2014年11月12日水曜日

さらに追加 12/9 「横関村が存在する」資料が見つかる 投稿  困ったな! 確認しなければなりません 


横関の名前のいわれはこの中の 23番と43番の文書に書かれています。
添付は23番 1782年のもの。

往古南方村濱村ニ■■■候■より
渡シ守リ候ニ付中ノ渡シと唱候■大坂
御陣の節右渡しの少し上ニ御関■■
候間より以来横関渡しと唱来り依の■
ということで...。
2つあわせると大坂の冬の陣の時、濱村と本庄村の間に堰を築き、淀川の水をせき止めた。
その時から中の渡しと呼んでいたのを、横関の渡しとなった。
    

元に収まったようです。 私の予想通りでした。 めでたしめでたし。

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2014/12/9  
 お話のなかであった南、北の長柄村の件、西成郡史に
書かれているものを添付します。
ご参考にしてください。

 P.275 慶長15年までは一つの長柄村だったようです。

添付 「西成群史」


2014/12/02  追加
東淀川区役所にある 西成郡絵図   一柳太郎氏所蔵  
中島大水道の模型を撮りに
タイトル名
   「ここは、東淀川区役所 中島大水道 本庄小橋、増島橋、三義人」


さらに コメントがありました。

コメント2





 匿名 さんは書きました...
先のコメントを投稿した者です。  大阪府全志 巻之三 480頁  西中島村 大字濱
の項に次のような記述があります。

 字地に文納、横關といへるあり。
明治29年度より着手せられし淀川改良工事の為め、弐拾六町五反弐拾五歩の地は買収せられて同川敷となる。

 「淀川改良大阪市西成郡之内買収図」で見てみると、文納は見つかりましたが、横關は見つかりませんでした。

 江戸時代、横関は濱村の分村で、横関村を名乗っていたが、橋も架かり渡しの通行量が減って、衰退し、濱村に吸収された。
とみるのが妥当と思われます。

 場所は明治18年の地図で、旧東海道線と横関街道に挟まれた、三角形の頂点にある集落
ではないでしょうか?(推測です)
                以上
回答  追加11/21 まだ調べていませんが 中長柄村、南長柄村は地図で存在が分かる。
     中津川の右岸は 薬師寺村、濱村、川口村、木寺村、小嶋村 十三大橋まで 
     
 
 江戸時代の絵図(下記 2題)には、蔵人村など枝村の記載有。 が「横関村」名は絵図2つとも「濱村枝村横関村」の確認できない。 
   明治の地図には 「横関」集落跡の形跡がない。
   大阪市の報告には 地名「横関」、村名「横関村」、字名「横関」の記載がない。  
   新しく字名「横関」が出てきたのは 新しいことです。 
   但し、地蔵の溝のように、地蔵が先か後かと同様 
   「横関の渡し」が先か 字名が先はは分かりません。
  
新事実として
   大阪市の報告に修正のお願いを致しますが、現在未調査の為、後日となります。 

淀川の橋については 
  横関には橋は 江戸時代、明治時代とも橋があったとは記載は残っていません。
  淀川の橋は 一般的に、木川村に「新橋」と今でいう、能勢街道の一部になっている。明治時代になって作られた。  それ以外 本庄・横関とも 明治時代は橋はかかっていなく、「渡し」となっている。ことが今まで、知らされた事実ですので、横関には橋がなかった。となる。
 
 では、「横関の渡し」にかかわった人は何処に住居を構えていたのか、右岸には形跡内から
左岸 本庄にそのような形跡があるのか、両岸とも、町並みはみられない。
   
地図掲載 下のページ 

ザ・淀川 2013/3    


コメント1
前から気になっていたのですが、横関村について...
 吹田市史第6巻史料編
174 過書方摂河村々渡船出入控え帳
 549頁の部分に「横関村 庄屋 ○○」
の記載があります。  
天明六年七月二十九日

