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2013年8月20日火曜日

中島大水道・新太郎松樋 樋門を探しに 話の中から 吹田の樋門 

「津門の中道」 は吹田の何処を通る。の話の中から

吹田に水路がたくさんあった。その樋門は

以前に撮ってある 写真
「中島大水道」 西淡路5 新幹線高架下  「新太郎松樋」が有名
中島大水道
「新太郎松樋」 大正10年 

左が新幹線の高架

「吹田の水路と樋門」  こちら
1度見たことがありますが、定かでありません! 今日は2人で探検
記憶には「左に池があり、右に公民館があり、その前に樋が残してあった。」
ありましたありました。この池です。「牛池」です。右には・・・・   
「原会館」でした。 中では囲碁を楽しむ人が7名ほどいました。  

「ゴショ」 「原の文化財」
竜ケ池には 4つの樋門水路があった。これはソコ樋のゴショ

現在の樋門
上にも池がありました。「新からま池」

原水利組合

**********************  樋門とは
水門の一つ、この池の推移の調整・農業用用水の取水用の調整
上の長い石は、堤防・堤のトンネルである。
池の水を抜くのには?  何か言っていたな!

2013年5月20日月曜日

ここは、東淀川区役所 中島大水道 本庄小橋、増島橋、三義人

調査 2012/02/24
今日は東淀川区役所へ 下の模型を見に 2012/02/25

「中島大水道」 淡路の増島村  赤いとことが現東淀川区役所
水が北西に延び、左に折れているところが「新太郎松樋」
 
増島から淡路への水路に架かる橋が「本庄小橋」
和合橋(わがふ)  増島橋の親柱  




十三あたり、川口新家村、木寺村、小島村、堀村、野中村
明治18年の地図では 小島村の近くで、「中島大水道」を東西に横切るが
これで見ると 能勢街道が「中島大水道」を東西に横切ることはない。 
 
中島大水道は東は増島村(現淡路)、西は申新田(此花区伝法)9.5キロ
 延宝六年1678年

西成郡絵図   一柳太郎氏所蔵  
沢田 久左衛門、西村久右衛門、一柳太郎衛 の三義士
   

 
千里南公園 2012/02/24

2013年3月24日日曜日

最初の忘れられた橋 新庄小橋 中島大水道と能勢街道 

阪急淡路駅東にある「新庄小橋」
下は通路になっています。
大坂は水の都、また 八百八橋といわれ 東洋のベネチアか
生命の誕生は「水」と「酸素」と言われるが その時代は古代
現代の工業国となった日本では「水」は災害をもたらすものとなった。
だが 近世では農業の盛んな時代は重要視された水がある。
色んな伝承で「水」に関する事例もある。
さて、現在は生命維持の水はダム、河川工事、水道工事により川そのもの
池を含め 檻の中になっている。
この橋は 昔、水が流れていたが、現在はその形跡はない。
橋の建築は コンクリートであるのでそんなに古くない。
明治 18年の地図を見ると 「中島大水道」になります。

南東は淀川である。
右側の北上している道は 亀岡街道です。
南西方向に延びているのは 国鉄 現在の阪急京都線 
 その線路を挟んで 池が見える。
右側の池のそばに橋があった。
「和合橋」 欄干 昭和二年十二月架橋
「増島橋」 欄干    両方 こちら
それより 右は 淀川からの水の取り入れ口 
「三千樋」 これが「中島大水道」これが源流

中島大水道碑がある東淀川区淡路四丁目 は 左側の池のあたりで
この中島水道はこの後 現在の東海道新幹線となる。
この中島大水道にも幾つもの話が残っている。「さいの木神社」。

黄色が亀岡街道
赤色が旧国鉄 現 阪急千里線
水色が 「中島大水道」
地図で川・中島水道と鉄道が交差している地点が阪急淡路駅にある「新庄小橋」にあたる。
追加 上の地図右側の続きの地図はこちら

「中島大水道」にはもう一つ関係している道標がある。
「十三新高公園の道標」です。  表示は
東面 「東 すぐ 三国 ■■ み乃勝尾寺 乃セ」
 南面 「南 卍 ← かんざき 伊丹 中山 」 
西面 「 西すぐ 十三十六丁 本庄二十丁」
北面には記載はない。
と表示されている。  この道標の面白いのは 東西南の方位の表示があること。
さらに 十三、本庄の距離が記されている。
 

上の地図の上部左端  能勢街道 が 中島大水道を渡る橋がある。
能勢街道の唯一東西にある道で分岐するところである。

「中島大水道」 新太郎松樋  2013年8月20日火曜日


新高公園の道標  2012年4月15日日曜日
 
一挙に 三千橋個!  2011年12月12日月曜日
東淀川区の探索 2―Ⅲ  2012年1月5日木曜日
新高公園の道標    2011年7月19日火曜日
続きの地図 はこちら
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2012年11月12日月曜日

