----(淀川)毛馬と友淵の間 東天満で 天満橋
横関(村)(横関の渡し)・・・・・ 本庄 ―源光寺 ― 濱 ― 北野
川口村(本庄の渡し)  ・・・・・ 本庄 ―源光寺 ― 濱 ― 北野
この二つは北野で 十三への道(中国道)と合流 西天満  天神橋
新田袋小路 ・・・・ 十三 ー 下三番 - 上三番 - 北野

源光寺 北区豊崎にある寺 元名を平生寺 天平十九年 行基開山
再び登場「続・竹林の愚人 源光寺

2012年3月27日火曜日

今回も早い 大阪市の市立中央図書館 横関街道

知識創造型図書館を目指します  
                大阪市立図書館からのメール
質問したのは 24日土曜日だったお思います。
早い対応です。
大阪市立中央図書館 調査相談担当です。
「市民の声」にお寄せいただいた件につきまして回答いたします。

【質問内容】
1.「北摂の道標」を調べており、「横関街道」「横関の渡し」について現在調
べています。「横関」は存在したのか。
2.下記の明治5年の地図を探しています。
http://sky.geocities.jp/yasu302yosi/syuhentizu.html

新しい地図を見つけたので大阪市役所にこの地図の名称
がわかれば、 問い合わせ先 のお願いをしました。
横関は横堰の新事実
その回答です。   早いですねそして、内容が濃いです ありがとうございます。

【回答】
1. について
以下の当館所蔵資料に「横関」に関する記述がありました。
「大阪の街道と道標」武藤 善一郎/著
サンケイ新聞生活情報センター,1988
<0000371016>
P204 3-10大阪市北部の街道 大阪市内北部のうち、西淀川区、淀川区、東淀川区にまたがる比較的短い街道として、中島街道、江口街道、蒲田街道、横関街道などがあり、~(中略)~これらは道路整備が本格的に行われた、明治年代に名付けられたものである。
P208 図121中島街道-2・江口街道に「横関街道」あり。巻末附図2 大阪市北部の街道概要図に「横関街道」あり。
「東淀川区史」川端 直正/編集 東淀川区創設三十周年記念事業委員会,1956.6
<0000253623>
P134横関街道 神崎川榎木渡-十八條-蒲田-北宮原-南宮原-山口-南方-南長柄 小曽根村大字小曽根にて三國街道より分岐
P135横関街道は旧幕末時代大坂より池田に通ずる要路で長良川の「横関渡」を越えるところからかく呼ばれた。
P484横関済(わたし) 歌の名所長柄済の次にあり。此所淀川の分れ。世に長柄川或は中津川と称するの水上也。一名横関・川口済とも云へり。

「大淀区史」大阪都市協会/編集 大淀区コミュニティ協会,1988.11
<0000246498>
P160渡し 水陸交通の要衝に位置した中津川には「摂津志」によると、北長柄村の長柄渡し、本庄村の横関渡しと本庄渡し、成小路村の十三渡し、野里村の柏渡しの五か所の渡しがあった。江戸時代、大阪から池田方面へ向かうには、このうち十三渡し、本庄渡し、横関渡しなどを利用した。

「新修大阪市史 第3巻」新修大阪市史編纂委員会/編集 大阪市,1989.3
<0000342137>
P443 渡し このほか天満の諸町から、高槻・丹波・尼崎等へ赴くには、中津川と神崎川を越さねばならないが、当時両川には橋はなく渡船によらねばならなかった。『摂陽群談』によると、元禄当時、以下のような渡しがあった。中津川では、上流から名を挙げると、本庄村(大淀区)から対岸の川口村(淀川区)への本庄渡し(一名横関渡し)、新田村から堀村(淀川区)への十三渡し、浦江村から海老江新家に出て野里村尼崎道に至る野里渡し、野田村新家(福島区)から北伝法村(此花区)への伝法渡しである。


