2011年7月30日土曜日

十三の新高公園道標の旧在所 確定


 この地図は旧中津川 から 小嶋村三国へ向かいます。
 赤丸 が 能勢街道が東西に走るところです、 ありました、
 ここが「新高公園道標」の在所です。 やりました! 確定します。
 今回の計測  前回の計測とそんなに離れていないと思います。
 ここが新高公園の道標があった場所です。
中津川の右手は明治になりかけられた橋「新橋」、そのまま東に進むと 本庄の渡しから横関の渡しへ
北に上がって 三国、池田へ  4つの赤い印は 道標をあらわしています。
 右から 木川村西口道標又は小嶋村東口道標、次は 小嶋村北口道標、小嶋村西口道標 十三の渡し  とします。
マル印 は橋のようだ、この川は 「中島大水道」である、この大水道は
 この後、西へそして南へ また 「西国橋」の西へ と続く
 
 よく調べてみると 神津神社の地図に 明らかに中島大水道をわたる、東西の橋がかけえられている。  


最初の地図にもどり この道標を過ぎてからの話は
 しばらく西に向かうが野中村の手前で北に向かう、
 野中村をすぎたところで左に折れると 
  野中村 → 堀上村 → 三津屋村の南側で、中国道に合流することができる。   
  新高公園の道標 「南☜ かんざき、中山、伊丹」 に合致する。

  これで、新高公園の道標の旧在所が確定しました。 この道標も自分の元立っていた場所が理解され、さぞかし喜んでいるのではないでしょうか! 次は 伝承と保存です。 大阪市の道標の資料はない状態で
特定できたのは  道標に記載されてことで、能勢街道が東西に走っている場所があることが大きな要点になった、それと、「渡し」までの距離が記載された居たので この2点 場所を特定できる、決め手になった。 これは 道標に記載されている情報かた得たものです。



 本庄の渡しは  「今津っ子」さんの地図をご覧ください。



  「大阪市内の道標」 を揚げてみます。
  それで、他の人から質問されると思いますが
 「何故、新高公園は遠いのになんでや!」 それは 分りません。だれか知っている人は居ませんか! 例えば 神津神社の小嶋村西口道標は 尼崎で見つかったらしいです。 
 現在所と旧在所は非常に離れています。1キロメートル もう一度道標の北面を見ると、年号と 「福泉山 ■ ■ ■ 」とあり、福泉山の関係者、「講」ではないでしょうか。 多分 道の拡張とかで廃棄されたものが、新高公園の北にある「福泉寺」に関係あるものとして 持ってこられたものと思います。 その点の伝承が残っているはずですが、十三の方に頼みたいです、
  豊中にもあります。
 「疑問の道標」 
  場所は、天竺川の左堤防・長嶋住吉神社横の堤防にあります。一説によるとある 「もう一つ東側にある川・高川から持ってこられたもの」とされます。 私は、疑問の道標が反対側の能勢街道が天竺川を降りるところに立っていたのではないかとかんがえていますが、いまだ、それを証明するような資料、道標は出ていません。
これにも、願主「長島村 ■ ■」
 になっていて、そのことが重要視されたのでしょう。 この点も、十三の新高公園の道標とおなじです。
 道標は元あった場所へ、また 神津神社のように由緒を残すべきだ。
 神崎川を渡った、豊中市三国から服部までは 分岐があるのですが、道標は出ていません。

 「新高公園道標」の在所 Ⅱ

2011年7月28日木曜日

東西の道あり  能勢街道  明治18年の地図番号   

新高公園の道標は 東西方向に立てられていたが、
十三-三国間  国土地理院で確認

能勢街道は全体的に 大坂を出て北へ 南北の街道です。
十三のJR貨物線の近くに 能勢街道の「東西の道」が存在したか!
明治18年の地図 「大阪」の北西 一番端にありました。
 「能勢街道 東西の道」 細くなり、そして、再度北上します。
 間違いないな! 
 写真は取れないので 地図が来てからになります。
 新高公園の道標の旧在所が分りました。

実を言うと 今日 国土地理院へ行く羽目になったのは
この調査の為にだけではありません。 
昨日朝メールで 「明治18年の地図」の件で問い合わせ!
またもや 「早い 国土地理院の対応」 

 家に帰ると 「国土地理院から電話!」
 「明日、国土地理院に来てください。」
いやはや ビックリ 「メールの問い合わせなのに」メールでの返事と思っていました。
今日は 午後、家の用事があり、 代休を取っていましたので、
午前中に出かけました。 

用件は地図を注文しようと「明治18年の地図番号」の確認です、
  下記の番号の訂正をお願いしました。  この表があれば、遠くの人も郵便で申し込めます。  
これです、
 「自分で確認してください。」ですが、
ところが、電話の主がすでに、調べられていました。「わーすごい!」
 自分が頼んでおきながら「ありがとうございます。」
一枚500円 7枚まで送料が同じ 「どれにしようか」 ということでした。
上記の表は 数箇所訂正があります。
 これがあれば 遠くの人は 注文できますね!

