2012年12月17日月曜日

ツバメのお宿  赤坂下池 その後  異変が そしてヨシが

11/08 水か抜かれ シラサギなどの野鳥が見られません。

もう少し水位を上げると野鳥が多くなるのでは
池の南側で工事が始まりました。
池の周りの石垣が壊され、池の面と同じ高さまで掘り下げられました。
今日の赤坂下池 12/17
 
池の南側で工事が行われています。シャベルカー2台

池の湖岸が大きく削り取られました。
来年の「ツバメのお宿は??? 大丈夫かな!」 
 
ヨシが全て刈られていました。 12/24日 
 
 
 

2012年12月16日日曜日

千里川(桜井谷)の贈り物 リース

桜井谷の贈り物
 
 
 
 
 
 
 
 これは見事です。 クリスマス イルミ 彩りを添えます。
 
 
 

2012年12月14日金曜日

吹田の歴史・郷土愛?  市町村合併と江戸時代の村 

  金田村
  出口村
  ■新家村 ????? 村の名前は??

ウィキペディアより
Suita Osaka chapter.JPG
吹田市章
1940年4月10日制定

吹田市の歴史 市町村合併       by 上村 和功

  明治22年 明治41年 昭和15年 昭和28年 昭和30年
吹田村 吹田村 吹田町 吹田市 吹田市 吹田市
片山村 千里村 →→→→
佐井寺村
吉志部村 岸部村 →→→→
南村
東村
小路村
七尾村
垂水村 豊津村 →→→→
榎阪村
下新田村 新田村 →→→→ →→→→
上新田村 →→→→→→→→豊中市へ  
山田下村 山田村 →→→→ →→→→ →→→→ 田市
山田小川村
山田中村
山田上村
山田別所村


追加 2015/09/27  摂津国(元禄)国宝より
  金田村
  出口村
  ■新家村 ?????


  原村
  山谷村
  山田佐井寺村

  蔵人村(榎坂村内)
  寺田村(榎坂村内)
  廣芝村(垂水村内)  
 


郷土愛??・郷土史を調べている人多いの!少ないの??? 吹田市と豊中市
 このページの訪問者数は 21ビュー  少ないのではないか! 関心がないのか!
さらに郷土史、地元愛、歴史を知り、今後の発展を願う人を増やさないと
文化財の歴史を知らないと、「必要ない物」として、廃棄される。
明治時代の旧村は知っていることではないですか!小学校で教えないのかな!
地の人が知らない 
先人達の文化財・庶民の文化財は、現在生きている我々が後世に伝える義務がある。
ところが、下の「豊中の歴史」 は見学者が多い。218ビューと利用されている。
豊中の歴史 市町村合併と江戸時代の村   桜井谷村

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知っています! 吹田の水路ため池

2013年4月1日月曜日 千里の川

2012年1月29日日曜日 山田村   圓照寺

2010年3月1日月曜日  山田街道

2012年7月18日水曜日  山田川の橋

2012年4月11日水曜日  山田川 Ⅰ  大阪城にも

2009年5月21日木曜日  山田の歴史

2009年6月17日水曜日  「山田の歴史」

2012年4月10日火曜日 今週が見ごろ 近所の桜(山田)

2010年3月17日水曜日 佐井寺の道 

2010年2月22日月曜日 小野原街道 

2012年12月6日木曜日  千里丘陵の歴史  

2010年8月23日月曜日  江戸時代のみちと道しるべ

2010年12月27日月曜日 山田のお伊勢参り

元禄時代の村名

吹田村、金田村、、■新家村  ここのところ昔の村名があったのですが!
江坂村、蔵人村、、寺田村、
垂水村、廣芝村
片山村  出口村、原村、山谷村
山田佐井寺村、 
山田  下村、小川村、中村、別府村(小川村)、上村
吉志領 吹田出作、南村、東村、小路村、七尾村、

2013年4月20日土曜日  吹田市田中町

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吹田こんなところ! 新しい発見あり
 源流は???