●商用データベース「ジャパンナレッジ」
「横関」で検索すると、以下の3件が確認できました。
・『日本歴史地名大系』で「中津川」の項に「近世にも橋はなく、上流から長柄渡・横関渡・本庄渡(現大淀区)、十三渡(現淀川区)、野里渡・稗島渡(現西淀川区)があった。明治五年段階でも架橋されていない(前掲町名改正絵図)。」との記述がありました。
・「大淀区」の項に「区域を通る街道としては、亀山街道が長柄渡、横関街道が横関渡と本庄渡、西国街道に通ずる道は十三渡で中津川を渡り、このほか能勢街道(池田道)や尼崎(現兵庫県尼崎市)に向かう道が通った。」とありました。
・「淀川区」の項に「本庄村(現大淀区)から横関渡(現大淀区-東淀川区)を越え、北進して十八条村榎木渡に至り池田方面に向かう横関街道があり、このほか三国渡で能勢街道より分岐して亀山街道に至る蒲田街道、中島大水道に沿う中島街道などがあった。こうした主要街道が通りながらも神崎川・中津川には橋はなく、すべて渡しであった。」とありました。

2.について
ご質問と一緒に書かれていたアドレスから「明治5年頃の天満地域 古地図写し」を拝見しました。
明治5年の大阪の地図で、当館が所蔵しております資料は以下のものになります。
「大阪古地図集成(大阪建設史夜話 附図」玉置豊次郎/編集: 大阪都市協会,1980
<0000253373>
第十六図 大阪市中地区町名改正地図
中津川に横堰渡と書かれていますが、横堰街道という記述はありません。こちらの地図は、国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースで検索できる「大阪市中地區甼名改正繪圖」と同じものになります。拡大して該当箇所を確認していただくことができます。http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/syozou-map.html

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大阪市立中央図書館 調査相談担当        
住所 〒550-0014 大阪市西区北堀江4-3-2   
TEL 06-6539-3302(調査相談担当直通) 
ようこそ!大阪市立図書館へ:http://www.oml.city.osaka.jp/
各図書館の連絡先:http://www.oml.city.osaka.jp/info/list.html#chiiki

-大阪市立図書館は知識創造型図書館を目指します-

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すごいです、短期間にこれだけの資料を調べ上げてもらいました、ありがとうございます。
掲載忘れを追加 5件プラス1件  お世話になりました、 2012/04/10 
城陽市の道標   城陽市観光協会から回答  翌日メール
(2009年4月18日掲載)

早い もう一つの自治体 福知山市郷土資料館  
2011年8月26日金曜日掲載) 報告会の御礼を申しました、 「一度は福知山城へおいでください、」 今年度までですので 「一度お伺いする。」こと約束しました。  
 追加 福知山訪問  2011/8/29 宮津へ調査に   2012/8/2 福知山訪問
 福知山 事前探索紀  2012年9月7日金曜日
 福知山 探索紀 2012年9月19日水曜日
 舞鶴からの手紙   2012年9月6日木曜日
早い 大阪市十三公園事務所  報告を忘れていました。
2011年9月22日木曜日)

丹後街道を測量  追伸 早い舞鶴市
(2011年8月31日水曜日)

丁寧なメール 元興寺文化財研究所
2009年10月30日金曜日)  この後 奈良市を見学
  なら 正倉院展 へ 

さらに追加
道標 記録  早い箕面市
2008年8月22日金曜日     これが縁で道標のことを聞いています。

早い市だけではありません、遅い、返事のない市もあります。
(別な市役所の「声」に質問したのですが、返事は貰えず、その史には私から電話をかけました。 )

以上
大阪市に問い合わせ すぐの返事  
      この橋は 横関街道が鉄道を横切り、街道の名残の「日の出跨線橋」です。
早い 大阪市からのメール   大阪市立中央図書館
舞鶴市からの郵便が届きました。  舞鶴市教育委員会
大阪市コールセンター十三公園課
早い  吹田市役所も早いが国土地理院も早い パートⅡ
早い 舞鶴市役所教育委員会
早い  吹田市役所も早いが国土地理院も早い
十三の公園  早い 大阪市

2014年11月12日水曜日

さらに追加 12/9 「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿  困ったな! 確認しなければなりません 


