今日の予定は「北摂」と「播磨」国境まで 残りわずか
道の向こうに祠が
この道は明治19年の地図に載っている。八多町を通る直線道路です。
今でも交通量の多い道です。
極楽寺の五重塔
左手に登ったところに墓地が
地蔵台座道標⑤
「右はりまみち」「左をふそうしミち」
元小学校南角街道脇
なぜここに「役行者」
昔 神社かお寺の跡でしょう。奥蔵寺跡
深谷の交差点 その手前を右に山の中に入ります。
右の道から上がってきます。
千本地蔵
千本地蔵の祠
先ほど別れた県道38号線が見える、その向こうに道が「黒甲越」
道標⑥「奉供養西国三拾三所 右ありま 左京大坂 道」 嘉永六年丑三月吉日
「青木先生の碑」
説明板がありますが、教育委員会の銘は入っておりません。
向こうに見えるのが「千本地蔵」 国境へ向かいます。
荒れた藪の中に「史跡三本松之跡」
「摂津名所図会」によると 「三本松 屏風村にあり・・・
屏風に着きました。 火の見櫓が見えます。
旧道は火の見櫓手前で左に折れ、グルーと回って向こうの電柱で合流する
左の 大きな自然石には「右ハ三木大坂 左ハ 村 道」
「右おうこ三木 安政四年十二月吉日 □□西国三十三□□・・・・ 施主 当村二人
左むらミち 田中伝左衛門 池ノ上清三郎」
県道を三木方面へ
「右スグ山田兵庫 有馬大阪 如意輪観音像 奉納西国三十三所巡礼供養 スグ淡河三木」
(背)「明治二五年九月建立 西野トミ 村上ヤエ 池尻ジユ」
初期の探索 「播磨道」
江戸初期の絵図(尼崎市立図書館所蔵)では、この道が 「山陽道」となっている。
播磨道Ⅰ 下山口 ~ 藤原台北町
播磨道Ⅱ 藤原台北町 ~ 八多
播磨道Ⅲ 八多 ~ 屏風
播磨道Ⅳ 道標
道の向こうに祠が
この道は明治19年の地図に載っている。八多町を通る直線道路です。
今でも交通量の多い道です。
極楽寺の五重塔
左手に登ったところに墓地が
地蔵台座道標⑤
「右はりまみち」「左をふそうしミち」
元小学校南角街道脇
なぜここに「役行者」
昔 神社かお寺の跡でしょう。奥蔵寺跡
深谷の交差点 その手前を右に山の中に入ります。
右の道から上がってきます。
千本地蔵
千本地蔵の祠
先ほど別れた県道38号線が見える、その向こうに道が「黒甲越」
道標⑥「奉供養西国三拾三所 右ありま 左京大坂 道」 嘉永六年丑三月吉日
「青木先生の碑」
説明板がありますが、教育委員会の銘は入っておりません。
向こうに見えるのが「千本地蔵」 国境へ向かいます。
荒れた藪の中に「史跡三本松之跡」
「摂津名所図会」によると 「三本松 屏風村にあり・・・
屏風に着きました。 火の見櫓が見えます。
旧道は火の見櫓手前で左に折れ、グルーと回って向こうの電柱で合流する
左の 大きな自然石には「右ハ三木大坂 左ハ 村 道」
「右おうこ三木 安政四年十二月吉日 □□西国三十三□□・・・・ 施主 当村二人
左むらミち 田中伝左衛門 池ノ上清三郎」
県道を三木方面へ
「右スグ山田兵庫 有馬大阪 如意輪観音像 奉納西国三十三所巡礼供養 スグ淡河三木」
(背)「明治二五年九月建立 西野トミ 村上ヤエ 池尻ジユ」
初期の探索 「播磨道」
江戸初期の絵図(尼崎市立図書館所蔵)では、この道が 「山陽道」となっている。
播磨道Ⅰ 下山口 ~ 藤原台北町
播磨道Ⅱ 藤原台北町 ~ 八多
播磨道Ⅲ 八多 ~ 屏風
播磨道Ⅳ 道標
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