三谷照男のスケッチブック

「羽鷹池周辺」  作 三谷照男
 
 
案内状2   絵画展へのお誘い  三谷照男水彩画回顧展2
三谷照男水彩画回顧展  1    2011年9月30日金曜日

 
丁寧な礼状が届きました。
紫陽花

行ってきました 水彩画回顧展2 12/14 参加者多数 礼状


おいで下さい 池田へ
 三谷照男水彩画回顧展2
 

市立ギャラリー いけだ 
(阪急電車池田駅)

毎日 100名のお客さんが来られるとのことです。

 
 

絵葉書6枚セット 400円
豊中市広報 1989 3月号
「羽鷹池周辺」  作 三谷照男
 
 
案内状2   絵画展へのお誘い  三谷照男水彩画回顧展2
三谷照男水彩画回顧展    2011年9月30日金曜日

 
丁寧な礼状が届きました。
紫陽花

2012年12月6日木曜日

千里丘陵の歴史

千里丘陵の歴史
千里丘陵にいつごろから人間が住みついたかは、はっきりしない。丘陵の周辺部には歴史的遺跡が比較的多いが、内部の地質が砂れきないしは粘土で、風化によって浸食されやすいため肥料分に乏しく、また雨の少ない地域であるため、人の居住した形跡が認められない。丘陵の間にため池を作って農業を営み始めたのは、江戸時代からではないかと考えられる。
ただ、山田や佐井寺などの良質の水がわくところでは古くから集落が発展したようである。また丘陵の南部にある旧垂水村の地域においては、古くから豊富なわき水があり、垂水(たるみ)のような地名が生まれた。垂水神社、泉殿神社等があったことは、このようなわき水や泉のかたわらに集落があったことを物語っている。
文献によると、古代に吹田地方に住んだと思われる氏族に難波吉師部(きしべ)があり、今日の吹田市岸部が、その住地であったと推察できる。吉師部の祖は古事記によると神功皇后の新羅征伐帰還後、謀反した忍熊王(おしくまのおおぎみ)が難波吉師部の祖、伊佐比宿称(いさひのすくね)を将軍とし、神功皇后とその皇太子方の将軍丸邇(わに)の臣の祖難波波根子建振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)と戦った話がある。
垂水神社(式内)は古代では一流の大社で、境内のわき水はかんばつでもかれなかったので崇拝されたと考えられる。またそのわき水を取り囲んで集落が形成されたことが想像される。万葉集に垂水を歌ったものがあり、とくに巻7の摂津作歌二十一首の中につぎの句がある。
「命を幸(さき)く吉(よ)けむと石(いわ)ばしる垂水の水を結びて飲みつ」
とあるのは摂津の地名を読み込んだ歌であるから、あるいはこの垂水の地の泉のことをさしているのではないかと思われる。
延喜式にある古社として有名なのは嶋下群に鎮座する伊射奈岐神社二座である。この社の一座は大字山田小川の西南の中腹にあり、伊装諾命をまつり、一座は字佐井寺にあるもので、今は春日と称しているものであると考えられる。社伝には雄略23年伊勢皇大神宮の斎宮倭姫命(やまとのひめのみこと)の命により、その臣豊足彦と称するものが五柱の皇太神を奉祀すべき霊地を諸国にもとめ、この地にまつり、山田の原と称したという。これは伊勢の国山田の原の名を移したという説である。山田とは山間の田というところが地名になった場合が多いので、一概に伊勢の山田の名を移したという説には従いがたい。伊射奈岐命・伊射奈美命男女2神が偉大な生産の神であることから農民の間で深く信仰されたということが考えられる。
また、この地方の古寺として早くから文献にあらわれているものに佐為寺がある。弘仁5年(西暦814年)2月および同7年2月に嵯峨天皇が遊猟の折り、佐為寺および百済寺の優民に綿を施し、交野から帰京したとある。(類聚国史32、幸32天皇遊猟)この佐為寺が今日の佐井寺の前進ではないかと推定される。荘園制時代の山田垂水地方が荘園文書にあらわれてくることは「皇極紀」や「類聚国史」にでている。
室町時代の当地方のことを物語る資料は、豊中市南郷の今西春定氏所蔵文書で、それに山田荘山田村からの年貢の記録がある。また「更級日記」(11世紀後半に菅原孝標の娘・橘俊通の妻がしるした)に山田地方のことを記した次の文章がある。
「さるべきよう有りて秋ごろ和泉に下るに、淀というよりして道の程のおかしう哀なる事いひつくすべうもあらず。高浜というところにとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、舟の楫の音きこゆ。問うなれば遊びのきたるなりけり。人々興じて舟にさしつけさしたり。遠き火の光に、ひとへの袖ながやかに、扇さし隠して歌うたひたる。いと哀れに見ゆ」