横関の名前のいわれはこの中の 23番と43番の文書に書かれています。
添付は23番 1782年のもの。

往古南方村濱村ニ■■■候■より
渡シ守リ候ニ付中ノ渡シと唱候■大坂
御陣の節右渡しの少し上ニ御関■■
候間より以来横関渡しと唱来り依の■
ということで...。
2つあわせると大坂の冬の陣の時、濱村と本庄村の間に堰を築き、淀川の水をせき止めた。
その時から中の渡しと呼んでいたのを、横関の渡しとなった。
    

元に収まったようです。 私の予想通りでした。 めでたしめでたし。

*****************************************

2014/12/9  
 お話のなかであった南、北の長柄村の件、西成郡史に
書かれているものを添付します。
ご参考にしてください。

 P.275 慶長15年までは一つの長柄村だったようです。

添付 「西成群史」


2014/12/02  追加
東淀川区役所にある 西成郡絵図   一柳太郎氏所蔵  
中島大水道の模型を撮りに
タイトル名
   「ここは、東淀川区役所 中島大水道 本庄小橋、増島橋、三義人」


さらに コメントがありました。

コメント2





 匿名 さんは書きました...
先のコメントを投稿した者です。  大阪府全志 巻之三 480頁  西中島村 大字濱
の項に次のような記述があります。

 字地に文納、横關といへるあり。
明治29年度より着手せられし淀川改良工事の為め、弐拾六町五反弐拾五歩の地は買収せられて同川敷となる。

 「淀川改良大阪市西成郡之内買収図」で見てみると、文納は見つかりましたが、横關は見つかりませんでした。

 江戸時代、横関は濱村の分村で、横関村を名乗っていたが、橋も架かり渡しの通行量が減って、衰退し、濱村に吸収された。
とみるのが妥当と思われます。

 場所は明治18年の地図で、旧東海道線と横関街道に挟まれた、三角形の頂点にある集落
ではないでしょうか?(推測です)
                以上
回答  追加11/21 まだ調べていませんが 中長柄村、南長柄村は地図で存在が分かる。
     中津川の右岸は 薬師寺村、濱村、川口村、木寺村、小嶋村 十三大橋まで 
     
 
 江戸時代の絵図(下記 2題)には、蔵人村など枝村の記載有。 が「横関村」名は絵図2つとも「濱村枝村横関村」の確認できない。 
   明治の地図には 「横関」集落跡の形跡がない。
   大阪市の報告には 地名「横関」、村名「横関村」、字名「横関」の記載がない。  
   新しく字名「横関」が出てきたのは 新しいことです。 
   但し、地蔵の溝のように、地蔵が先か後かと同様 
   「横関の渡し」が先か 字名が先はは分かりません。
  
新事実として
   大阪市の報告に修正のお願いを致しますが、現在未調査の為、後日となります。 

淀川の橋については 
  横関には橋は 江戸時代、明治時代とも橋があったとは記載は残っていません。
  淀川の橋は 一般的に、木川村に「新橋」と今でいう、能勢街道の一部になっている。明治時代になって作られた。  それ以外 本庄・横関とも 明治時代は橋はかかっていなく、「渡し」となっている。ことが今まで、知らされた事実ですので、横関には橋がなかった。となる。
 
 では、「横関の渡し」にかかわった人は何処に住居を構えていたのか、右岸には形跡内から
左岸 本庄にそのような形跡があるのか、両岸とも、町並みはみられない。
   
地図掲載 下のページ 

ザ・淀川 2013/3    


コメント1
前から気になっていたのですが、横関村について...
 吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。  
天明六年七月二十九日

 ご確認ください。     以上

有難うございます。  吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 それも 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
 横関村のがあった。とする公文書   今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。  横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・  横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村
追加 2014/1/23
 稗嶋村
 野里村
 下嶋村
 一津屋村
 江口村
 吹田村 庄屋 伝右衛門   舟持惣代 八右衛門
 江坂村 庄屋 太郎左衛門 舟持惣代 九兵衛
 小曽根村 庄屋 彦右衛門 但し村持ち
 三屋村 庄屋 彦右衛門   舟持 与左衛門
 佃村  庄屋 長治兵衛
 大和田村 庄屋 源次郎
〆拾五ケ村
 吹田村住 橋本氏

となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村 

結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
  
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。  ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。

1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。  その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。 

 そこで終わればいいのですが。 
 それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
 簡単に「横関の渡し」からの命名となります。  
 でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか

2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ  横関村の存在は確認できなかった。
   今回も早い 大阪市の市立中央図書館
    横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
    横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力

3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には 
  よこぜき村は存在しない。
  国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944

 もう一つ 
 国立公文書館所蔵 天保摂津国絵図(1825~1838) 重要文化財

今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。

そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
  では、地図上では何処になるのでしょうか!

