その⑤
丹波市観光協会:丹波市柏原町柏原1電話0795-72-2340
中井権次一統 - Wikipedia
その④投稿
「丹波の彫り物師 中井権次一統について」
中井権次一統は、丹波柏原藩の宮大工である中井道源を初代とし4代目の権次君音から9代目貞胤まで、神社仏閣の彫り物師として北近畿一円に及ぶ地域で活躍した中井家の一統である。
中井家は、初代の中井道源が柏原藩の要請により京都与謝郡の中井役所(徳川幕府公認の大工集団)から弟と共に宮大工として丹波柏原へ派遣された。
任務は柏原八幡宮の三重塔再建のため宮大工として1615年(元和元年)から1619年(元和5年)にかけて赴任した。道源はそのまま柏原の大工町(現在の柏原町新町)に残り、藩からは相当な待遇で迎えられ、柏原を中心に彫り物師集団中井家一統の祖となった。以降3代にわたり宮大工として活躍したが、4代目君音からは彫り物師として9代目貞胤(喜一郎)まで丹波から北近畿、播磨、摂津に及び、約300近い多彩な作品を神社仏閣に残している。
しかしながら時代の流れで、9代目貞胤の頃から寺社彫刻の仕事が少なくなり昭和の初期に宮津市に移住し、その後も10代目丈夫から現在の11代目光夫氏まで印判彫刻店を営み彫り物師としての中井権次一統を今も彫り物という技術で受け継いでおられる。
徳川幕府が各地に寺社建造物を建立する中で、3代目までは一族の宮大工グループが建築を、彫り物は中井権次一統が手がけて建築と彫刻を棲み分けていたのではないかと言われている。
5代目丈五郎橘正忠の頃には屋号に「青龍軒」を用いるようになり、龍に込められた思いが強く出ている。龍の彫り物に特徴があり、躍動的で今にも飛び出して来そうな作品を多数手掛け、他の流派を寄せ付けない生き生きとした立派な作品である。龍は古来、神仏の化身として崇められ龍の持つ宝珠は厄を払い、民を救い全ての望みをかなえられるといわてれる。中国では5本の爪で持っているが、日本では3本の爪で宝珠を持ち中井一棟の作品は体の中央で持っており、こだわりの流儀があるようです。
他にも中井権次一統の龍の彫り物の特徴は
① ひげを銅板でつくる
② 目の後ろは赤く塗られている
③ 目玉は玉眼を使うことが多い
④ 背は放射状に反らせる
⑤ 甍が尖っている
⑥ 上歯は鋭く立っている
⑦ 舌が突き出ている
龍のそばには聖獣といわれる唐獅子、獏(ばく)、麒麟、象が常に設えられており、またある寺社では動植物の他に中国の古典に出てくる仙人の彫り物も多く彫刻の多彩さは、すばらしい物がある。寺社仏閣の、唐破風部の中央部には獅子噛みといって獅子が上の歯をむき出しにして、ものを噛んだ顔をした彫り物があるが側面の妻飾りにも彫られた作品も多い。
作品の中で銘の刻まれた最古の作品は、朝来市山東町に所在する「當勝(まさかつ)神社」の棟札には寛延2年(1749)「彫物師棟梁 丹波国柏原町 中井権次忠定」とあるが、大工棟梁であるため権次一統の系図には出てこない。
しかし、この神社の古社には4代目権次君音の彫刻、7代目権次橘正次の龍の彫り物があり大工と彫り物の作業を分担していたことが伺える。当時、丹後・与謝地域では宮津城下に本拠を置く大工集団は富田氏が一大勢力を誇っていたが、この集団の中にも富田姓を名乗る彫り物師がいたこともあり、広い北近畿内で中井権次一統と競合せずに、うまく商圏を受け持つ何らかの規制が働いていたことが推察できる。
作品の分布は圧倒的に丹波市が多いが南西地域の丹波市山南町和田に所在する延喜式内社「狭宮(さみや)神社」には多可郡比延庄の大工飛田氏、彫り物は大坂の社殿彫り物師中川利兵衛の作と伝わっている。この神社は最近兵庫県の重要有形文化財に選ばれ立派な社殿と彫り物がみられる。
三田市内で記銘が確認できる寺社は、本庄の「駒宇佐神社」桑原の「感神社」永沢寺の「永澤寺」の3か所である。中井一統以外の銘が記されているのは、山田の「感神社」は藍本の彫り物師堀喜太吉、酒井の「友松寺」には丹波住人上田柏山等の記銘が残る。
この様に銘を見える所に残すという事は、相当に自信に溢れた仕事をしている様に伺える。逆に立派な作品でも銘の記されていない所もあるが、中井一統は4代から9代までが代々銘を表示してきたことは、全国の他地域では見られないすごいことである。
彫り物技術の伝承は、言い伝えでも出来るが、中井家の宮津に所在する当主宅には約1,000枚もの下絵が保存されており、実在の作品と合致する下絵が沢山あると聞いている。二次元から、どの様にして曲線のある三次元の作品に繋げているのか不思議な技術である。中井権次一統の初代は与謝郡の中井役所から始まっているが、大工頭の中井役所は徳川幕府お抱えの京都大工頭の役職を務め、内裏や京都に所在する幕府関係の建物、幕府の負担による寺社の新造・修復工事を担当していた中井正清(1565~1619)の血筋を引くとの説があるが、出自の詳細は現在では不明である。
中井役所の中井正清は法隆寺西里生まれ、法隆寺大工の出身で徳川家康に重用され頭角をあらわして京都大工頭となり中井役所として、五畿内(山城、大和、摂津、河内、和泉)と近江を合わせた六か国の建築職人の組織化に成功した。
京都大工頭の中井役所は、現在13代中井正知氏(埼玉在住)であるが、ここには約5,200枚の古文書と建築指図書類が保存されており、中井家文書は、平成23年7月に国の重要文化財に指定されて現在は「大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)」に寄託され収蔵庫で保管されている。
一方三田藩は、宝塚の小浜組の西村七蔵の配下小組であったが天保8年(1837)三田組として独立し、石名の住屋矢七が三田大工頭として三田の大工を取りまとめています。
こうして二つの中井家の仕事を見ていると三田の地では、建築と彫り物で同じ時期に仕事をしていた事になるが、当時の関係者はどの様な思いで仕事に取り組んでいたのであろうか。
三田市内には約55の神社、64の寺があり、まだまだ中井一統の作品が所在すると思われますが、新しい情報がありましたら是非ご教示をお願いいたします。
平成30年4月24日
その③
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