吹田荘の南部を高浜と称した。遊びとは遊女である。淀川河口に当たる当時の吹田地方は舟の仮泊所で、遊女なども江口、神崎あたりから訪れたものらしい。
(注)朝日新聞社発行の古典全書によると、高浜は大阪府三島郡本町の淀川の岸にあったとしている。
今日では千里山とは吹田市北方の丘陵地帯の一部をさすが、もとは、もっと西北方豊中市桜井谷芝原の待兼山、刀根山、北豊島の玉阪、熊野田から上新田にかけてのあたりをさしたものであるいう。一名遠寝(とね)山といい、古来景色がよいところというので、待兼山、たまさか山、島熊山、寝山が歌にうたわれている。待兼山、たまさか山は現在では千里から西北の地であるが、今日の千里山あたりをふくんでいる。
清少納言の「枕草子」に「山は待兼山、たまさか」とあるように平安時代から知られており、当時の重要な交通路、太宰府道が待兼山の北部を通過している。そのやや東方の萱野は西国への旅行者の宿泊地であった。
近世になって、明応5年(西暦1496年)蓮如上人が大阪生玉在石寺に本願寺を創建し、のち天文元年(西暦1532年)孫証如は、この別院を本山に定めた。大阪の地はその門前町として栄えたが豊臣秀吉はこの地の重要性に着目し、天正11年(西暦1583年)大坂城を大阪に築いた。千里地方はその後背地の一部となり、大阪の繁栄と関係するところ大であったと想像できる。
その当時山田千里地方の集落は山田上村、山田中村、山田小川村、小川村枝郷別所村、山田佐井寺村、片山村があった。また元和から寛永にかけて山田の新田村である山田上新田村、山田下新田村が誕生した。これらの諸村は元和元年(西暦1615年)から徳川氏代官の支配地であったが、寛永2年(西暦1625年)板倉周防守重宗の領地となり、寛文9年(西暦1669年)4月から淀藩主石川主殿頭憲之の領となり、続いて正徳元年(西暦1711年)5月同じく淀城主松平丹波守光熈の領地に転じ、享保3年(西暦1718年)同じ淀藩主松平左近将監乗邑に移り、享保8年5月同じく淀藩主稲葉丹波守正知の領地となり、同氏が世襲し美濃の守正邦にいたって明治2年(西暦1869年)6月上納した。
明治4年7月に淀県に属し、同11月大阪府の管轄となった。記録によると、これらの村々の石高が非常に増大していることは、近世中期以降に千里山丘陵の開発が盛んであったことを示している。
明治の初期山田千里山地方の生産を示すものとしては、明治14年内務省が編集した「群村誌」や明治13年「上新田農事調」同14年の「下新田農事調」などがあり、これらの農事調には米、糯、大豆、大角豆、小豆、綿、裸麦、豌豆、喬豆、春筍、夏桃、蕨、大根、菜種、薪柴、甘藷、茄子、胡瓜、越瓜、夏柿、葱、水菜、蕪、4月菜、蕃椒等の作物がしるされている。
           (「千里ニュータウンの建設」(昭和45年3月 大阪府発行)より引用)
 
 千里丘陵の昔 Ⅰ                                                                       2010年2月8日月曜日
千里丘陵の昔 Ⅱ 展示(南千里) 一度はおいで下さい。        2012年9月23日日曜日
千里丘陵の歴史         
 

三谷照男水彩画回顧展2

案内が届きました。
「塔建立」 高松市立美術館買い上げ品
2012.12.12(水) ~ 12.17(月)
案内文
 昨年、10月の回顧展に次ぐ2回目の展示になります。
 漁港と志度寺などの風景画で地位を高めた父、照男です。高松、豊中、池田、大阪、神戸市など各地の風景を描き、自然に対する憧憬と感動を伝える表現にしています。
 画材での光と影の表現、草木の重なりや水面、空の輝きなど、水彩画の特色を充分に生かした表現方法を使い、多彩に描写しています。また、技術の高さを示しながらも評価されなかったもの、色彩の変化、遊びをした作品も今回は展示します。
 2011年1月、92歳で他界するまで、毎日、絵筆・鉛筆を持ち、病身を背負って画家を志し、実現した半生でした。
 多数の方々のご来場とご高覧を賜りたいと思います。
 
前回の回顧展
(池田市立 art gallery  IKEDA)
阪急池田駅構内2階
 
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