 下の写真から 国土地理院の資料 1/2万地形図(仮製)一覧図 読み取りました。
 大阪湾から 憶測してください。
 赤い線の内側の地図が 大阪で見れます。

2011年7月27日水曜日

新しい事実  道標表示について 再掲

 一番南にある道標
 新高公園の道標は「勝尾寺」の表示が能勢街道でです。
   表示が同方向を示し道標として、それに回り道をする道標として
   疑問 から始まった 新高公園の道標 
   この道標は 
その1. 一般的に能勢街道は南北の道 
それで、一番多きな問題点は 能勢街道が「東西」に通っている場所が問題である。
     この点では、まだ確証が得られていない。  2011/07/28確認
その2. 「東すぐ 三国 ■■ み乃勝尾寺 乃セ」
     「南 卍 ← かんざき 伊丹 中山」    とあるので、 
 三国、み乃、勝尾寺へは神崎川の堤防まで行って、堤防を引き返す。ということだか、
 道、街道については、近道をするのが原則には当てはまらない。  疑問の1

その3. 「西面 すぐ 十三十六丁 本庄二十丁」   移築された物
 1里など「距離の換算」は時代とともに変わるが、1丁≒109.09 m で計測した。同じ時期のでそれは、問題ない。
 今回、「十三の渡し」からと、移動されているが「本庄の渡し道標」から。それそぞれの距離を測定しました。「新高公園の道標」の旧在所を測定する。そこからわかった、この道標の旧在所は
 「JR貨物線・新幹線の北側」にあった。ことが分かった。
 
その4. 同じ方向を表す道標について
 東面は「すぐ」と南面は ☜ (左を指し)で行き先は全然違うが 同じ方向を示している。
 同様な道標が神津神社の道標C寛永2年(小島北口道標) と同じ表示になります。
 
 それは
   「右ハ小島村宮稲荷社、すぐハ十三、左りハ本庄道」(寛政2)
   この道標は三叉路に立っていて、「右ハ」と「すぐ」は同じ方向にを指す。
   次のように解釈する。
    「まっすぐ進むと十三の渡し 途中で右に小島村宮稲荷社があるよ!」
   というのであれば、理解できる。同様に新高公園の道標に当てはめると
   「能勢街道をまっすぐ、西進しなさい、途中で左に曲がるとかんざき、中山、伊丹ですよ」
   大きな道が存在したと思う。地図で存在します。
   そのまま進むと「野中村」があり、そこで左に折れる道がある。
   野中村で 左に折れると 
  野中村 → 堀上村 → 三津屋村の南側で、中国道に合流することができる。   
   ☜ かんざき、中山、伊丹 に合致する。
  資料はありませんが、道標から、また、明治の地図から憶測で 上記の結果となります。
  

今回の考察 
 「道標で行き先の違う場所を同じ方向を示している場合は 「すぐ」を主に考え、まっすぐ進みなさい・同じ方向に進んで途中でまがりなさいよ。」ということだ。
 また、左に曲がる場合は、南面に  右に曲がる場合は 北面に 記載すると どちらでも通用する。
 基本的には 辻辻にある道標が、この道を進むと分岐があるよと今後の案内を前もって知らせるというのも面白い。

 新高公園の道標で 道標の現在南側に書かれているのを北側に移すと☞」かんざき、中山、伊丹にはならない。 矢印は「右」蒲田 であれば成立する。まっすぐ進んで
 途中で右に折れる道を進むと、「蒲田」に行くことになる。 
   これで、「新高公園の道標」も「神津神社の道標C」の表示が理解できる。
 能勢街道が十三から、三国までの間で一時「東西」になっている場所あったら、
 新高公園の道標の旧在所を特定することが出来る。

 また、新しいことを発見しました。 何所かにこのような資料があったかな!