東大阪市は累計92,925人 5.17人に一人
将来を担う子供 出生率低下 年間80万人
① 小学校卒
② シュツセイ 出産少子化
「2022年にも出生数80万人割れ」の衝撃――政府予測より20年前倒しの少子化をくい止めるには「異次元子育て支援」が必要だ
その日本人たちは、
鳥居信平~南台湾を今も支える地下ダムの建設者
「飲水思源」???
地下ダム・二峰シュウ(土へんに川)は南台湾の宝 原住民は シカ肉やタケノコを肴に、栗から作ったどぶろくを飲んでいた。 新農場は「萬隆農場」
豊中市の文化財 道標編
25. 馬頭観音像を刻出したもの 上新田1-7-11 大岡正芳氏宅前
道標で「立石」とは大きな道標のことを言っている。 さて、この項で25 の項の後半に 「上の立石」のことが次のように書かれている。
その1 これとほとんど同じ道標(33)(疑問 その2)(但し、33の項はなく30に書かれているが全く違った別の道標です。続き)が上新田小字安場(新千里東町)(疑問 その3)にあった。土地の人たちは「上の立石」と呼んでいた。ニュータウン造成前は「1メートル四方を整地して花を供えて祭っていたが、造成工事中に盗み去られた.これは読売新聞社刊『野の仏』(疑問 その4)に写真入りで掲載されている。それによると、角柱の上部に馬頭観音座像を陽刻し、下に「右 かちおし」と見える。右面には刻文は見えない。・・・」以上
その① (33) の表記は
まるっきり違う道標 旧住所 新千里北町2樫ノ木池北東 (上の立石があった場所だが)
道標の表記が違う 「野の仏」の画像を掲載しましたので確認
その2. 「33 ➡ 30 はほとんど同じ」・・・ ではない!
道標30は 万人講道標で まるっきり別の道標編には旧在所は同じだが表記が違う
表記は「為万人講」は大きさ 14-15cm角柱で「立石」には当てはまらない。
この表記から30番の道標は「万人講」道標 上新田の西口道標(万人講)と同じ
上記の道標は 江坂の須佐能神社、油かけ地蔵の石仏群にあった「万人講」道標
別項 江坂の万人講28.打越池北西三叉路
右 大 坂 道 世話人
左 下新田 道 大峰講中
消失
29.勝尾寺と佐井寺の分岐 方向が示されていない。(赤字)
(西面) 右 さいてじ
左 かちをじ
(東面) 右 大坂
(左面) 天明元辛丑年/南の濱尼講中 天満にある 南濱か!
さらに 豊中市最古の道標として挙げられているが、年号刻印 「天明元年」 他の面の刻印と違い 加筆されたのではないか!
上新田の東口道標は年号が入っていないが 1面に記載されていますので古い道標です。
30.樫木池北東、勝尾寺と野道との三又路 新千里2丁目
これは 「万人講」道標で 箕面市に2基あり、上新田の西口道標も同じ表記で、四角柱で大きさが14~15㎝で 本「野の仏」、教育センターの所有する写真「上の立石」は 角柱17~20cmで大きい 全く違うものである。
30番道標は江坂「素盞嗚尊神社」境内、油かけ地蔵の石造群にあった物
「またもや発見 ここよ!ここよ!と呼んでいる。」2011年8月17日水曜日
「箕面の道しるべ」 万人講 2020年2月2日日曜日
別件 古い道標は 別サイト
道標は初期?古いのは 一面だけに記載されているものが古いとされている。
上新田では「上新田東口道標」山田道分岐点道標と
「名号板碑道標」 長興寺2-1-16 が古いのではないでしょうか!
石造の道標ですが 初期には木造もあったと思いますが、現存していません。
木造は ペンキであれば 約50年持ちます。上新田の古い木柱は 上新田五一会 が建てたもの
「写真でみる 上新田」 五一会 昭和53年1978

(北)
(東) 為万人講衆中法界 となっています


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