そのなかに「その他の道標」の記載があり、 27~32、
27、こもゑ、すどふしへの道
28、打越池北西三又路 一度見つけたが、その後 行方不明に
29、勝尾寺と佐井寺道との分岐 これは見つかり旧所に設置されている。
30、樫ノ木池北東、勝尾寺と野道との三叉路。新千里北町二丁目 「上の立石」
31、報恩寺前十字路 箕面街道と里道の十字路に存在したことが書き入られている。
写真で見たことがあるが!? これではないの!
32、旧在所不明断片 純正寺境内 一度写真を撮りに行きました。
それが見当たらない。 正面「妙見」 左横「かつ」 裏 「暦七」
今回は 30,樫ノ木池北東、勝尾寺と野道との三叉路。新千里北町二丁目
について
その前に 「豊中市道標 30」は江坂で見つかった「万人講④」がそれにあたる。
「上の立石」の住所は「樫の木池北東の道標」ですが、本「野の仏」に掲載されている「上の立石」ではない。
豊中の資料には下記のように記されている。
この道標は 裏には記載がないが造立の趣旨をしるしている 「為万人講衆中法界」
勝尾寺街道はこの辺りでは南北にあり、「かちをうじ」が南面???
旅人には安全祈願の「南無阿弥陀仏」の西面は見えない。 私だったら、方向の「かちうじ」を東側に設置する。勝尾寺へ参拝する人は最初に「南無阿弥陀仏」が見えて、道標がわかる。 他の資料の立石は東面を「右 かちをうじ」となっている。
この道標 「万人講」ではないですか! ただし、所在地は「上の立石」です。
この道標は大きさは記載されていないが、旧住所からすると 「上の立石」となるが
上の立石の2編他の資料とは大きさが全く違った道標である。
「上の立石」の資料1.本「野の仏」 資料2.
豊中市資料 30は記述が「万人講」であり 江坂の「万人講④」である。
1. 「為万人講講中」だから、万人講の道標
2. 上新田の万人講道標で上新田と同じ形状である。
3. 上の立石は大きい道標であり、この道標は大きくない、立石ではない。
4.「上の立石」には「馬頭観音像」が彫られているので、この道標にはない。
衣装のことによりこれは「上の立石」違う! 万人講道標④
表記の、文字「為万人講衆中法界」と刻んであるので他の3基の「万人講道標」と同じで
「万人講道標・造立の趣意」であることがわかる。
下部が破損している榎坂で見つかった万人講道標の表記がこのNO。30それにあたるのではないか
上の立石の資料
他の資料 ① 「野の仏」
次の道標を見てください。 万人講の道標が 吹田市江坂でみつかりました。
「豊中市の文化財 道標編」NO.30の道標は
下部欠損ながら刻印からするとこの道標ではないでしょうか!
万人講 その④ 吹田市江坂 三国街道と横関街道が交わる 高川堤防
2011年8月17日 素戔嗚尊神社の油掛け地蔵で見つける下部欠損 高さ 23cm × 角柱 14cm
他の3基は、大阪への道案内。この道標だけ「勝尾寺」への案内。
箕面市では 大阪に帰る道「大阪道」と言われ、万人講道標はこの「大阪道」の入り口に立っている。
この「万人講」④ は 「勝尾寺道」の入り口に立っていた。
https://www.google.co.jp/maps/dir/34.7683543,135.4892018/34.7985806,135.4962306/34.8326437,135.497058/34.8628532,135.4936355/@34.8093297,135.4343908,12z/data=!4m2!4m1!3e2?hl=ja
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