9月1日 投稿を頂きました。
2021/2/23 05:30神戸新聞NEXT
兵庫県新温泉町内の踏切近くに、墓石のような形の石碑が立っている。町のホームページで調べると、江戸時代の飛鳥野勇七という力士を顕彰する「相撲取(すもうとり)塚」だと分かった。町内の相撲取塚は、浜坂を中心に約20カ所に点在するという。県内有数の相撲どころだけに石碑があっても不思議はないが、その役割は何なのか。そもそも、なぜ相撲が盛んになったのだろうか。脈々と受け継がれる“相撲熱”のルーツを探った。(末吉佳希)
2019年5月、同町浜坂相撲場(同町浜坂)。子どもたちの白熱したぶつかり合いに、地域住民らの声援が飛んだ。同町相撲連盟や美方青年会議所が、町などの協力を得て7年ぶりに復活させた「わんぱく相撲」が開かれ、美方郡内の児童ら約50人が参加した。
昨年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で開催できなかったが、関係者は「相撲は激しさの中に品がある地域の伝統。『相撲のまち』の熱が再燃すれば」と力を込める。
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浜坂町史によると、江戸時代中期に代表的な針金屋として栄えた「藤田屋」の初代、藤田丈七が因州(現在の鳥取県東部)の武術家に師事したことを機に体術が流行。丈七の四男で力士の飛鳥野勇七が、寺社の修繕などを目的とした興行相撲に江戸の力士たちを集めた記録が残る。
歴史文化に詳しい浜坂先人記念館「以命亭」の川夏晴夫さん(61)は「この時、本格的な技術指導もあり、地域に相撲が根付いたのでは」と推定する。
町史によると「相撲取塚」は、地域にゆかりのある力士を祭り、門弟らが江戸から大正にかけて浜坂地域の各地に建立した。郷土史家の岡部良一さん(73)=新温泉町=は「鳥取県にも多く見られる。麒麟獅子舞や傘踊りなど、鳥取の文化に影響を受けている地域の特徴を示す史跡」と話す。
浜坂地域で盛んな理由の一つに、漁師が航海の安全などのために奉納相撲を取った流れもあるとされる。かつては13基あったが、同町丹土出身の「岩石七之助」の塚は数十年前、巌山(がんざん)寺(同町飯野)に移設。近くの巌山(いわやま)神社では1歳前後の子どもが四股を踏んで健康を祈願する「稚児土俵入り」が続く。温泉地域には少なくとも7基の相撲取塚が建てられている。
多くが旧村の境や町外れに点在することから、岡部さんは「お地蔵さまのように、悪霊や疫病を防ぐ目的で建てられた可能性が高い」と推測する。
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大正時代以降、力士を招いた相撲大会や巡業が頻繁に開かれ、昭和になると大横綱双葉山や大関大内山らも来訪。練習会では住民に手ほどきした。
1980年代、美方青年会議所が子ども向けに開く「わんぱく相撲美方場所」が開幕。2000年代には「裸のまち」と銘打った町おこしの動きが見られた。地域の相撲連盟が町内の学校に簡易な土俵を整備し、子どもたちが相撲に親しんだ。
少子化や高齢化が深刻化すると、相撲行事の廃止が相次いだ。浜坂地域で唯一続いていた久谷八幡神社(同町久谷)の奉納相撲が2013年に休止し、境内の相撲場は老朽化で撤去された。地元の歴史に詳しい住民の岡坂峰雄さん(82)は「相撲を取る子どもが足りず、他地域からの参加も受け入れていたが、限界だった」と肩を落とす。
しかし、今年は「わんぱく相撲」の再開も期待される。地元の人たちは「相撲は失ってはいけない地域の伝統」と口をそろえる。“相撲のDNA”は、住民の中に息づいている。
■名門の誇り胸に稽古 8年ぶり、OBが角界へ
「相撲のまち」の風土の中、大相撲力士が多数輩出した浜坂中学校(新温泉町浜坂)の相撲部は県内有数の名門として歴史を刻むが、近年は部員数減少に悩まされている。かつては10人を超えていた部員は現在3人。監督として指導する松井博明さんは「浜坂の相撲文化の最前線。何としても守りたい」と力を込める。
校内の相撲場は老朽化したため、1992年からは地元の株本建設工業(新温泉町芦屋)が倉庫を改築した稽古場を提供。休日の稽古には同部OBが現役生のぶつかり稽古に胸を貸してきた。最盛期の90年代には全国総体に団体で3年連続出場したが、10年以上は全国の舞台が遠のいている。
今春は8年ぶりに同部OBが角界入りする。部員たちは「先輩の頑張りを追い風に、いつか全国の舞台へ」と稽古に汗を流す。
面白いですね! 一度行ってみてもよいですね。8月30日 投稿 ありがとうございます。
正面:大和川□次郎墓
清か?裏面:□□□□□
明治三十年十?月
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左面:なし
右面:榎坂門弟中
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