「榎阪郷昔をたずねて」 投稿 油かけ地蔵横の祠 2021/11/04
大正年間 この地区では「めいぼの渡し」から 高川東に道があった。
それが 大神様道で 大神様の祠のそばに道標が立っていた。
その後、名神高速の建設などで その道標は移築され現在の位置に建立ということになる。
1 年前
オオガミサマヘノミチと読みます。大神樣(オオガミサマ)というのは、この高川の向こう側、吹田市芳野町8の大きな木の下にある祠を指しています。その祠が明治大正の頃は、大神樣という名の祈祷師のおばあさんが住む祈祷所がありました。そこへ向かう道を示す当時の道標です。むかし、周辺の村人が病弱になると祈祷所を訪れては、大神樣が呪文を唱えながら彼らの身体を軽くさすったりしてお祈りしていました。周辺の村どころか大阪市方面から病気平癒を求めてやってくる人々もいました。
渡場(ワタシバ・現在の豊南町東3の旧地名)の青年会が彼らを案内するために、村人から寄付金を募って大正5年10月に建てられました。ちなみに道標の北面には「渡シ場青年會寄附」と彫られています。その道標は建立当時からそのままの位置で建っているのではありません。昭和30年頃、高川を掘り下げて堤防をコンクリート造成する工事がはじまり、それに伴って、本来の位置から現在の位置へ移設されてしまったのです。本来の位置は、道路をはさんで反対側、つまり川へ降りていく法面に建っていました。工事で川底が深く掘り下げられて急なコンクリート法面に変わり、道標を元へ戻せなくなったため、現在の位置、つまり道路の西側の土手へ移設されてしまったのです。分かりやすく言いますと、現在の位置は道路から見て西側にあるのですが、工事前の本来の位置は道路から見て東側にあったのです。道標の西面に彫られている「ソコノ向側」は、今は道路から見えない裏側になっているのですが、当時の本来の位置で見ると、道路を行き交う人々が常に見える表側だったのです。当時の高川は天井川のため川の流れが高い位置にあり川底も浅く、道標のほとりには対岸の吹田へ渡る飛び石がありました。「そこを渡って向こう側へ行けばありますよ」という意味で「ソコノ向側」ということです。道標の東面には「大正五年十月建之」が彫られています。石碑や墓石に彫る日付はふつう背面に彫られるもので、当時の本来の位置関係で見れば道路の背面になっているということです。道標の南面に彫られている「大神樣道」は、大阪市方面からやってくる人々へ見せるタイトル看板のようなものということです。
渡場の古老の生前のおはなしより
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