2016年3月26日土曜日

小野原にあった 吹田への道標

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鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン

鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン、繁体字鄭成功簡体字郑成功ピン音:Zhèng Chénggōng、ウェード式:Cheng Ch'eng-kung、寛永元年/大明天啓4年7月14日1624年8月27日) - 大明永暦16年5月8日1662年6月23日))は、中国代の軍人政治家。元のは森。は明儼。日本名は福松[1]に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。俗称を国姓爺。台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている[1]鉄人(鉄の甲冑を着込んでいたための呼び名)や倭銃隊と呼ばれた日本式の鎧を身に纏った鉄砲隊や騎馬兵などの武者を巧みに指揮したことでも有名。
日本平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、時の第28代藩主宋陽隆信の寵をうけ川内浦に住み、浦人田川マツを娶り二子を生んだ。二人に、福松と七左衛門と名付けた。 たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが、7歳のときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた。15歳のとき、院考に合格し、南安県生員になった。明の陪都・南京東林党銭謙益に師事。

明の滅亡[編集]

1644年李自成北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、は滅んでが立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵を擁立したが、この時元号隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍なの軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった。
そんななか、ある日鄭森は父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな鄭森のことを気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと、森は決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる。
隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる。

抵抗運動の継続[編集]

鄭成功軍の占領地と影響圏
その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した。
1658年(明永暦十二年、清順治十五年)、鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた。
意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い、300隻の内100隻が沈没した。鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の3月25日に再度進軍を始めた。
鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった。

台湾占拠[編集]


鄭成功が攻め込んだオランダの城跡に建つ「赤嵌楼」

安平古堡の鄭成功像
鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい、1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。
国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍フリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)。
歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られており、毎年4月29日復台記念式典が催されている[1]

赤崁楼(せきかんろう)は別名を赤嵌楼紅毛楼 とも称し、台湾台南市中西区に位置する、オランダ人によって築城された旧跡である。原名は「プロヴィンティア」(Provintia、普羅民遮城)と称し、1653年にオランダ人と漢人の衝突事件である郭懐一事件(1652年)の後に築城された。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改められ、台湾全島の最高行政機関となった。現在は中華民国内政部により国家一級古蹟に指定されている。

十三界隈の地図

https://www.google.co.jp/maps/d/edit?mid=zJe5zO0j1xvQ.kkx3KSIaGIrI








「頌徳碑(しょうとくひ)」 
翁 オウ ウ おきな


水都 1 大坂

新清水寺


佐野屋橋
長堀川に沿った大阪市電東西線は、上流から末吉橋板屋橋長堀橋三休橋心斎橋佐野屋橋四ツ橋宇和島橋問屋橋白髪橋鰹座橋玉造橋と「橋」のつく停留所が12も連なっていた時期がある。


露天神
 つゆとちる泪に袖はくちにけり 都のことを思ひいずれば

 曽根崎心中 お初天神

杜若 うらえしょうてん  浦江村


⑦ 佐賀藩鍋島家  大川の涼 佐賀藩の蔵屋敷

⑪ 川崎東照宮 権現祭り 土地の税

⑫ 釣鐘屋敷 現存  地子(じし)

⑬ 玉造稲荷舞台  

⑭ 河村瑞賢 安治側

24 大丸 京都松屋呉服店 現在の大丸

29 石浜 佐野屋橋と心斎橋





2016年3月24日木曜日

バスツワー 「稲むらの火の館」お誘い 吹田郷土史研究会 


教科書にも載った 「稲村の火」


「広村堤防」

安政2年から安政5年3年 1856~1858
稲むらの火の館 から 西へ 150m





赤門 防塩扉



濱口梧陵を称え「感恩碑」
 教科書に載ったもう一つの出来事
  エルトゥールルの遭難の際に受けた恩義を知っています。
  エルトゥールル号遭難事件 と 
イランからの日本人脱出を行ったトルコ航空機の事件を扱った映画『海難1890』が製作、公開

近所の見学

有田川鉄道公園へいってきまし


■ 吹田郷土史研究会主催
 
  「紀州路を往く 」
日時 4月20日(水) 8:00 ~  吹田市役所玄関
         8:00出発ですので 時間の間違えないようにお願いします。
 

 はがきに住所・氏名・電話番号を書いて お申込み下さい
 申込先:〒565-0811
吹田市千里丘上1229  岩崎健一方

   吹田郷土史研究会主催 事務局 06-6876-1593

中山道 計画

69 大津宿
68 草津宿
67 守山宿
66 武佐宿 近江八幡市
65 愛知川宿  滋賀県愛知郡
64 高宮宿 彦根市
63 鳥居本陣 彦根市
62 番場宿          北陸道、朝鮮街道と結ぶ
61 醍井宿  米原市
60 柏原宿
59 今須宿
58 関ヶ原宿
57 垂井宿          美濃路と結ぶ 美濃路追分
56 赤坂宿   大垣市  
55 美江寺宿
54 河渡宿


参考 資料 

 人力


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青湾碑からまた道路に上がって、寄り道するのは大長寺。近松門左衛門が「心中天網島」をしたためる元になった、紙屋治兵衛と遊女小春が心中を図ったのが大長寺で、二人を憐れんで『比翼塚』が築かれました。コンパクトな境内の一角に比翼塚と地蔵、そして誰が袖乙吉の墓と鯉塚が並んでいます。


これは、都島区中野町の桜宮神社にある石碑です。桜宮神社はほかに3つ以上記念碑が建っていて、記念碑マニアでは有名なスポットかもしれません。
 この記念碑は明治18年の淀川水害のことを刻んだ石碑です。
 明治18年の水害は、淀川流域では象徴的な水害だったのでしょうか、ほかにも

それを伝える記念碑が淀川最下流から枚方まで6つ(重修桜堤碑、淀川大洪水記念碑、墾田紀功碑、赤井堤記念碑、修堤碑、明治十八季洪水碑)以上あります。それぞれの場所で、明治18年水害を伝えています。地域減災活動の原点かもしれません。
 碑文には明治18年6月枚方市伊香賀で堤防が切れ、北河内全域まで浸水が拡がり、大阪市公邸あたりの堤防を人工的に開いて(俗称:わざときり)、北河内全域の水を大川に戻しました。その後、暴風雨が来て、さらに被害が拡大した。
 同時に大阪府知事の建野郷三の強いリーダーシップが称えられています。なお碑文は明治碑文集に掲載されていて、摂河泉洪水記念碑として確認できます