日向国(元禄)
(ひゅうがのくに)
江戸幕府の命で、慶長・正保・元禄・天保の4回、全国規模で国ごとの地図が作成されました。 このうち元禄国絵図は、元禄9年(1696)その作成が命じられ、同15年(1702)までにほぼ全国の分が完成したといわれています。1里を6寸とする縮尺(約21,600分の1)で、山、川、道路等が描かれ、街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です。郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、白四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。 国立公文書館には、元禄図の原本8鋪、模写本8鋪が保存されています。天保国絵図全国分83鋪(重複を含めると119枚)及び松前島から琉球まで国ごとに各村の石高を記した「天保郷帳」85冊とともに昭和58年(1983)国の重要文化財に指定されてました。今回の撮影は、現状に手を加えることなく行っております。そのため一部不鮮明個所がありますが、ご了承下さい。
地図の裏面には、同図の作成の経緯が記されおり、薩摩藩御用絵師坂元勘兵衛によって描かれたことを知ることができます。 原図サイズ:東西423cm x 南北726cm。
詳しく見ると
佐土原城 で 宮崎市内と分岐して荒武村と三谷村の間で さらに分岐 一方は本庄村、宮王丸村を通る。 目黒村?の内 大坪村・井野見村を通り 法華獄山 薬師の 下を通り綾北川にでる。
法華獄山 薬師
古城跡
北方川 廣さ 26間 深さ2尺歩渡し
南方川 廣さ 20間 深さ2尺歩渡し
北方村 南川と北川の合流地点 一里塚がある。
北方村の内 綾村 綾村は古城の北西に描かれている。
廣澤谷村の内 南方村
廣澤谷村
廣澤谷村の内 下水流村
本町の起源は古く、中央台地の尾立地区に縄文遺跡があることから、この時代にすでに人が住んでいたと思われる。
延喜式(西暦967年律令)の日向(宮崎)16駅の中に亜椰(綾)駅が見られ、野尻・小林・真幸を経て肥後(熊本)に通じる駅路の1つでした。その駅跡が立町に残ってます。このことから、奈良時代にはすでに1集落が形成されていたことを物語っています。
その後平安時代の中期より大分の宇佐神宮の宮領となり、鎌倉時代の初期に伊東氏が地頭として赴任し、その疵護のもとに細川氏、後の綾氏が支配していましたが、足利8代将軍義政の頃から伊藤氏直轄の支配となりました。綾城は伊藤家48城の1つで、薩摩の島津氏と戦う山東の拠点であり、飫肥攻撃や三股千町の奪い合い、木崎原の合戦にその使命を果たしましたが、天正5年12月9日伊藤氏の豊後落ちにより島津氏が綾を支配することになり、江戸時代を経て明治維新を迎えるまで291年間続きました。
明治維新に綾郷に南俣村・北俣村をおきそれぞれ戸長役場をおきましたが、明治15年6月に南俣村・北俣村を合併し綾村とし役場を古城へおきました。さらに明治17年高岡郷の入野村(宮原・崎ノ田・古屋・尾原・上畑等)を合併し、明治22年町村制実施とともに南俣・北俣・入野の3つをいっしょにして、綾村と称えました。当時の戸数は727戸でした。
その後昭和7年10月1日町制を施行して今日に至っています。
地名[編集]
- 北麓
- 麓
- 南麓
- 割付
- 埜道
- 竹野
- 宮原
- 久木野々
- 二反野
- 倉輪
- 立町
- 揚町
- 中堂
- 四枝
- 西中坪
- 東中坪
- 上畑
- 尾立
- 神下
- 宮谷
- 古屋
- 昭和
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