道標は、街道の交差点や分岐点などに建てられ、通過する旅人たちに目的地への方向や里程を示し道案内するものです。当初は木製のものも建てられていたようですが、現存するのは当然ながら石造のものばかりです。これらは現在では、裏道となった旧街道にひっそりと残っていたりしますが、通行の妨げになったり、都市計画により他の場所へ移設されたものもあります。また、道標が文化財に指定される例も少なく、その保存環境は年々厳しくなっています。今のうちにできるだけ多くの道標の写真を残しておきたいものです。
1、街道と道標
● 道路の制度が初めて定められたのは大宝三年(703)で、日本を58の国と3つの島に分け、各地の国府と大和地方の都を結ぶ道路が開通しました。これが、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道です。中でも大和地方と太宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部は最も重要な道路として全国唯一大路に指定されていました(古代山陽道)。大路の山陽道には 三十里(約16㌔)ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅馬二、三十匹、駅子百二、三十人が常駐していました。駅家は築地で囲まれ、駅門があり、倉庫などの建物が並んでいたといわれます。播磨では明石、邑美(明石)、賀古(加古川)、佐突(姫路)、草上(姫路)、大市(姫路)、布勢(たつの)、高田(上郡)、野磨(上郡)にあったとされています。
● その後、瀬戸内航行の海路が整備され駅制は次第に崩れます。鎌倉時代には京都と鎌倉を結ぶ東海道が主要道路となって、山陽道の重要度は薄れていきます。また商業の発達に伴い「市」や「宿」が発生し、それらを結ぶ物資運搬路が通じ、この地方でも丹波道などの幹線道路が開通しています。このころ街道筋から分れる大寺院などへの参道に「丁石」と呼ばれる道しるべが現れます。
● 江戸時代の慶長六年には江戸を中心に五街道が定められ、慶長九年には日本橋を起点として全国に一里塚の制度が設けられました。このとき山陽道は脇往還となりましたが、依然として重要な道筋でした。
貨幣経済の発達した元禄時代以降、街道には旅人が急増します。まず庶民層の商人たちが、つづいて各地の神社仏閣へ講を組んで参詣する人々が、そして入湯や遊山の旅人などの通行が多くなって、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠屋などが現れ、また宿場間にも立場や茶店などの休息所がみられるようになってきます。このころ街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や里程を示した木製角柱の道しるべが増し始め、やがては自然石や切石の道しるべが建立されるようになりました。この石造の道しるべが今日旧街道で見られる道標です。これらの建立は官製のものはなく、ほとんどが庶民の寄贈によるものです。余裕ある商人などからの寄贈のほか、親や旅の途中で亡くなった人の供養、西国三十三所巡礼の成就の記念など建立の動機は様々です。そうした道標の一面には施主、願主、発起人、世話人などとしてその下に個人名や団体名が記入されているものが多く見られます。(参考資料:神戸新聞社「神戸の道標」など)
歌川広重、東海道五十三次に描かれた道標
● 戸塚宿の東海道と鎌倉道の分岐に建てられた道標で「左り かまくら道」と書かれ、これは現在も近くの妙秀寺に保存されているとのこと。(写真をクリックすると拡大できます)
2、道標の見方
● 道標の一番上はほとんどの場合進む方向や方角を示しています。東西南北のほか「すぐ」
「春ぐ」「直」(いずれもまっすぐの意)、「右」「左」「中」「此方」や指差し手形。矢印などで方向を示し
ています。 また、「従是北・・・」などと文字で表示されている場合もあります。
● その下は目的地が書かれています。目的地は場所名のほかに有名な神社仏閣や観光名所な
どがあります。寺院の場合はほとんどが山号のみで案内されています。書写山(圓教寺)、牛堂山
(国分寺)、刀田山(鶴林寺)、法華山(一乗寺)などです。また、当時の漢字の使用方法は統一され
ておらず、判読するのは困難を伴います。例えば「飛免ぢ(姫路)」「者り満(播磨)」「楚祢能末川
(曽根の松)」などと書かれています。目的地の一番下は多くの場合「道」の文字がくずして書か
れています。また、あて字については、「播磨名所巡覧図絵、巻之二」の 「播磨国」の冒頭に次
のような記述がありました。当時の漢字の使い方をよく表しています。「播磨、針間(以下略)さま
ざまに書けども皆仔細なし、音訓(よみこえ)のあたるべき文字を以っていかようとも書くは、日本の
古風也」と。
● 「是ヨリ一里」などのように現在地から目的地までの里程が書かれている場合もありま
す。姫路市青山の道標には「長崎へ百六十九里二十七丁、下ノ関へ百六里」などと遠方まで
の距離が詳しく書かれています。
一般的には、一里は三十六丁(一丁=六十間)と定められていましたが、比較的平坦な街道