忘れられた橋  以前に調査 「木川栄橋」、中島大水道

「木川栄橋」の親柱  調査 2012/01/25

大阪市交通局バス停 「木川栄橋」が残っている。
浦上米穀店の電柱に
ここの先代が道路にほってあったのも家に持ち帰った。
後日 セメントで固定した。
撮影者の方向が 木川、十三方面になる。
左が 木川小学校前の 「高槻街道第1踏切」

さて、栄橋は???  一つの点
中島大水道  もう一つの点
能勢街道との関係   さらに点

どうゆう関係でしょうか!
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「忘れられた橋」 25橋 2013/02/03
高槻街道第一踏切から 木川町 能勢街道  2012/01/27
調べるきっかけ そして、中之島大水道調査へ 新庄小橋 
街道に関係ある橋  絹延橋

昔の地名、なぜこんな名前が 調べるきっかけ になった「踏切」 「瓦斯踏切」  
その他の踏切 
 
 

2012年8月29日水曜日

忘れられた橋  新庄小橋  中島大水道跡

水の流れない川 として最初にとらえたのがこの写真 
それ以来 歩いて気づいたら写真を
これで、この写真の川の流れない橋、「新庄小橋」という点と
「中島大水道」という線が結びつけることができました。
三千樋から増島橋、和合橋から 淡路を通り十三、・・・・
「中之島大水道」
 
新庄小橋は 中島大水道の跡であることがわかりました。
「小橋」ですから 別に「新庄橋」があったものと思えます。
この道を線路沿いに東に進むと中央分離帯がある大きな通りに出ます。
それが 中島大水道跡だと考えられます。 
車線の部分追加  2013/10/30  
東淀川区史より  加賀文庫にて


                    2015年10月3日土曜日
 和合橋  




2011年12月30日金曜日

東淀川区

三宝寺西公園 東淀川区大桐2-10
大阪経済大学
碑番 名称 所在地 建立の年度 史跡の時代
24 江口の里 南江口3-13 寂光寺前 昭和36 平安
49 摂津県・豊崎県県庁所在地跡 東中島5-27 崇禅寺前 昭和39 明治
65 中島大水道跡 西淡路5 新幹線高架下 昭和43 江戸
105 平田の渡し跡 豊里3 豊里大橋北詰西側淀川堤防上 昭和55 江戸
132 乳牛牧跡 大桐5 平成3 平安
135 摂津国分尼寺跡 柴島2 法華寺前 平成5 奈良
167 柴島晒ゆかりの地 柴島2 平成15 江戸 江口橋 別府神社 東淀川区 稲生神社  東淀川区大桐3丁目14-55 出たところに道標 1185年の源平屋島の合戦で敗れた平家の武者達は、各地に四散し、源氏の目の届かぬ地方でひっそりと暮らしていました。三宝寺一帯にも多くの落武者が潜入し、農民となり森林を伐採し田畑を開拓して耕作を始めましたが、老松や古杉を切った崇りからか、不審火の発生や疫病が蔓延するなどの異変が生じました。これらを鎮めるため、1561年に現在の大桐3丁目に紅梅稲荷と呼ばれた稲生神社が創建され、大和郡山の源九郎稲荷と並んで近畿の二大稲荷とまでいわれ、多くの信仰を集めました。 しかし、1909年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮が広がり、大隅神社に合祀されていったんなくなりましたが、三宝寺町会の人々によって、1962年に大桐3丁目の現在の位置に遷宮され、三宝寺会館に併設されました。現在、町並みに溶け込み、昔と変わらず人々に大切にされています。 毎年7月23日には、夏祭りが開催され、御神輿(おみこし)やだんじりなどで賑わっています。 .
中島大水道跡(なかじまだいすいどうあと  地図・模型が東淀川区役所にある。江戸時代、北中島一帯は一万数千石の米を生産する農村でした。しかし、低湿地で土砂堆積による洪水がひどく、河川の氾濫は淀川治水工事によって防ぐことができましたが、田畑にあふれた雨水などは排除できず、村民は幕府に排水路の設置を何度も訴えました。 しかし許可はおりず、延宝元年(1673年)、たまりかねた一柳太郎兵衛、西尾六右衛門、沢田久左衛門の三庄屋が先頭に立って、排水路を設けてほしいと幕府に強く訴えました。延宝5年(1677年)、ようやく幕府は「工事に関する費用は、すべて百姓が負担する」という条件をつけて、排水路の設置を許可します。しかし、延宝年間は悪水で不作に苦しんでいたため、「せめて多少の補助を」と嘆願すると、感情を害した幕府は許可を取り消してしまいました。ついに耐えられなくなった三庄屋は、延宝6年(1678年)3月11日、新太郎松樋を水路の拠点として、無許可のまま工事を強行しました。村民たちは老若男女を問わず工事に参加し、昼夜の別なく働いて、福村吐口樋までの5102間(約9200メートル)、深さ3尺(約90センチメートル)の水路を28日間で完成させました(約50日間で完成させたという説もあります)。 許可を得ず強行した三庄屋に幕府は怒り、工事の即時中断と出頭を命じますが、三庄屋は同年4月9日、西村の細目木(さいのき:現在の淀川区西中島7丁目)付近で、江戸の方角を向き、抗議の自決をしました。村民たちはこの悲壮な行為に感動し、幕府もこれを無視できず、2年間をかけて補助金も出し、中島大水道を完成させました。 現在の東淀川区から淀川区を抜け西淀川区に至り、大阪湾に直結した大水路は埋め立てられてしまいましたが、西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が建てられています。 .
三宝寺西公園東淀川区大桐2-10

