2009年12月10日木曜日

地蔵

地蔵   フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、

六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされる。

功徳利益 [編集]
地蔵菩薩本願功徳経には、二十八種利益と七種利益が説かれている。
右手に如意宝珠 (にょいほうじゅ)、左に錫杖(しゃくじょう)

日本における地蔵信仰   
日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。

賽の河原で獄卒に責められる子供を地蔵菩薩が守るという民間信仰もあり、子供や水子の供養でも地蔵信仰を集めた。関西では地蔵盆は子供の祭りとして扱われる。

また道祖神と習合したため、日本全国の路傍で石像が数多く祀られた。町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。
人々の罪業を滅し成仏させるとか、苦悩する人々の身代わりになって救済するという説話が多い。

子供の守護・救済
幼い子供が親より先に世を去ると、親を悲しませ親孝行の功徳も積んでいないことから、三途の川を渡れず賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされ、賽の河原に率先して足を運んでは鬼から子供達を守ってやり、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていく逸話は有名である。

※六地蔵
※各辻には道標がある。護身用ともとらえるが、子どもの霊を守護することと、戦国時代の戦死した者を親が弔うための物も多くある。 死者を弔うのに卒塔婆の物もある。

2009年12月9日水曜日

石物の溝 考察

石物の溝 考察  「じろう」  受難  キネの重心 (大阪読売新聞 「野の仏」より)

米つき器のの心棒を「じろう」という。
吹田市佐井寺・山田寺には 頭に溝のある地蔵がある。

「野の仏」(阿弥陀さん)は、年号もなく、名前もない、水子供養に立てた物という説もある。
交通が発達し、庶民の往来が頻繁になると、旅の途中で行き倒れにあうこともある。
  その時期は何時代かたぶん江戸時代ではなかろうか!
  そこで考えるのは、前者の説が有望である。
    
さて、このように先祖、阿弥陀さんを無視した例が過去にある。
伏見城の階段には先祖の墓石が使用されている。
この時代から、野の仏像が「一つの石」とされ、石の少ない千里丘陵地帯では再利用として「キネの重心」(唐臼)に利用された物です。そのような例は隣の箕面市、北河内の交野市でも見つかっている。太子町角屋前
  そこで、「溝のある石仏」は時代的に江戸以前の物と特定できる。
 古い物です。


 地蔵か阿弥陀仏か

2009年12月8日火曜日

各市町村の対応 おかしな日本 これが当たり前

このことは会社でも同じ
ある20年前のそれぞれの市町村(ABCD)で「展示」「寄贈」した資料を各市町村に問い合わせしました。大変古いことですのでどうなるかと思っています。寄贈されたものがその後どのような対応をされているのか試される場面です。それは地方自治体の対応・体質によります。

ある市Aでは「うちにあります。」 けど・・・ 今だ見せていただけない。
ある市Bでは「保護課では預かっていません。」・・・・・それで終わり。連絡先の電話番号も聞いてもらえず、調べる気なし。
ある市Cでは「原本を預かっています。製本として出していますのでご覧下さい。」
ある市(D市)「うちにあります。どうぞご覧下さい。」
寄贈されたものをどのように対応しているか!
その市に「生き字引」がいないのか!
私は他市居住しています。その問い合わせにたいしての対応も問題です。
これらの各市の対応どう思いますか!

ある市(D市)の話 これを言いたいのです。
 D市で展示し、展示後その資料を展示された施設に寄贈されました。 その市の保護課に問い合わせしましたが、「知りません。寄贈した先に問い合わせ下さい。」とのこと、NPOに同様な質問しましたが、同じでした。また、別な組織に同様な質問「私は当時のことはわかりません。連絡先をお教え下さい。」 その後、すぐ別な人DDが電話がありました。「その展示知っています。ある施設で展示され、そこに寄贈されている。担当は〇〇さんです。」お礼を言い、早速連絡を取りました。生憎来客中で30分ほど後に電話を入れますと「確かにここで展示してもらいました。原本は本館で預かっています。先ほど、BBさんから連絡い頂きました。」 D市の職員の対応が良かった。DDさんはDの施設に確認しています。そして、対応を打診していました。展示されたいたこと。そのことを知っている。そのような人が必要です。
 寄贈してもその市の対応でこんなにも違います。

新聞で報道されました。ある市保護課では「発掘した物はごみとして処分した。」と大きく報道されました。そのような職員は辞めさせろ。 自分の職責をわかっていない。
 このような大なり小なり多いことは 日本全体が自分の会社、自分の職責、自分の家族に無責任な世の中を作っています。 技術者を大事にしない。年寄りを大事にしない。そんな世の中です。
 ですが、自民党に変わり民主党が政権を取りました、少しずつ変化するでしょう。私は期待します。 変な世の中を変えることを  自分の職責をマットーすることを

豊中 柴原道と箕面街道

豊中の北部
地図 「桜井谷六カ村御小物成場図」明和三年八月(1766)


 「桜井谷六カ村御小物成場図」より
      道をひろう


      内田村から大阪に向かう箕面街道は「大阪道」と書かれている。
  また、春日南道標で右手にとる道は「勝尾寺道」と書かれている。
この地図から街道を探すと 基準となるのは、千里川と池です。
大きく違った点は
  新免からの箕面道は(括弧内は明治19年の地図との比較)
①能勢街道で千里川を渡り、しばらくして右にとり、赤坂池の東側を通る。
 (「しばらく」でなくすぐに右に折れる、そのまま進むと、道の左に祠のある千里園3丁目公園を通り、豊中十三中学校の東側を通るルートが存在し、柴原公園内の道標がそこにある。右柴原道、左刀根山道となる。北進し、左側に祠があり、赤坂池の東側を通る。 )
②箕面街道は内田に入る前に箕面と柴原の北側を通り、箕面市に抜ける道がある。(右に取るとほとんど北進し、野畑で千里川を渡る。橋は高橋その後、柴原から来た道と合流する。少し行ったところで右勝尾寺、左みのお(牧落)に別れる。そのまま北進すると法師谷池にあいそのまま峠を下ると、牧落である。)
③新免から箕面街道との合流点は、野畑の北側で合流する。
④法師谷池手前で箕面と勝尾寺と別れる。(勝尾寺道はその後、通信隊の北側を抜け、西国街道に出会い、東進して新家で旧表参道で参拝する。豊中の道標でみのお・かつおじと併記されたのは箕面の滝から勝尾寺でなく、ここで分岐する。)

柴原公園の道標 

 二ッ毛池の南側を渡り、刀根山を登り、能勢街道と合流する。
その後能勢街道は 金坂池の南側を通り、石橋に向かう。


 

2009年12月7日月曜日

豊中の歴史街道

「豊中の歴史街道・見つかった道標について」

報告会終わりました。

 少しでも、道標に関心を持った人が多くなりますように!

豊中市での問題点

1.歴史街道の案内板がない。

2.能勢街道の西側には道標が出ていない。

3.他市に多くある寛文年間の道標がない。 
見つかった道標
歴史の残る「上新田」
  出口道標全て揃う!

ところが