東日本大震災 台湾からの200億円を超す援助があった。
第2次世界大戦時には、東南アジアの諸国を植民地からの独立を目指して、戦争をしたことも言われている。
台湾は日清戦争で日本が割譲を受けた。
それまで、植民地だった台湾を開放する。
台湾協会が発足した。会頭に第2代台湾総督だった桂太郎
台湾での起業を後押しする方針をかかげ、台湾の産物の収集、陳列などに力を入れた。またそのための人材育成を目指し33年、台湾協会学校を設立、桂が初代校長となった。後の拓殖大学である。
新渡戸を児玉台湾総督が推挙し、
半ば強引に彼を台湾総督府技師として迎え入れた。
技師と言う役職は、官になるのを嫌がった新渡戸の希望だとも言われている。
それが明治3年、彼が39歳の時の事である。
台湾へ渡った新渡戸は、半年かけて全島を巡り、
殖産興業の要は製糖業にあると確信した。
調査の後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、
欧米諸国及び,その他の植民地の製糖設備を調査して歩いた。
帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、
欧米諸国及び,その他の植民地の製糖設備を調査して歩いた。
帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、
殖産局長心得を学んで帰ってきた。
製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、
栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」
製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、
栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」
を児玉総督と後藤新平に提出した。
台湾糖業の発展は新渡戸の改善策により、
品種改良開始から11年目には砂糖生産量が6倍になったと言うから、
品種改良開始から11年目には砂糖生産量が6倍になったと言うから、
彼の貢献度が相当なものだった事が判る。「台湾糖業の父」
その後の技術向上により、日本領台前には年間5万トンだったが、
その後の技術向上により、日本領台前には年間5万トンだったが、
昭和11年から翌年の最盛期には、年産100万トンを越えた。
五千円札の肖像ともなった。
五千円札の肖像ともなった。
黄文雄氏著 「台湾は日本人がつくった」より
台湾では初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市などの各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。八田は28歳で当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたが、これを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾はまさにこういったインフラ建設のまっただなかで、水利技術者にはおおいに腕のふるいがいのある舞台であった。31歳のとき、故郷金沢の開業医で後に県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。
1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。
2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダムに譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も八田によるものであった。また、八田の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。
1939年、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また対岸の福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーの雷撃に遭い撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。沒後贈正四位勲三等が贈られた。
日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。また、現在烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の1931年(昭和6年)に作られたものである。住民々意と周囲意見で出来上がったユニークな像は、固辞していた八田本人の意向を汲み一般的な威圧姿勢の立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置された。その後国家総動員法に基づく金属類回収令の施行時や、中華民国の蒋介石時代に日本の残した建築物や顕彰碑の破壊がなされた際も、地元の有志によって守り隠され続け、1981年(昭和56年)1月1日に再びダムを見下ろす元の場所に設置された。今は台座上に修まる銅像の経過や、八田が顕彰される背景、業績もさることながら、土木作業員の労働環境を適切なものにするため尽力したこと、危険な現場にも進んで足を踏み入れたこと、事故の慰霊事業では日本人も台湾人も分け隔てなく行ったことなど、八田の人柄によるところも大きく、エピソードも多く残されている。
中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢も訪問した。2007年5月21日に陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。また馬英九次期総統(当時)も、2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った[1]。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の森喜朗元首相が参加した[2]。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された[3][4]。宿舎は一般公開されている。
顕彰事業は妻の外代樹にも拡大され、2013年9月1日、八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立された。
八田の業績と嘉南の人たちとのふれあいを取材したテレビ・ドキュメンタリー「テレメンタリー96 たった一つの銅像 〜衷心感謝八田與一先生〜」が 1996年(平成8年)6月30日にテレビ朝日系列で放送された。2008年には、八田を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」が制作された。
文化財保護に尽力した日本人最後の台南市長 |
政策提言委員・拓殖大学海外事情研究所准教授 丹羽文生 |
鄭成功所縁の都市 多くの古寺廟や近代的建造物が併存する台南市は、「台湾の京都」と呼ばれている。何とも言えない風情と趣があり、随所に台湾400年の足跡が残されている。中でも至る所で目にするのが、17世紀半ばに台湾を支配していた鄭成功所縁の史跡である。 鄭成功と言えば、近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」の主人公のモデルで知られる。長崎県で中国人と日本人のハーフとして生まれ、7歳の時に父親の鄭芝竜の故国である中国に行き、その後、文武の道を究め、軍人となる。 「反清復明」をスローガンに、当時、滅亡の淵にあった明朝の再建に向けて孤軍奮闘し、清朝に徹底抗戦を挑みながらも大敗を喫し、勢力立て直しのために台湾に向かった鄭成功は、1661年4月、この地を占拠していたオランダを駆逐し、鄭氏政権を樹立して、今の台南市を「大陸反攻」の本拠地とした。39年という短い生涯だったが、台湾では、孫文、蔣介石と並んで「国神」として崇められており、中国でも英雄扱いされている。 台南市には、そんな鄭成功の歴史的遺産が数多く残っているが、中でも観光客に人気なのが、オランダ人によって築城された赤煉瓦造りの楼閣「赤嵌楼」である。「紅毛楼」とも呼ばれ、原名は「プロヴィンティア」、鄭氏政権の時に「東都承天府」に変り、その当時、行政庁舎として使われた。国家1級古蹟に指定されており、台南市のシンボルとなっている。 その赤嵌楼の中に1人の日本人の胸像が置かれている。日本統治時代末期に台南市長を務めた羽鳥又男である。これは奇美実業のオーナーである許文龍の作品で、羽鳥の生誕100年を記念して2002年4月に寄贈されたものである。 |
- 日本
- 旧久邇宮邸(現 聖心女子大学パレス、1924年、東京都渋谷区、登録有形文化財)
- 本所公会堂(現 両国公会堂、1926年、東京都墨田区)
- 新宿御苑 台湾閣(1927年、東京都新宿区、都選定歴史建造物)
- 旧蜂須賀邸(オーストラリア大使館、1927年、東京都港区、現存しない)
- 片倉館会館・浴場・渡廊下(1928年、長野県諏訪市、国の重要文化財)
- 東京歯科医学専門学校(東京歯科大学水道橋校舎、1929年、東京都千代田区、現存しない)
- 東京弁護士会館(1932年、東京都千代田区、現存しない)
後藤 新平 阿片漸禁策
社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。
1907(明治40)より1916(大正5)年と、1924(大正13)より1932(昭和7)年の2期に渡って台湾で美術教育に携わり、同地の近代洋画の祖としても仰がれている。
0 件のコメント:
コメントを投稿