では七十二丁の場合もあったようです。人が一刻に歩ける距離が基準になっていたようで
す。萩藩の絵師が作成した中国行程記で、姫路市四郷町の一里塚の記述をみると「此一里山
ハ、播磨姫路より一里、三十六丁道、摂津西ノ宮より十八里、丁数不同」などと書かれ、一
里の丁数が一定でないことを示しています。
● 道標建立の年月日が書かれている場合もあります。「時 寛政十二年歳次庚申」(高砂市
荒井神社東の道標)のように元号と干支は一組で表記されるのが一般的です。元号がなく「壬
辰三年(天保三年?)」という例もありました。また、月の表記では、姫路市飾磨区下野田の
道標に、陰暦の12月を「臘月」(としのすえつき)と珍しいものもありました。日は特定日
ではなく、吉日、吉祥日とするのが通例のようです。
● 道標の建立者の名前などとともに、道標を建立した主旨が漢文や和歌(浜芦屋の道標)で
書かれたものもありました。また、親や旅の途中で亡くなった人を供養するための道標や霊
場巡拝成就の記念の道標もあります。こうした道標の多くには一番上に地蔵や観音像などが
彫られています。このような仏像がある道標は、今日ではお堂や祠におさめられたりして地域
のお守りとして大切に崇められています。
● 道標の形は、尖頭型(角柱の頭が四角推)、打切型(角柱の頭が平)、櫛型(角柱の頭が半
円)、板碑型、舟形光背型、台石型、自然石型があります。 また、角柱型のほとんどは四角柱です
が、なかには五角柱(姫路市青山、たつの市追分、たつの市新宮町)の道標も見られました。
1、街道と道標
● 道路の制度が初めて定められたのは大宝三年(703)で、日本を58の国と3つの島に分け、各地の国府と大和地方の都を結ぶ道路が開通しました。これが、東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道です。中でも大和地方と太宰府を結ぶ山陽道と西海道の一部は最も重要な道路として全国唯一大路に指定されていました(古代山陽道)。大路の山陽道には 三十里(約16㌔)ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅馬二、三十匹、駅子百二、三十人が常駐していました。駅家は築地で囲まれ、駅門があり、倉庫などの建物が並んでいたといわれます。播磨では明石、邑美(明石)、賀古(加古川)、佐突(姫路)、草上(姫路)、大市(姫路)、布勢(たつの)、高田(上郡)、野磨(上郡)にあったとされています。
● その後、瀬戸内航行の海路が整備され駅制は次第に崩れます。鎌倉時代には京都と鎌倉を結ぶ東海道が主要道路となって、山陽道の重要度は薄れていきます。また商業の発達に伴い「市」や「宿」が発生し、それらを結ぶ物資運搬路が通じ、この地方でも丹波道などの幹線道路が開通しています。このころ街道筋から分れる大寺院などへの参道に「丁石」と呼ばれる道しるべが現れます。
● 江戸時代の慶長六年には江戸を中心に五街道が定められ、慶長九年には日本橋を起点として全国に一里塚の制度が設けられました。このとき山陽道は脇往還となりましたが、依然として重要な道筋でした。
貨幣経済の発達した元禄時代以降、街道には旅人が急増します。まず庶民層の商人たちが、つづいて各地の神社仏閣へ講を組んで参詣する人々が、そして入湯や遊山の旅人などの通行が多くなって、街道筋の宿場には木賃宿や旅籠屋などが現れ、また宿場間にも立場や茶店などの休息所がみられるようになってきます。このころ街道の追分や重要な分岐点などにその行き先や里程を示した木製角柱の道しるべが増し始め、やがては自然石や切石の道しるべが建立されるようになりました。この石造の道しるべが今日旧街道で見られる道標です。これらの建立は官製のものはなく、ほとんどが庶民の寄贈によるものです。余裕ある商人などからの寄贈のほか、親や旅の途中で亡くなった人の供養、西国三十三所巡礼の成就の記念など建立の動機は様々です。そうした道標の一面には施主、願主、発起人、世話人などとしてその下に個人名や団体名が記入されているものが多く見られます。(参考資料:神戸新聞社「神戸の道標」など)
歌川広重、東海道五十三次に描かれた道標
● 戸塚宿の東海道と鎌倉道の分岐に建てられた道標で「左り かまくら道」と書かれ、これは現在も近くの妙秀寺に保存されているとのこと。(写真をクリックすると拡大できます)
2、道標の見方
● 道標の一番上はほとんどの場合進む方向や方角を示しています。東西南北のほか「すぐ」
「春ぐ」「直」(いずれもまっすぐの意)、「右」「左」「中」「此方」や指差し手形。矢印などで方向を示し
ています。 また、「従是北・・・」などと文字で表示されている場合もあります。
● その下は目的地が書かれています。目的地は場所名のほかに有名な神社仏閣や観光名所な
どがあります。寺院の場合はほとんどが山号のみで案内されています。書写山(圓教寺)、牛堂山
(国分寺)、刀田山(鶴林寺)、法華山(一乗寺)などです。また、当時の漢字の使用方法は統一され
ておらず、判読するのは困難を伴います。例えば「飛免ぢ(姫路)」「者り満(播磨)」「楚祢能末川
