5月 全校朝礼 2012.5.9(水)
おはようございます。
ゴールデンウイークも終わり、どうですか皆さん、新しいクラスになじめていますか?
特に1年生の人、本格的にクラブもはじまりました。がんばれていますか?
1年生は今週、早朝読書をしていますね。
8時30分、チャイムも鳴らないのに静かに全員が座って本を読んでいる姿は素晴らしいで
す。一日たった10分ですが、一日のはじまりのこの時間には様々な効果があるはずです。
もうひとつ良いところは、先生がいないのに時間がきたら自分たちで本を読み始めていると
ころです。
図書委員の人たち、よくやっていますね。あした、あさってもこの調子で続けて下さい。
さて、きょうは皆さんが住むこの街の歴史についてお話したいと思います。
みなさん、上新田にある天神社を知っていますか?この地域の氏神様として、お正月に訪れ
る人も多いかと思います。毎日この横を通って通学している人もいるでしょう。
私はこの5月5日にこの天神社の春祭りの神事に参加しました。
その他、10月10日の秋祭りと1月1日の歳旦祭、そして1月14日のとんど祭りなど、
行事のたびに上新田天神社に伺っています。
先日は、そこで天神社に伝わる古い絵をみせていただきました。
そこには1686年、上新田と書いてありました。天神社は豊中市の指定文化財になってい
ますが、随分古い歴史があるのだなあと思い、上新田の歴史を調べてみることにしました。
皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をつくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で
みんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しました。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行くと勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることになりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできませんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。
少し長くなりましたので、新千里西町、新千里南町の歴史は次回にということにいたします。
以上で、きょうの私の話をおわります。
おはようございます。
ゴールデンウイークも終わり、どうですか皆さん、新しいクラスになじめていますか?
特に1年生の人、本格的にクラブもはじまりました。がんばれていますか?
1年生は今週、早朝読書をしていますね。
8時30分、チャイムも鳴らないのに静かに全員が座って本を読んでいる姿は素晴らしいで
す。一日たった10分ですが、一日のはじまりのこの時間には様々な効果があるはずです。
もうひとつ良いところは、先生がいないのに時間がきたら自分たちで本を読み始めていると
ころです。
図書委員の人たち、よくやっていますね。あした、あさってもこの調子で続けて下さい。
さて、きょうは皆さんが住むこの街の歴史についてお話したいと思います。
みなさん、上新田にある天神社を知っていますか?この地域の氏神様として、お正月に訪れ
る人も多いかと思います。毎日この横を通って通学している人もいるでしょう。
私はこの5月5日にこの天神社の春祭りの神事に参加しました。
その他、10月10日の秋祭りと1月1日の歳旦祭、そして1月14日のとんど祭りなど、
行事のたびに上新田天神社に伺っています。
先日は、そこで天神社に伝わる古い絵をみせていただきました。
そこには1686年、上新田と書いてありました。天神社は豊中市の指定文化財になってい
ますが、随分古い歴史があるのだなあと思い、上新田の歴史を調べてみることにしました。
皆さんが住む上新田が新田村として誕生したのは、江戸時代、3代将軍家光の頃だそうです。
嘉永3年、1626年、今から386年前です。山田下村の吉田五郎右衛門、田中安右衛門、
吉田権兵衛という3人が世話役となって上新田80石、下新田40石、合わせて120石の
村高で開発を請け負い、山田村から分かれた上新田、下新田の新しい村が生まれました。
そして、開墾がすすんで耕作地が増えると、分家にあたる人達が独立して、寛永12年
1635年には27戸だった家が、230年後、幕末の慶応元年 1865年には130戸
にもなっています。また、石高も当初の80石が明治5年には605石にも増えました。
もともと新田村で人々が生活を始めたのは、千里丘陵の谷間をせき止めて池を造り、そこか
らの用水が利用できるようになってからです。千里丘陵は川から遠く、ため池が水源でした。
今も残る「樫の木池」や千里体育館のところの「安場池」などが江戸時代初期につくられま
した。上新田集落の人々は苦労して池をつくり、その水を「垣内(かいと)」という組織で
みんなが使えるようにしました。集落は協同作業などを通して終結し、社会組織の連合体を築き、行政機関を有する新田村として大きく発展していきました。
実は上新田は昭和28年1953年に豊中市に編入されるまで、豊能地区ではなく三島地区に属していました。
新田小学校は明治6年、1873年に今の吹田市立千里第一小学校の分校として開校しました。昭和28年豊中市に編入され、豊中市立新田小学校になったのです。創立139年の
小学校です。
上新田の中央を通る道は、古くは大阪方面からの箕面にある勝尾寺までの参道でした。
明治のころには新千里南町3丁目を天竺川ぞいに北東にすすみ、旧新田小学校前を左折して上新田村に入り、参拝客はちょうどその辺で休憩ということで、上新田には茶屋や参拝客専用の宿があったそうです。
当時をしのばせる町石や道標が今でも上新田1丁目や2丁目のあたりに残っています。
見たことありませんか?1丁目7番の馬頭観音像や2丁目4番の三叉路の「右いばらき、左かちおし」ときざまれた道標はすぐにみつけることができます。
この道を右に行くと、いばらき、宇野辺から高槻街道へとつづき、京都へいくよ、左に行くと勝尾寺だよ、という道しるべです。
また旧新田小学校と新田幼稚園のあいだの道をまっすぐいく三国街道は上新田でとれた農作物やたけのこをつんだ荷車や牛舎が大阪へとむかった道です。
その後、長くつづいた農村社会は千里ニュータウンの開発で激変します。
上新田は土地の買収などがうまくいかなかったため、千里ニュータウンからはずれることになりますが、昭和51年のシーアイマンション、昭和54年の朝日プラザやパークヒルズ
など、豊中のマンション建設の先駆けの地となりました。
この地区の人口も増え、昭和59年、豊中で一番新しい小学校、新田南小学校もできました。
竹やぶや田んぼを切り開き、マンション建設の波はまだ続いています。
天神社のとんどで使う「わら」を供給できる家はたった1軒だけになってしまいました。
また天神社の裏の竹やぶは見事にとりくずされ、宅地造成が今まさに、おこなわれています。歴史ある天神社を守るための住民運動もおこっていますが、宅地造成をとめることはできませんでした。
みなさんにとってのふるさと、上新田はこんな歴史のある地域です。
みなさんが過ごす今の上新田の風景が、そのまま皆さんの思い出のふるさとになります。
自分の住む街に愛着をもって過ごし、この街でよい思い出をたくさんつくりたいものです。
少し長くなりましたので、新千里西町、新千里南町の歴史は次回にということにいたします。
以上で、きょうの私の話をおわります。
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