2013年7月23日火曜日

吹田村案内 追加 

あるグループから吹田村の案内依頼です。
豊中市の人口 25.5 392.960
吹田市の人口 25.3 356.768   茨木市 277,319
池田市の人口 25.5 103.132
箕面市の人口 25.5 131.065
吹田は水運で栄えた  西国と京都の水路? 貴族の別荘 亀岡街道 吹田街道
御旅所・ダンジリ  鉄道のまち 旧国鉄の遺構(阪急千里線神崎川鉄橋・丸また・橋梁) 
京都線は京阪電車だった?  4つの大学プラス1  
アサヒビール吹田工場・ラッパのマーク大幸薬品・低カロリーマロニー 
千里ニュータウン   太陽の塔・万博公園
いろいろある中で江戸時代3人の領主で統治されていた吹田村の案内

   

コース 約4キロ 
阪急相川から
「新京阪橋」 京阪電気鉄道会社の子会社 新京阪鉄道は 十三-千里山所有の北大阪電気鉄道を買収、天神橋から西院まで、後に京阪電気鉄道と合併、昭和18年国策として 阪急と合併 分離は昭和24年 この時の重役の数で阪急が多く、京都線・千里線は阪急の物になる。阪急はおおきくなる。

神境町の村社「春日神社」、ダンジリがある 現在は高浜神社の御旅所
 鎌倉時代の記録にある。江戸初期の記録に「侍内」として存在していた。


  
「吹田の渡し」、 川幅20メートル230間(418m)  
 摂津名所図会で紹介 「ひとわたし をくれて月に追いつかれ 風もリンリン 虫もりんりん」 
川の名前は三国川 現在は神崎川 上流は「安威川」 この「吹田の渡し」の絵は阪急吹田駅の地下道には巨大なカラー版の「吹田の渡し」がある。 明治8年新高浜橋が出来、渡しは廃止、有料の高浜橋 亀岡街道が変わる。亀岡街道が宮前通りを通ることになる。
王朝の湖水 淀川流転より

小さいですが 北東からの淀川 大きな島があり
それを北上するのが三国川 水位が下がり、土砂の流入で
北への水の流れが悪くなる。
和気清麻呂が淀川と三国川とをつなぐ785年、その後、京都への近道として吹田の津として
水運が栄え、松が生え、鶴が飛び、風光明媚なところであった。貴族らも、この地をおとづれ、鎌倉時代西園寺公経が別荘「吹田殿」を構え、歌、川遊び等を行った伝承が残っている。
江戸時代過書船 このあたりに廻船問屋があった。 
 
明治19年の吹田の地図  吹田の中之島

色分けしました。分かりますか これでどうでしょうか!
亀岡街道、吹田街道、中之島、神崎川

明治にななり、ヨハネス・デレーケ(オランダ人)が南江口から運河を作る。明治11年  神崎川になる。 
「淀川の改修」 デ・レーケ 明治18年の大洪水、安治川橋を爆破、都島の網島付近で堤防の「わざと切れ」などの阿話がある。 大橋房太郎明治29年明治42年新淀川の誕生。
現在の大阪市本庄と中津川を挟んで川口村があったが、この工事のため村全体移動させられた。
  新北野の円稱寺には、淀川改修中津村旧祉記念碑が残る。

子女郎稲荷、 菖蒲池
  紅梅狐がいたという伝承。狐が娘に化けて酒を買ったなどの伝承が残る。
ここは昔堤防、 送電線が走っているのが元川  高浜小橋の親柱

中之島 今は陸続き、明治の地図でわかる。水の流れない川の親柱が残っている。
     現在中之島公園、吹田市立第三中学校

泪池 血の池と言われた。多くの言い伝えが残っている。
 川面墓地 松の音善蔵の墓 江戸時代 明治初期大阪相撲大関 現役の時死亡 
  その他力士の墓は 上新田、小野原の墓地にもある。

吹田殿(大の木さん)
 泉殿御旅所、「吹田殿址」の碑、鎌倉時代西園寺公経が別荘を構えた。
 

  
「浜屋敷」、吹田村の庄屋屋敷「気比家」跡 2000年に寄贈 2003年から「吹田歴史文化まちづくりセンター」として発足  ダンジリがあり見学することができる。
このだんじりは吹田市の6台だんじりが毎年1年ごとに入れ替わる。JRから南
  西奥町、都呂須、六地蔵、神境町、浜の堂、川面町、金田町 市の有形民俗文化財
 ダンジリはJR北側の 泉殿  片山神社にも何基かある。 
 ダンジリの披露は年に一回「吹田まつり」で見れる。七月末