(曽根の松)」などと書かれています。目的地の一番下は多くの場合「道」の文字がくずして書か
れています。また、あて字については、「播磨名所巡覧図絵、巻之二」の 「播磨国」の冒頭に次
のような記述がありました。当時の漢字の使い方をよく表しています。「播磨、針間(以下略)さま
ざまに書けども皆仔細なし、音訓(よみこえ)のあたるべき文字を以っていかようとも書くは、日本の
古風也」と。
● 「是ヨリ一里」などのように現在地から目的地までの里程が書かれている場合もありま
す。姫路市青山の道標には「長崎へ百六十九里二十七丁、下ノ関へ百六里」などと遠方まで
の距離が詳しく書かれています。
一般的には、一里は三十六丁(一丁=六十間)と定められていましたが、比較的平坦な街道
では七十二丁の場合もあったようです。人が一刻に歩ける距離が基準になっていたようで
す。萩藩の絵師が作成した中国行程記で、姫路市四郷町の一里塚の記述をみると「此一里山
ハ、播磨姫路より一里、三十六丁道、摂津西ノ宮より十八里、丁数不同」などと書かれ、一
里の丁数が一定でないことを示しています。
● 道標建立の年月日が書かれている場合もあります。「時 寛政十二年歳次庚申」(高砂市
荒井神社東の道標)のように元号と干支は一組で表記されるのが一般的です。元号がなく「壬
辰三年(天保三年?)」という例もありました。また、月の表記では、姫路市飾磨区下野田の
道標に、陰暦の12月を「臘月」(としのすえつき)と珍しいものもありました。日は特定日
ではなく、吉日、吉祥日とするのが通例のようです。
● 道標の建立者の名前などとともに、道標を建立した主旨が漢文や和歌(浜芦屋の道標)で
書かれたものもありました。また、親や旅の途中で亡くなった人を供養するための道標や霊
場巡拝成就の記念の道標もあります。こうした道標の多くには一番上に地蔵や観音像などが
彫られています。このような仏像がある道標は、今日ではお堂や祠におさめられたりして地域
のお守りとして大切に崇められています。
● 道標の形は、尖頭型(角柱の頭が四角推)、打切型(角柱の頭が平)、櫛型(角柱の頭が半
円)、板碑型、舟形光背型、台石型、自然石型があります。 また、角柱型のほとんどは四角柱です
が、なかには五角柱(姫路市青山、たつの市追分、たつの市新宮町)の道標も見られました。
3、道標に似た石造物、「境界石」「丁石」「道路元標」
● 「境界石」は、藩の境界などに建てられ「従是西備前国」(兵庫、岡山県境船坂峠)、「従是東備前國」(岡山市北区吉備津)や「従是西尼崎領/他領入組」(西宮市岡太神社境内)などと表記されています。また、室町時代には大寺院の勢力圏を示す「守護不入」(書写山圓教寺)、「従是西八幡宮御神領守護不入之所」(京都府大山崎町離宮八幡宮)などと書かれた大きな石柱もありました。
● 「丁石」は道標より歴史は古く、大きな寺院などの参道で主要な街道筋から一定の距離ごとに設置されていました。「自是山上惣門迠三十六町」(箕面市勝尾寺口の鳥居下)などと書かれていました。
● 「道路元標」は大正八年に施行された道路法施行令に基づいて各市町村に一基づつ設置された道路標識の一種です。標記は「的形村道路元標」など「道路元標」の文字の上に各市町村名が書かれています。県単位では「里程元標」(神戸市元町や大阪市中央区高麗橋東詰)もあります。道路元標の形状は大正十一年の内務省令で地上の高さ60㌢、一辺が25㌢の角柱と定められていました。兵庫県下の設置場所は大正九年の兵庫県告示で決められています。現在の道路法ではこれら元標は何の規定もないので道路の付属物とされ、年々その数は減っているそうです。(写真をクリックすると拡大できます)
● 「境界石」は、藩の境界などに建てられ「従是西備前国」(兵庫、岡山県境船坂峠)、「従是東備前國」(岡山市北区吉備津)や「従是西尼崎領/他領入組」(西宮市岡太神社境内)などと表記されています。また、室町時代には大寺院の勢力圏を示す「守護不入」(書写山圓教寺)、「従是西八幡宮御神領守護不入之所」(京都府大山崎町離宮八幡宮)などと書かれた大きな石柱もありました。
● 「丁石」は道標より歴史は古く、大きな寺院などの参道で主要な街道筋から一定の距離ごとに設置されていました。「自是山上惣門迠三十六町」(箕面市勝尾寺口の鳥居下)などと書かれていました。
● 「道路元標」は大正八年に施行された道路法施行令に基づいて各市町村に一基づつ設置された道路標識の一種です。標記は「的形村道路元標」など「道路元標」の文字の上に各市町村名が書かれています。県単位では「里程元標」(神戸市元町や大阪市中央区高麗橋東詰)もあります。道路元標の形状は大正十一年の内務省令で地上の高さ60㌢、一辺が25㌢の角柱と定められていました。兵庫県下の設置場所は大正九年の兵庫県告示で決められています。現在の道路法ではこれら元標は何の規定もないので道路の付属物とされ、年々その数は減っているそうです。(写真をクリックすると拡大できます)
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