チョット長くなっていますので Ⅱを開設します。
閲覧し、ご意見をお寄せください。 お考えでも云いし、資料があるともっといい。
道標の大きさ表記
45 × 24 × 65
写真を追加 11/13 掲載・形状の確認
掘り込み形状 表面と右面は同じ形状で高さ・丈も同じ
幅は違うが掘り込みに 文字が彫られている。
左面は掘り込み形状は同じだが、高さ・丈が違う。
裏面は これだけ他と違う掘り込み・長方形
表示板の形は違うが、・・・・ チョット検討してみます。
豊中文化財ニュース38号 に採用した文献一覧 11/11
幅は違うが掘り込みに 文字が彫られている。
左面は掘り込み形状は同じだが、高さ・丈が違う。
裏面は これだけ他と違う掘り込み・長方形
表示板の形は違うが、・・・・ チョット検討してみます。
豊中文化財ニュース38号 に採用した文献一覧 11/11
元文元年 1736年 「豊島郡誌」
享保20年 1735年「摂津誌』
新修池田市史 第1巻
慶長10年 1605年 「慶長国絵図」
生保2年 1645年 「生保国絵図 」
文化8年 1811年 「小曽根郷六箇村絵図之写」
宝暦8年 1758年 「小曽根村等7ヵ村明細帳」
「三国渡し年代記」 「三国村上杉家文書」
六箇村絵図
「長興寺村絵図」
福丈講
あの道標は 立派な道標です。
道標は往来する人に行先を正確に知らしめるためのもので、立っているところは、大きな道、分岐点、道筋に立てられその役割を果たします。、
枝道は往来が少ないのであまり利用されず、道標の意味がないのではと思います。
また、「ソコノ向側」とは、正面に「右 天神様道」と書くはずです。
元々ここに立っていて、「ソコノ向側」 今回の様に、同じような考えの人がいて「ソコノ向側」と書き足したのではないでしょうか!
永年豊中で言われていたことを言い換えなければならないのか!
その証拠をいろんな例、文章が出ていないのに信じることは難しいのではないですか!
「横関の渡し」の件では、
地名辞典・博物館・図書館に問い合わせて「横関村はなかった」
幕府の地図でも「横関村は存在せず」、明治の地図でも形跡が見つからなかったから
ここには堰があり、その横を渡りから「横関の渡し」と命名され、街道名もにもその名がついた。
それぐらい、念を推す必要があるとおもいますが!
ところがですね、一カ所・古文書・吹田市史に「横関村」との表記があった。
再度調べましたが、学芸員に聞きますと、あれは、「横関村」として、記載されている。
記載者・吹田村橋本氏が最後に書かれている、「記述の間違いがあるかもしれない?」
村名を間違えるとは思えないが、
で、いったん幕を閉じることになった。
ところが、最近 別な古文書が出てきて、私の云っていることが証明されました。
菅原道真を「天神様」と記載のあるウィキペディアがまちがっているか!
菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰のことをいう。
昭和23年の米軍撮影の空中写真には、この地点に下へ降りる道が写っている。
この道標の建っている場所・位置
追加③ 投稿が寄せられました。
天神様道 大神様道 興味深く読みました。私は、垂水神社は少し離れすぎているかと思います。今西家の伝承では、もともとこの地(小曽根)には田原藤太秀郷が春日大神を勧請してはじまった社があり、春日大社の社家(神官)だった今西家の先祖が供奉していたとあります。現在も続いています。このことから、大神様は南郷今西家屋敷内に祀られている春日大神と考えられます。
追加② 調査
言い伝え!、てんじんさんみち はてんじんさんでが正しいのではないでしょうか!