 ご確認ください。     以上

有難うございます。  吹田市史第6巻史料編 で確認しました。 公文書 確かに、上記のように記載されています。
公文書から 「横関村」が出てきました。 それも 単独名でなく 連名での登場ですので 確かなものです。
 横関村のがあった。とする公文書   今まで、吹田で言われていた「横関村はない」という説を覆す物になりました。  横関村の存在 何処にあったのでしょうか!
うむ・・・・  横関村が存在するとは?
長柄村
横関村
川口村
成小路村
追加 2014/1/23
 稗嶋村
 野里村
 下嶋村
 一津屋村
 江口村
 吹田村 庄屋 伝右衛門   舟持惣代 八右衛門
 江坂村 庄屋 太郎左衛門 舟持惣代 九兵衛
 小曽根村 庄屋 彦右衛門 但し村持ち
 三屋村 庄屋 彦右衛門   舟持 与左衛門
 佃村  庄屋 長治兵衛
 大和田村 庄屋 源次郎
〆拾五ケ村
 吹田村住 橋本氏

となります。 検討します。
成小路村 中国道より南側の大阪市内の小さい村が集合した村 

結論は 調べないとわかりません。 これまでの経緯
  
私が、このブログで調べた結果を公表しています。その根拠となる物は下記のとおりです。
最初は 「横関街道」、で「横関は何処にあるのですか?」 という疑問が始まりです。
江坂の交差点に蔵人 ありますが、昔、蔵人という村はあったが、現在はない。明治の地図では 蔵人の町並みが見られ、下の地図では「蔵人村」は、「江坂村の内蔵人村」になっているので、江坂村に統合されたのではないでしょうか。  ただ、「交差点名」、地名・蔵人は残っています。
さて 横関 です。

1.最初、いろんな人に問い合わせたが一般的に 「横関村」は地名にないというのが 吹田の人にとっては一般的です。  その他に大坂の人にも聞きましたが 横関という地名、横関村という村の存在もないといいうことでした。 

 そこで終わればいいのですが。 
 それなら、何故 「横関街道」と命名されているのかというのが次の問題です。
 簡単に「横関の渡し」からの命名となります。  
 でも、本当に横関の地名・村は存在しなかったのか! 明治の地図によると集落跡はみつからない。 消滅した村なのか

2.大阪市に問い合わせたが 「横関街道」について問合せ  横関村の存在は確認できなかった。
   今回も早い 大阪市の市立中央図書館
    横関村があった、なかった。ということは言及されていません。
    横関街道は「横関の渡し」から横関街道となったのが有力

3. 江戸幕府か作成し、それには街道が赤い線で表示されていて、村名、石高が表示された地図 には 
  よこぜき村は存在しない。
  国立公文書館所蔵 元禄摂津国絵図(1696~1702) 重要文化財
http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/detail/detailArchives/0000000944

 もう一つ 
 国立公文書館所蔵 天保摂津国絵図(1825~1838) 重要文化財

今のところ 以上の結果から 横関村はなく、村名、地名を付ける街道が横関街道ではないこと。
銀山街道とか馬街道と同じく
堰の横を通る渡し「横関の渡し」から 横関街道となったのが 最有力です。

そこで 最初に吹田では 横関はない ということから調査しましたが 吹田市史に横関村が存在することになります。
  では、地図上では何処になるのでしょうか!

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

先のコメントを投稿した者です。
大阪府全志 巻之三 480頁
西中島村 大字濱
の項に次のような記述があります。

 字地に文納、横關といへるあり。
明治29年度より着手せられし淀川改良工事の為め、弐拾六町五反弐拾五歩の地は買収せられて同川敷となる。

 「淀川改良大阪市西成郡之内買収図」で見てみると、文納は見つかりましたが、横關は見つかりませんでした。

 江戸時代、横関は濱村の分村で、横関村を名乗っていたが、橋も架かり渡しの通行量が減って、衰退し、濱村に吸収された。
とみるのが妥当と思われます。

 場所は明治18年の地図で、旧東海道線と横関街道に挟まれた、三角形の頂点にある集落
ではないでしょうか?(推測です)
                以上