「南町道標」 昭和五十七年(1982)に埋没部分を引き上げ、
さらに保存のために、原位置から北西に約30cm移動させている。黒くなっている部分まで、埋もれていたものと考えられる。吹田では、このように案内板が立っている。
 加賀真砂子さんらにより、吹田市の道標の保存を市教委に提案  何年か後に、このように、埋もれた部分を引き上げ、ゴミ捨て場になっているところの整備、等を提案し、現在の状況になっている。案内板はその時に建てられたものである。
  

吹田市発祥の地 竹中邸があった。 その後、吹田市役所、済生会病院、
  現在はマンション。  竹中邸は山田に馬上門が残っている。 


「高浜神社」、天平七年(735)にはすでに吹田大宮として存在していた。
また貞観十一年(869)には素盞鳴尊(牛頭天王)を合祀して疫病の流行を
免れたという記録もある。 吹田砂堆で松が生い茂り
      建長三年(1251)に後嵯峨上皇が来遊、「来て見れば千代も経ぬべし高浜
の松に群れいる鶴の毛衣」の御詠がある.



御神木「鶴の松」 (昔の境内は此のような松の大木が沢山ありまして鶴が巣を作りましたが太閤秀吉公が大阪城築城の時用材として切りとられたとの伝説が残っています。 建長三年(一二五一)は後嵯峨上皇御参拝「来て見れば千代もへぬべし高浜の松にむれいる鶴の毛ころも」お歌をよまれました。 此の松の大木は天明六年(一七八六)の台風に倒れましたが今は巳さんの信仰があります。 藤原定家の「明月記」にも掲載されていますが、この高浜神社界隈に吹田殿があり、そこの風光明媚に訪れていたと記入しています。  鎌倉時代、高浜神社一帯は、「吹田砂堆」といわれる砂丘になっていて、高浜地区の東南部(現在の南高浜町付近)には「樹齢千年の大樹有り」と報告され、その様子を後嵯峨天皇が初めて吹田殿を訪れたとき、 「白砂青松」の地であったことが解る歌もあります。藤原定家の子二条為家も、吹田殿を訪れたことがあったとみえて、次のように詠んでいます。  「幾とせの雪とかいはん白妙に名も高浜の秋の夜の月」7
本殿は元和3年1617年 領主竹中氏が建てた。

古い灯篭  元和6年江戸初期 

建前地蔵尊吹田村は、仙洞御料(上皇の料地:西尾家)、旗本竹中領(幕府陸軍奉行 )、旗本柘植領の相給で三方の役人たちが集まる会所(三方会所)があって、高札を建てていた場所 だったようです。 その側にあったので建前地蔵尊というそうです。

常光園満寺:高野山真言宗


「旧西尾邸」、重要文化財 所要時間 約1時間15分  吹田村は大阪近郊の村と同様、旗本竹中領、旗本柘植領と 仙洞御料庄屋西尾邸の3氏によって、統治されていた。そのお触れを出すのが三方会所 
西尾邸は 作曲家貴志康一の生まれた家(母方) 大阪都島の貴志邸。藤田男爵邸の隣の一等地、太閤園の庭に貴志康一の碑が立っている。
彼の祖父である喜志彌右衛門の財力(大阪心斎橋筋でメリヤス売買で繁盛させたとのこと)と父奈良二郎(東京帝国大学哲学科で美学を専攻 甲南高等女学校創設)
本人は作曲家、指揮者、ヴァイオリニスト。旧制甲南高等学校を2年生の時に中退後、ジュネーヴ音楽院に入学し、優秀な成績で修了。19歳より、ベルリン高等音楽学校でカール・フレッシュの教室に在籍。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞(1449)の後の晩餐会の時に彼の曲が流れたことは有名である。指揮者ととしても有名だった。1936中垂炎 翌年1937 28歳の若さで死去
「 かごかき」  貴志康一が作曲した歌曲である
よいこらどっこいよっさっさ
ほいかごほいかご ほいほいほい
かごはいらぬか
のりゃしゃんせ
難波(なにわ)はよいとこ
名所が多い
天満の天神天王寺
御霊に住吉大阪城

よいこらどっこいよっさっさ
ほいかごほいかご ほいほいほい
かごはいらぬか
のりゃしゃんせ
天神祭りのお舟が通る
太鼓たたいて松明つけて
どんちきちきちき どんちきちん

よいこらどっこいよっさっさ
ほいかごほいかご ほいほいほい
かごはいらぬか
のりゃしゃんせ
曽根崎新地の夕べの風情
三味や太鼓のはやしも陽気
とんとことことこ とんとことん


  
「泉殿宮」 貞観11年(869年)里人は建速須佐之男大神を相殿とした上で降雨を祈ったところ
境内に清水が湧出したという。明治22年(1889年)この清水はミュンヘンにて「ビール醸造に最適」と評価され、大阪麦酒(現在のアサヒビール)が当宮付近に進出した。湧水は昭和30年代に枯渇したが、境内に残る「泉殿霊泉」はその遺構とされる。 大塩平八郎の叔父が宮司、大阪の天満宮とのかかわりがある。

