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まともや 消える歴史? 刀根山城跡? 垂直断層消える!
豊中の史跡・文化財をさぐる
* 福西 茂さんのスケッチから *
まともや 消える歴史? 刀根山城跡? 垂直断層消える!
刀根山城跡 消滅???? 豊中退教だより 138号別冊
高市光男
ミステリー
高市光男
1、刀根山城はいつの城?
刀根山は「殿山」の転じたものという。納得のできる伝承である。
元文元年(17詭)の「豊島郡志」には、
『刀根山古砦 刀根山村ノ西、麻田村ノ上方ニアリ、稲葉伊予守左京亮、氏家
常陸介等ガ陣営ナリ』
と記している。江戸時代の各村明細帳の書式に、「古城」という項目があるのが
普通であるが、刀根山村の明細帳にはこの記載はない。(豊中市史 資料編四)
安田俊治著「桜井谷村郷土誌」(明治末稿本・豊中市立教育研究所刊)には
『刀根山城砦 何人が始めて造営せしものか知る処なし。摂州高附上(写本)
刀根山村の部に、「古城は天文の頃稲葉伊予守居之、天正の頃氏家常陸介稲葉氏
と両人居之」と記し、天文年間(1532-1554)に始まったとしているが、当時
稲葉氏は美濃国安八郡曽根城主であって、刀根山城とのかゝわりはない。天文は
天正の誤記と断言できる。
「信長記」には、織田信長が伊丹有岡城の荒木村重を討つため、美濃三人衆と呼
ばれた稲葉彦六(伊予守)・氏家左京亮(常陸介)・安藤平左衛門(伊賀とも称
す)および芥川(茨木の国人)を刀根山に配置し城砦を造らせた。この時天正6
年12月11日である。翌7年4月、稲葉・芥川は河原取出(池田)、氏家は四角屋
敷・安藤(伊賀)は加茂岸(川西)に前進、荒木を包囲せしめた。半年足らずで
あったが、それぞれの家臣も含めた城砦の建設に努めた。
2、刀根山城の古跡ほ?
その刀根山城はどこにあったか?と問われると、定かではなかった。
安田俊治氏の「桜井谷村郷士誌」に、「其規模要害の方法等知る処なし、只地名
に門口・出口・あやめ口・東、西射場・大町の筋・馬塚等を残せるにより、ホボ
其大さを推測するに過ぎざるのみ。」と記している。明治末においてもその全容
は幻に近かったかと思われる。
6、「豊中歴史を掘る会」
この12月、豊中市教委と共催て「豊中の史跡・文化財をさぐる~福西茂さん
のスケッチから~」という展覧会を、豊中市中央公民館て開くことにした。
この幾会に「豊中の歴史を掘る会」を結成した。会員は今のところ、上村和
功、三谷博、滝建三、田中勲と私の5人である。
福西茂さんは、大飯市内て教員をされていたが、定年退職後、地域を歩き、
尋ね、スケッチをして、豊中市内だけても370点余の記録を書かれた。私は、
教育研究初時代、そのコピーを頂き、学校・教師の参考のために冊子を作り配
布したという緑がある。上村和功氏の熱意で、所蔵者てある教育委員会を動か
し、仲間を集めて実現にこぎつけた次第てある。
最近、地域の歴史忙ついて市民の関心が高まり、種々な活動が見られること
は大変喜ばしいことてある。
豊中市には「豊中市史」「新修豊中市史」の他若干の史書があるが、地域に
即した歴史はほとんど解からない。そこにお堂があっても、そこに石搭があっ
ても、その由来を語る人も、問う人もない。このようになった理由はいろいろ
ある。
明治以来、町村合併が急速に進められた。当初は、40ほどあった村が、い
く度かの町村合併により、豊中市になった。それは行政と地域が遠くなったこ
とを意味する。
人口の流動が著しく、人と地域のつながりも希薄になる。昔から豊中に住ん
でいるという人は何%あるだろうか。そこて伝承も切れている。
市役所をはじめ地域の住民のために働くべき公務員も、市民ではないことが
多い。地域のことが解からないまゝ、関心を持たないまゝ、とにかく働いてい
る。
そんな中て、地域のことを掘り起し、記録を残し、遺物を残すことが、歴史
を後世に残すことになるのてはないか。
豊中の史跡・文化財をさぐる
* 福西 茂さんのスケッチから *
展 示 平成26年12月5日(金)~12月11日(木)
10:00 ~ 17:00
主催 豊中の歴史を掘る会 ・豊中市教育委員会
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