現在地:吹田市江坂町 油かけ地蔵道標
以前の地図 赤い道はこれは昔の「丹後鉄道の路線跡」とのことでした。
さて、江坂の「なりあい」と「宮津」を同じ方向で示しているので
三叉路に立っていた物か その道中に立っていた物となる。
計測すると上の地図の国道175号線と赤い道が交わる三叉路をこの江坂の道標があったと想定した。但し、ここまでは39kmもう10里になってしまう。
宮津の対岸にある「成相寺」から9里約36km
下天津の国道175号線と176号線の合流点が約35km
この地点付近だと考える。ただし、ここに立っていたというのは疑問視される。
個々の表示は「右 宮津 左 なりあい」となるので合流点ではない。
下記に記載している 道標A 間にあったのかと
この道標Aの「なりあい」の案内はないし、行けるが遠回りになる。
以上2点を考え、175号線から丹後鉄道下天津駅へ曲がる道2か所あるが
どちらにしても 北側に立っていて、その一つと考えられる。
舞鶴の郷土史家安田重晴さんから頂いた地図「福知山市の道標」
今回の調査 ②、④、⑤ 元外宮まで
西は牧から 北は元外宮、南は厄除神社まで 駅が近いので
ここで降ります。「いやいや もう一度家に来てもらい、渡したいものがある。」
それが赤井さんが調査研究された
「牧」六人衆」の足跡 「牧村」誕生の謎を解く でした。
① 左 ふくち道 右 なりあい道 下天津 見つからず
② 右 ぬかた たじま 左 ふくち山 京 大坂 上天津(正確には勅使)弘化二年
地蔵道標 右 ぬかた たじま 左 ふくち山 京 大坂 台座に弘化二年
元の場所は 旧527号線と宮津街道の合流地点にあったのが移動されているとのことでした。
なりあい、宮津からの帰り道に立っていた模様。それは 是社神社当たり
「是社神社」
岡井・村上氏 「顕彰碑」 是社神社の土地を寄進 寛保三年
手前の道が宮津街道、信号の下にまっすぐ伸びているのが旧国道527号線で
由良川左の堤防沿いです。
ここにあった考えられる。
「高僧像 右 みや津へ 七り なりあいへ 九り」
現在 吹田市素盞嗚神社境内あるこの道標はここにあったものと考える。
現在 吹田市素盞嗚神社境内あるこの道標はここにあったものと考える。
④ 右 なりあいみち 南無阿弥陀佛 石本
⑤ 右 丹後なりあい 但馬 ゆしま 右京 大坂 道 鋳物師町 文化五年九月
⑦ 右 丹後 みやづ道 左 但馬 いくの道 荒河 見つからず
⑧ 左 京 大坂 ふくち山 右たんご たりま そが井橋跡 見つからず
⑨ 右 ふくち山 道 左みやづみち □左エ門 岩井橋
⑩ 右 京 大坂道 左丹後なりあい但馬 ゆしま 元呉服ケ角、現 惇明小学校 文化二年
以前の写真 2011年8月28日日曜日撮影
現在 市立惇明小学校
⑪ 左 京 大坂道 今回は除外⑫ (仏)右 丹後なれあい道 左 さい志う道 森垣 今回は除外
①~⑫ 以外の道標A
下天津に行く途中 地蔵台座に 享保十九年七月
読み切れません。 右がうゆりミち 真ん中の字は、これはわかりません 左 がやミち
コメント 享保十九年の台座の文字ですが、右→加うもりミち→大江町河守(こうもり)
左→加やミち→与謝野町加悦ではないでしょうか。
地の人に聞かないとわかりません。
道標B
橋にかかりました。ここは上荒河 向こうに見えるのが由良川の堤防そのよこに公園が
それに地蔵が
これはしめしめ と思い近づいてみましたが 世話人の名前のみ 残念
それで 周りを見ると これこれです。
上荒河公会堂 その横に いくつかの石仏がありました。
碑「相寿寺跡」
これは字が読めません。
道標C ? 上天津から牧に行く途中
右 大師堂
大師堂は前の地蔵群
水準点 牧の手前
荒井橋北側 これが⑨なのか
地蔵道標 右ふくちや山道 左みやづみち
記載事項からこれが⑨のようだ。 続いて
その他の道標
「牧六人衆」の地名「牧」の道標
これは珍しい 見事な三角の道標です。それも「石」でした。
右が宮津街道
右 京 大坂
左 丹 ご
もう一面には 左 たじま道
今の国道
荒巻にある 右には祠が 左には地蔵群
祠の中の様子
「当村願主 松原庄右衛門」の確認はできませんでした。
後は地元 福知山の人にまかせるしかないな という思いです。
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「牧六人衆」 福知山市郷土史家 赤井信吾著
福知山探索
江坂の「気になる道標」
1 件のコメント:
楽しく拝見しています。
享保十九年の台座の文字ですが、右→加うもりミち→大江町河守(こうもり)
左→加やミち→与謝野町加悦ではないでしょうか。
これからも益々ご活躍される事をお祈りいたします。
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