「大の木と吹田殿址」
 統治は神崎川の流れに沿い 平安時代川に南面して宏荘豪華を極めた寝殿造り藤原實氏公の別荘「吹田殿」のあった処である。
 神木「大の木」は樹齢七百餘年周囲目通り2丈七尺 大枝伸長し高さ3丈六尺幹体半は朽ちて空洞化をし、昭和九年室戸台風に最後の大枝を折損して現在の姿となった椋の老大樹で、俗謠にも「御所の内池に蔭をさす川面の椋」と伝え往時を偲ぶ唯一の天然記念物である。」
樹麓に大阪府の標石「吹田殿址」がある。
吹田殿には 後嵯峨,後深草、後宇多などの歴代上皇の再三の御幸御遊のあり鵜飼に湯治に或いは詩歌など賞でられ歓を尽くされた。
当時代縉神家の邸宅は寝殿造りで池に面して泉殿、釣殿あり其の廃頽するに及んで藤原氏の祖神春日大神を泉殿と共に本社を合し  この霊域に昔忘れることなく年々盛大な神幸渡が続けらてている。
 奈良時代 貴族西園寺公望(きんつね)が作った説もある。


「アサヒビール工場見学」

大阪相撲と松の音善蔵

 大阪相撲に松の音善蔵(1852年=嘉永5-1882年=明治15)がいました。生誕地は現在の吹田市内本町です。本名は竹本善兵衛です。

 松の音の親方は6代目枝川藤兵衛(えだがわとうべえい)でした。5代目は現在の摂津市千里丘東の出身で、1843年に5代目を襲名し、1856年頃に亡くなったようです。5代目は出身地と大阪の間を行き来するとき、吹田の渡しを使っていたので、松の音の父と知り合いになり、息子を枝川部屋に入れたものと思われます。
 東京、大阪、京都相撲ともに運営が密室で決まり、不公平でした。紛糾、分裂、収拾が繰り返されていました。昇進しても格下げがありません。物言いがついて上位力士が逆転負けになる場合は勝負預かりにして白黒をつけません。収入の分配基準も不明瞭でした。
 松の音は3歳年長の響矢と一緒に同志を集めて改革を試みました。1876年についに分裂しました。当時の改革派連名帳が松の音の遺族宅に残っています。同志は61人でした。
 改革派と旧守派が別々に相撲を同時に興行すると、改革派大盛況でしたが、旧守派は不入りのため途中で興行を中止する始末でした。大阪市北消防庁のトップでもあった侠客の仲介で和解しました。高齢で弱くなっても大関を譲らなかったベテランが追放され、1879年に松の音と響矢が大関に就いて、大阪相撲は盛況を取り戻しました。
 ところが、松の音は1882年(明治15)に急死しました。私が症状から診断するとは急性白血病でした。失意の響矢は人気のある東京相撲に転籍しました。
 「明治27年(1894)5月2日、垂水村で晴天1日興行」、という番付があります。松の音の13回忌の命日です。京都相撲の大関を勤めた親友・小柳の熱意で実現した法要相撲だったと思われます。法要相撲の番付の3、4段目が近隣のアマ力士68人で埋まっていて、最多は吹田の17人、次いで佐井寺の16人、3番目は垂水の10人でした。難波新地と京都東山で吹いた吹田の風が地元に戻りました。
 松の音の大きな墓石が吹田市内本町の川面墓地にあります。面倒見のよい松の音が建てた同志の墓もその近くにあります。
 詳しくは、『大阪春秋』91号と92号、「吹田の風」。

町名
例えば城ヶ前町は昔ここに西之庄城が吹田第一小学校北側にあり、その近くが城ヶ前町です。城の前というのが「城ヶ前」の意味です。もう一つ石浦城があります。ここはJR吹田駅やアサヒビ-ルや片山公園までの大きさがありました。

JR関係 明治9年に開通した東海道線 
 
 駅の数は 向日町、山崎、高槻、茨木、吹田  駅は今のところから約200メートル西に在り阪急千里線の近くにあった。
 
 東海道線は吹田を過ぎると大きく左に曲がり、今の阪急千里線 南方まで伸びていた。
以後に北大阪鉄道に払い下げになり、千里線として活躍、神崎川にかかる鉄橋の橋脚は当時の国鉄の遺構、電車に乗っているとわからない。また「丸また」レンガの構造物で下が水路、下新庄駅北側に「井戸口橋梁」が残っている。長く持つものです。137年間働いた、  ただし、淡路駅の高架により取り壊されることになっている。


吹田郷土民話すいたきょうどみんわかるた  吹田郷土史研究会
天然記念物 「ヒメボタル」
万博記念公園
山田村
吹田の市町村合併

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