2011年12月13日火曜日

東淀川区探索 Ⅳ 江口の堂 迷い迷い 追加 忘れ物を撮りに

追加  忘れ物を撮りに  2013/09/16 台風明け
 

「平田の渡し」碑 平田番所の渡し
豊里大橋の西側 
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江口の堂

 
ここでは ハトが逃げません。
 
川の跡  中島大水道跡 多くにはしがあったはず。
何個見つけられるか! 結果 三千橋でなく2橋でした。
三千樋 ここから 「中島大水道」
小学校前
 
これが遠くから見えましたので堤防へ。豊里大橋のたもと
+ 
帰宅して地図を見ると一つ忘れていました。 
道路の反対側にあった「平田の渡し」再度チャレンジになります。 
これから吹田に向かうのですが 途中からもう一件 あるので
えらい遠回りです。
 
大宮神社 聖徳太子社があります。
走っていて途中で「大阪経済大学」を見つけもう一軒見ることにしました。
そこで見つけたのがこれ
 
乳牛牧跡
 
「逆巻の地蔵尊」 
これは見事な座像地蔵様です。高い台座に鎮座されています。
大きさでは豊中の「しむか地蔵」も有名です。
大経大を目指します。
通りに 大学の食堂を見つけ 遅めの昼食

ランチ 390円 やすいな!
この値段は 320円
ここに 道標があるとか ありました。
地蔵さんです。
今日の探索はこれで終わり。 浜屋敷を目指します。

浜屋敷でのボランティアから帰る途中  
記載漏れがないように写真を記録しておきます。 
亀岡街道に沿って帰ります。 向こうに見えるのが
JR吹田駅前の「メロード吹田一番館」
祠があります。
左側の祠には 地蔵が祭ってありました、
もう一つの記録は 「五位橋」の上流の写真

まだ摂津市 長い道のりです。  2011年12月12日
東淀川区の探索 2―Ⅱ      2012年1月4日
東淀川区の探索 2―Ⅲ 後半 淡路まで  2012年1月5日
東淀川東部の探索 2―1いながきさんの地図   2012年1月3日
東淀川区探索 Ⅳ井口の堂 迷い迷い   2011年12月13日




2011年9月15日木曜日

大阪の旧街道と坂道


内容は写真があり、わりと分かりやすいが、地図の拡大が少し大きい。
記載街道
 
記載の街道地図
 
この地図では 私が望む能勢街道「東西の道」はない!
困った 困った  明治18年の地図にはあるのに!


2011/09/19 追加
問題の解決方法
中島大水道 の歴史
延宝6年(1678)に 中島より 伝法・申新田 9.5キロメートルを作る。
その水路は 淀川改修明治32年までの 220余年使われていた。
水路の一部は「落ち葉川」として親しまれていた。
その古地図がある。 
東淀川区役所  模型もあるらしい。
早速行ってみましょう。

追加 2011/09/24
中島大水道跡
西淡路5丁目の新幹線の高架のそばに「新太郎松樋」の石柱と「中島大水道顕彰碑」が建てられています。途中、奉行所から工事中止を言い渡されましたが最後までやり抜

きました。工事の途中、三人の庄屋さんはその責任をとって、役人に捕らえられる前に切腹したそうです。白装束で、将軍のいる江戸の空を睨みつけながら。
切腹の場所は、西中島七丁目にある「さいの木神社」。
今でも四月九日に慰霊祭が行われています。



よく調べてあります
他のブログ 中島大水道跡  東淀川区役所の地図、模型も載っています。
 このサイト  







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