2023年5月23日火曜日

「茅の輪くぐり」案内 榎坂の道標について 問い合わせがあり ④ 移築された道標 2基 ③ 吹田の道標  ② 明治44の地図  ① 横関街道

昨日(5/22までの訪問者数のべ 496,898ビュー 33

(5/21までの訪問者数のべ 496,807ビュー 58

(5/20までの訪問者数のべ 496,807ビュー 73回

蔵人稲荷神社で 本日30日のPM3から
  茅野輪くぐり があります。


榎坂 蔵人稲荷神社 「茅の輪くぐり」

蔵人稲荷神社


榎坂の道標について 問い合わせがあり


④ 見つかった道標 2基 と 福知山の道標

  江坂西西道標 と   江坂の万人講道標4

  
 この2基は一方向を示している 右 かちおじ で三叉路に立っていた可能性が大である。
 そこで、下記の 明治44年の地図では 榎坂から勝尾寺へは 三国街道で合流し、勝尾寺への 案内で この2基は 横関街道でここ高川の右岸堤防・三国街道沿い 豊中市側に立っていたものと思われる。
この2基は いろいろと話題を提供しています。第一に 左側の道標「下の立石」と考えられています。「上の立石」、「中の立石」、「下の立石」。 また、右側の道標・万人講は「豊中市の文化財 道標編」1975年 p37に NO。30に記載されているものであり、調査した人達は 豊中市民 その後、橋の改修により、2基の道標の行方がわからなくなったと思われる。  

福知山の道標の調査   

江坂 素盞嗚尊神社の油かけ地蔵 
上の「万人講」と同じく 地蔵群の中で見つける。


吹田の道標


「すいた環境学習協会 まち組」

  道標本いろいろ

②  明治44の地図 

  今昔マップで点検中 このルートを表記しました。

  まだ新道ができていない状態です。

  

     赤い南北の道 「横関街道」

  青い南北の道 「三国街道」上新田迄   高川の堤防

  黒色東西の道 「吹田街道」

  中央上の丸印は 素盞嗚尊神社 榎坂の万人講道標を見つける。

                                                                 
                                       高川・三国街道          横関街道
明治44年の地図  今昔マップ


①. 横関街道 については このブログで理解されている方です。

  横関村は存在しない。  在ったとしても 明治以降だと思われる。

  資料として 絵図がある

  

  街道の名称は 行先を表示が一般的 勝尾寺、中山寺、地名としては 岡町、茨木、吹田など

  

地図 左右 地図1,地図2
地図左(地図1)
  右の縦の道 新御堂筋、右上から左中央緑の線 名神高速
   赤色の南北「横関街道」クランクになっているのが東西「吹田街道」
   吹田街道の下の道がバス道で 府道145号線
   横関街道の左 南北の新道:熊野大阪線:府道134号線 
   横関街道は 淀川の「横関の渡し」から 新大阪・宮原・榎木の渡しで吹田へ 
   北上し、江坂・東西の吹田街道をクランクして 高川で三国街道と合流し終わる!
   三国街道は 上新田で勝尾寺街道合流し終点となる。

地図右(地図2) 左の地図の赤丸の部分を拡大したもの
   一番下の東西の道が「  街道」です。

   道標イロハの説明
    道標イ、ロは江坂西道標と説明版が設置     
    道標ハは江坂西西道標 新しく見つかった道標 旧在所・・・・
        「下の立石」
    道標2.江坂東道標

     それ以外に 見つかった道標 2011年8月17日 素戔嗚尊神社の油掛け地蔵で見つける
   万人講4