2015年9月11日金曜日

中津川4

木川村は能勢街道の要所として発展したところです。能勢街道とは中津を起点とし中津川の新橋渡し(後に新橋が架橋)を渡り、三国、庄内を越え、池田や能勢方面へ続いていきます。木川村はその昔、木寺村と川口新家村の2つの村があり、明治16年に合併する際2村の名の1つずつをとって木川村としたといいます。

木川の堤防周辺を歩くと、明らかに平坦ではなく隆起している場所があります。今まで見てきた中で一番変化がある所です。古地図と照らし合わすと中津川が「への字」に湾曲していた辺りになります。湾曲した部分だけに、流れの圧力が掛かる部分で、川の決壊を防ぐため堤防をより高く強固なものにしていた可能性があります。

中津木川00
現在の地図と明治18年の地図を重ねています。中津川が「への字」になって、現在の堤防から飛び出している辺りが隆起している地域です。この地図を見ると淀川改修工事でいかに多くの村が消えていったかがわかりますね。中津町の村々です。(現在の地図はGoogleマップより)

中津木川01
現在の地図です。1は木川墓地。2、3、4は地蔵尊。5は隆起が分かる場所です。善久寺と正通院も昔から場所が変わっていないので、後の地図の場所を合わせる参考にしてください。(Googleマップより)

中津木川02
明治42年の地図です。1の墓地は田んぼの真ん中でした。3の地蔵尊は街道沿いにありました。2と4の地蔵尊は木川村の中です。鳥居が3つあります。街道の右側の木川村にあるのは産土神社と天満神社と思われます。墓地の下にあるのは、おそらく小島村の猿田彦神社だと思われます。3つとも明治の末に神津神社に合祀されなくなります。塚本地区でも新淀川に渡しが出来ましたが、木川地区も不便になったので渡しが復活していたようですね。

中津木川03
明治18年の地図。5の辺りをみると、川から堤防を越え民家までの距離が極端に短いのがわかります。他はそれぞれの距離がもう少しあります。なぜでしょうか?おそらく中津川の水面と堤防の高さには、かなりの高低差があったのではないかと考えました。だから、川からこんなに近い場所なのに家を建てれたのだと思います。そうでなければ安心して住めないですよね。

隆起001
現在の5の場所です。右の道と左の道にだんだん高低差ができていきます。おそらくここが中津川の堤防だったのだと思われます。撮影した位置は地図上の5の下の辺りから北東の方向を見ています。

隆起003
左の道を少し進んだ所。緑地帯がありました。右側に工事中の家が数件ありましたが、右側の道路沿いに玄関があるとすると、この道の出入り口は地下になります。

隆起004
高低差が少し分かると思いますが、この土自体がかなり盛ってあります。

隆起002
高低差が分かりやすい壁がありました。壁の上が先ほどの右の道の高さです。2メートルぐらいはあるでしょうか。かなり古い石垣ですね。もしかして、中津川の堤防跡だったりして…

木川墓地
木川墓地です。昔は田んぼの真ん中にあったのですが、今は敷地も狭くなって、交通量の多い淀川通り沿いにあります。ここには戦国武将島左近の供養墓とその孫で中津川の治水に人力を尽くした島道悦の墓碑があり結構有名な墓地です。

2地蔵
2の地蔵尊です。民家の横の歩道の真ん中にあります。向こうに堤防が見えます。昔からここにあったとすると木川村の中にありました。

3地蔵
能勢街道沿いの地蔵尊。昔はこの前を多くの人々が行き来してさぞ賑わっていたのでしょう。今は人通りがほとんどありません。

4地蔵
4の木寺子安地蔵尊。古くから木寺村にあった地蔵尊のようです。淀川改修工事により今の場所に移されたました。このお地蔵さんの後ろ一帯の宅地開発が始まりました。木川の町もどんどん変わっていくのですね。


(追記)
新橋
明治32年撮影。淀川改修工事前の中津川に架かる新橋と十三渡御用帳(中津町史より)
新橋の写真を見つけましたので追記します。北岸からの撮影とあるので手前が木川です。意外と川幅が狭いと思われませんか?実はこの写真、私は対岸が木川だと思っています。明治18年の地図を見ると、橋のたもとに建物が記されています。写真にも同じ場所に建物があります。皆さんはどう思われますか。

0 件のコメント: