大阪 星岡茶寮 開設の弁 昭和10年5月発行
(附 東京星岡茶寮会員名簿・昭和10年5月現在)
※『大阪 星岡茶寮 開設の弁』に掲載されている写真は、すべて『先考十三回忌記念』(昭和8年・志方勢七編纂)に所収の「大阪衆楽園」時代の写真を流用したものです。資料作成に当たり、ケンショク「食」資料室蔵『先考十三回忌記念』を参考にしました。関係各位に心より御礼申し上げます。
曽根(そね)は、大阪府豊中市中部に位置する地区。住居表示町名は曽根東町(そねひがしのちょう)・曽根西町(そねにしまち)・曽根南町(そねみなみまち)に分かれる。「曽根」といえば、一般的には上記の町域を指すが、ここでは1970年(昭和45年)まで豊中市大字曽根に含まれていた地域についても述べる。
江戸時代には豊島郡曽根村と称した。鎮守は原田神社(現在の岡町地区)。明治2年(1869年)から翌々年までの一時期、兵庫県に属した。明治22年(1899年)の市町村制施行により豊島郡中豊島村となる。昭和22年(1947年)に豊中市に編入され、大字曽根となった。昭和27年(1952年)の地名変更により「曽根東1~2丁目」が成立し、以後数次の地名変更を経て現在に至る。原田城は市の史跡になっている。
元中豊島小学校 校長 高市光男氏が史跡について説明され、まず初めは、
曽根駅から現ダイエー南側の駐車場に参りました。
漫画美味しんぼにも登場する、明治~昭和30年代まで芸術家・料理家として名を馳せた「北大路魯山人」が深く関わり、昭和10年料亭「大阪星岡茶寮」を完成させ、当時の政財界にとても人気があったそうです。
第二次世界大戦末期の昭和20年、空襲により焼失し、戦後再建されることはなかったそうです。現在は、ダイエーや駐車場になっておりますが、外壁や石垣が残っているそうです。
写真は、その「大阪星岡茶寮」の石垣だと言われています。
一行は、高市先生からさらに詳しいお話を拝聴する為、市民会館横の冷房の効いた中央公民館の講義室!?へ移動します。
ちょっと文章が長くなったので、高市先生からのご説明は後日アップ致します。
(附 東京星岡茶寮会員名簿・昭和10年5月現在)
※『大阪 星岡茶寮 開設の弁』に掲載されている写真は、すべて『先考十三回忌記念』(昭和8年・志方勢七編纂)に所収の「大阪衆楽園」時代の写真を流用したものです。資料作成に当たり、ケンショク「食」資料室蔵『先考十三回忌記念』を参考にしました。関係各位に心より御礼申し上げます。
曽根(そね)は、大阪府豊中市中部に位置する地区。住居表示町名は曽根東町(そねひがしのちょう)・曽根西町(そねにしまち)・曽根南町(そねみなみまち)に分かれる。「曽根」といえば、一般的には上記の町域を指すが、ここでは1970年(昭和45年)まで豊中市大字曽根に含まれていた地域についても述べる。
江戸時代には豊島郡曽根村と称した。鎮守は原田神社(現在の岡町地区)。明治2年(1869年)から翌々年までの一時期、兵庫県に属した。明治22年(1899年)の市町村制施行により豊島郡中豊島村となる。昭和22年(1947年)に豊中市に編入され、大字曽根となった。昭和27年(1952年)の地名変更により「曽根東1~2丁目」が成立し、以後数次の地名変更を経て現在に至る。原田城は市の史跡になっている。
其の他 星岡茶寮 写真 有料 4枚 庭と土橋、庭より本屋、正門 同じく頼山陽(らいさんよう)
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/27/filter_id/2100/sort/2d/page/16
http://www.pocketbooks-japan.com/index.php/manufacturers_id/27/filter_id/2100/sort/2d/page/16
昭和10年(1935年)には駅の東側に、北大路魯山人が深く関わった料亭「大阪星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」が完成している。旧日本軍の幹部が集まり、阪神間の財界人の評判を呼んだ大阪星岡茶寮だったが、終戦の年の昭和20年(1945年)に空襲で焼けてしまい、その後しばらくは廃墟と化していたという。 現在、跡地にはわずかながらも茶寮の外壁が残っている。
大阪星岡茶寮①
2007.02.26 Monday
20年ほど前に近くの古本屋で星岡茶寮刊「星岡」を15冊ほど買った。昭和13~5年の100号前後だった。あ~これがかの有名な魯山人の料亭の機関誌か、、、手に入れてから特別気にすることもなく最近になって大阪の星岡茶寮のことが気になりだした。社会人になりたての頃民芸のコレクターの方から阪急曽根にあった星岡に行ったことを来たことを思い出し、急にその後をしりたくなり出かけた。それは着いた阪急曽根駅前にあった。いく前から文献を調べたがてがかりなしだった。再開発で出来た駅前には痕跡もなかった。大阪星丘茶寮は10年の歳月を費やして桃山城残月の間を模した広間など大小30部屋、約600坪を完成させ、三方から水が流れ各地の名石を配置、丘陵には松、山桜、渓谷には楓、前には山椿、霧島ツツジ、萩、ススキなど四季の名花珍草を配し人工と自然の妙を純日本式庭園に築き、昭和の10年10月10日に開業した。駅前のショッピングセンターの裏から市民会館の周辺を探った。起伏の多い駅前から確かに市民会会館は池の後だったらしく周りからは建物高さが低く、この池を借景に建物はあった。どこかに手がかりがないかと、、やっとの事で市民会館の脇にこの池を改修した折りのお地蔵さんが、、、 ここに池あったんや!
工芸日々より(再UPブログ)
工芸日々より(再UPブログ)
大阪星ヶ岡茶寮の跡地 ―2010/05/16 15:00
1945年(昭和20年)の豊中空襲で灰燼に帰した大阪星ヶ岡茶寮の跡地付近を散策しました。空襲によって焼失するまで、北大路魯山人ゆかりの大阪星ヶ岡茶寮は阪急曽根駅の近くにありました。阪急曽根駅は拙ホームページに掲載したYKさんの「印象に残る駅」の一つです。
↑阪急宝塚線とボウル曽根のビル(画像の右端)です。
↑左側奥のダイエー曽根店と中央のボウル曽根のあたりが大阪星ヶ岡茶寮の建物があった場所だと思われます。
↑真偽は不明ですが、大阪星ヶ岡茶寮の外壁と伝えられている高い塀がダイエー曽根店の裏に残っています。右端のブロック塀は後で付け足したような感じです。
↑高い塀はダイエー曽根店の裏からボウル曽根の裏まで途切れずに続いていました。写真はボウル曽根側の終端です。
↑かつては大きな池だった芦田ヶ池です。豊中市立中央公民館の裏に少しだけ池が残っていました。大阪星ヶ岡茶寮と芦田ヶ池の関係は不明ですが、おそらく隣接していたのではないかと思われます。 <大阪星ヶ岡茶寮の跡地 おわり>
私は6/16(日)、豊中市立東豊台公民分館主催の史跡ハイキングに参加致しました。
私は、公民分館の史跡ハイキングに参加したのは、今回で2回目で、前回は旧桜井谷村を訪れました。尚、この史跡ハイキングは、今回で22回開催されています。
参加者は猛暑から2日経ったやはり暑い日で且つ公民分館と連携している自治会の催しがあったにも関わらず、29名で大変多く、史跡ハイキングは人気の催しです(^_^)v
元中豊島小学校 校長 高市光男氏が史跡について説明され、まず初めは、
曽根駅から現ダイエー南側の駐車場に参りました。
漫画美味しんぼにも登場する、明治~昭和30年代まで芸術家・料理家として名を馳せた「北大路魯山人」が深く関わり、昭和10年料亭「大阪星岡茶寮」を完成させ、当時の政財界にとても人気があったそうです。
第二次世界大戦末期の昭和20年、空襲により焼失し、戦後再建されることはなかったそうです。現在は、ダイエーや駐車場になっておりますが、外壁や石垣が残っているそうです。
写真は、その「大阪星岡茶寮」の石垣だと言われています。
一行は、高市先生からさらに詳しいお話を拝聴する為、市民会館横の冷房の効いた中央公民館の講義室!?へ移動します。
ちょっと文章が長くなったので、高市先生からのご説明は後日アップ致します。
乞うご期待!
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