投稿 11/20
5)江戸時代中後期、「馬街道」と呼ばれるように、
5)江戸時代中後期、「馬街道」と呼ばれるように、
この場所の通行量は結構多かったようです。
池田や能勢、新田から荷物を運ぶ牛馬も多かったと記録されています。
新修池田市史の記述によれば、18世紀後半、池田から廣芝舩場
(このころは小曽根の渡しと思われる)へ運ばれる酒樽は年間1万3000駄
(1駄は4斗樽2つ、これを牛の両側につけます)。冬季、平均すると
一日38駄=38頭の牛馬が行き来しました。
追加 訂正 11/18
池田や能勢、新田から荷物を運ぶ牛馬も多かったと記録されています。
新修池田市史の記述によれば、18世紀後半、池田から廣芝舩場
(このころは小曽根の渡しと思われる)へ運ばれる酒樽は年間1万3000駄
(1駄は4斗樽2つ、これを牛の両側につけます)。冬季、平均すると
一日38駄=38頭の牛馬が行き来しました。
追加 訂正 11/18
1. 明治の地図 現在の「小芳橋」のあるところが小曽根に行く道
「渡し」から700メール辺り
この地点より、上流、下流には、明治の地図では小曽根への道は見つからなかった。
3. 「小芳橋」以外には、小曽根に降りる道は あぜ道だけで、道はなかったと思われる。
明治の地図で点線で表示されている細道「 - - - - 」 は、なかった。
新事実?
1. 明治の地図によると 小曽根に降りる道は 地図では 小曽根の渡しから約700m
今問題になっている辺りになります。
2. 高川堤防から小曽根に行く道は 下の地図では A点よりさらに上流になるようです。
3. 別件、現在、名神高速の下手にある「高川の道標」を実測すると
小曽根の渡し場より
4.現在の、「高川の道標」、「天竺川の道標」 2基とも、元々は小曽根に行くこの分岐に立っていたもので、堤防工事等によりこの分岐から現在の位置へ移動された物となる。 あぜ道などには、道を案内しない。
私の思い込みでした・・・・・・
よって、「天神様道」道標だけここに存在するとは考えにくい。
また、この道標が「大神様」(垂水神社?)を目指すため、堤防を使うには、もう少し手前
C点 にある方が良い。
仮説? 新説 「大神様」とは直接関係はありませんが!
地図の差し替え 大正15年
大神様道道標の位置変更
昭和23年
現在道標のある場所は、旧「渡場町内会」の北東の端です。渡場か神崎川旧堤防に上がって、東へ行くには、この位置まで上らず、すぐ北のC地点から、高川を渡るほうがふさわしいと思います。
明治18年や42年、大正15年の地図には、この道が記入されています。そして、新しい昭和36年の地図(大阪府基本図1:3000)には、自動車の通れる道として橋が架けられています。対岸に今も道路だけそこまで伸びています。この道が一番だと思います。
ちなみに神崎川新堤防の道は、明治18年、42年には、明確に記入されています。しかしその後の地図にはなく、この昭和36年に登場します。(昭和23年の空中写真にはありますが) 明治18年すぐ近くの旧堤防が切れ、付近は1年ほど水につかっていたといわれています。
大正6年にも神崎川の堤防(この場所かはわかりません)が破堤しています。洪水の影響を受け道路が復旧していなかったようです。 池田土木事務所の調査は、すでに倉庫に保管されているはずで、手続きなど面倒なので暇になってからにします。(別件で茨木土木事務所と交渉中です。)
何か出てくるといいですね!
明治18年や42年、大正15年の地図には、この道が記入されています。そして、新しい昭和36年の地図(大阪府基本図1:3000)には、自動車の通れる道として橋が架けられています。対岸に今も道路だけそこまで伸びています。この道が一番だと思います。
ちなみに神崎川新堤防の道は、明治18年、42年には、明確に記入されています。しかしその後の地図にはなく、この昭和36年に登場します。(昭和23年の空中写真にはありますが) 明治18年すぐ近くの旧堤防が切れ、付近は1年ほど水につかっていたといわれています。
大正6年にも神崎川の堤防(この場所かはわかりません)が破堤しています。洪水の影響を受け道路が復旧していなかったようです。 池田土木事務所の調査は、すでに倉庫に保管されているはずで、手続きなど面倒なので暇になってからにします。(別件で茨木土木事務所と交渉中です。)
何か出てくるといいですね!
- 仮説? 新説 「大神様」は何処の そのⅠ
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