大阪府
明治四十二年五月
長柄小橋
地蔵3体 古いものです。
聖徳太子が「六万体地蔵」の3体である。
大川、十三、土佐堀から移築したもの。
「旧毛馬基標」
明治から昭和にかけて、大阪湾の建設や淀川改修工事等の
高さの基準として使用されたもの
最初は 「天保山の旧砲台跡」
明治40年 毛馬へ
昭和41年現在の茨木市にある国土地理院の基準水準点に移される。
毛馬町の与謝蕪村生誕地の淀川の堤防
与謝蕪村念碑
「春風や 堤長うして 家遠し」
別のサイト
禁漁区
是しヨリ下方
大阪府
昭和十二年三月
国分寺
「ずいぐてら」 ???
長町毘沙門鳥
右面 文政十三年寅年九月 下部損傷
下方は埋められていた形跡がある。
その下にある2基も埋められた形跡あり、道標だと思う。
上半分が黒いのでこれも、大阪大空襲の痕か
その時は、「天満宮」と「冷雲寺」が焼け残ったといわれている。
梅田あたりはそれ以前にも大火があった。
天保五年(1834)7月十一日と明治四十二年の「北の大火」があった。
今日も収穫収穫
見つかった道標である。
変わっていますね。
大阪市内の道標も順次まとめます。
欄干もまとめて行こうと思います
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