--- 神様 神に様を付けるのは ・・・・
特に菅原道真を「天神様」 ウィキペディアより
言い伝えには意味があると考えます。
追加① 調査
三輪明神は 大神神社と言いますが・・・
「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神 天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤 く祀 られました。
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以前にこの道標のことを問い合わせました。
「大神様道? 天神様道!!! どちら」このページ終に再記載
返事は貰っていないと思います。
別なところから返事
有難うございます。
記載の様に、その時の返事はありませんでした。
他の郷土史家にも聞きましたが「天神様道」との答えでした。
豊中市保護課からの返事が転送されて来ました。
豊中市保護課からの返事が転送されて来ました。
①「大神様道」について
ご指摘のように文化財ガイドブックでは、先学の成果をもとに「天神様道」として
記述されております。 しかし、「天神様」とは何を指すのか。この地域で天神を祀るのは
上新田天神社か服部天神ですが、私のなかでその解釈には疑問が絶えずつきまといました。 そこで、池田道を調査する機会に改めて道標を観察したところ、道標の西面に「ソコノ向側」
と彫られていることにハッとしました。実は、この道標は高川沿いに南北に進む道のための
ものではなく、高川を渡って東側方向に進むためのものだったのです。
明治時代の地形図からも、道標の対岸に東に進む小道があることが確認できます。
そして、道行く先には垂水神社があります。この点、文化財ニュースにも書きましたが、
大神様=垂水神社とする根拠としては十分かと思います。
道標の「天」と「大」は似たくずし字があります。そのため、これまで「天神様」とされて
きましたが、正しくは「大神様」で、文化財ガイドブックの誤りは改訂版にて訂正されます。
この道標は、大阪・尼崎方面から垂水神社へ参詣する人々を対象にした道しる
べと思われます。垂水神社は式内社ともなった古代以来の大社であり、近世・近代も名所
として知られていました。道標は垂水神社の氏子圏とは無関係なもので、小曽根の渡しや
津戸の中道を利用する人のために渡し場青年会が設置したものと
考えられます。垂水神社の直接的な基盤は神社周辺の村々で現在の豊中市域には及んで
いません。
「大神様道」というのも通称で、公式名称ではなかったと思います。
あくまで「大神様に向かう道」程度の意味です。
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その1. 「大神様」との名称は、吹田では聞いたことが無い名称です。
また、どちらでもとれるような、道標・案内は、一般的に使われえる名称が使われます。
一般の人が、通用しないので、豊中で天神さんと言えば一般的に「服部天神」と考えますが、
ここらでは、天神社・てんじんさんは豊中では 服部天神社です。
博物館に問い合わせを!
その2. 「ソコノ向側」 根本的に、これは、道標の意味を
持ちません。
別の道筋にある物を、別の道筋に立てるとは聞いたことがありませから!
向こうにあった物を移築し、加筆したのであればわかりますが!
その3. 南北の道 以外に東西の小道があります。その道は、垂水神社に通じる?
今開催中の博物館の「絵図っておもしろい」19の「江坂村絵図」に
その道がみられます。 もしその小路を使うにしても、その道先は「江坂の素盞
嗚尊」です。垂水神社は、江坂の村中で吹田街道を右に折れることになります。
今の時点では、「ソコノ向側」は加筆されたのではないですか!
私は、歴史のあり、古い算額が奉納されている、服部天神さんのことをさすものと思っていますが!。
その4. 大神様=垂水神社とする根拠 はどのことでしょうか!よくわかりません。
文献を紹介して欲しいですね。 推測でも 一般の人が納得いく根拠が必要ですね。
科学者ですから!
その5. 新説の登場 垂水神社への道標は、これが初めてになることは珍しいことです。
他の道標・古文書で、「大神様」という文言が表示されているのがあれば、
挙げていただきたい。
その6. 「津戸の中道」はこのルートを取りません、三国街道を三国から来て、高川を渡り、
堤防沿いに神崎川を上り、糸田川の堤防を右岸を上るのが「津戸の中道」で
高川を渡りますが、高川の堤防は通りません。 津戸の中道は道筋には、小曽根、
吹田を通るとなっていますが、小曽根の場合でも、小曽根の端・神崎川の右岸を通り、
糸田川をのぼり、途中で吹田の出口に向かうその先は、片山を通るルートとなり、
ここでも、吹田の端を通ることになる。
「津門の中道」
「大神様」に関して、類似する物を 挙げてみました。
正一位 大竹大神 大竹稲荷神社 何処!
「黒永龍三大神」 若竹町で隠れたお稲荷さん
下記は 山田ですので遠すぎます。
「大神大橋」 山田川の橋 Ⅱ
山田の名神高速の下に 祠がありました。
この橋を渡り、山田に入ると 下記「京への道3」の祠があります。
この橋の手前の交差点を市場方面に行くと、名神高速の下に 小さな祠がありました。
小さな祠 吹田山田 京への道 3 吹田の渡し
2010年6月28日月曜日
「大神様道? 天神様道!!! どちら」
保護課にメールを送りました。 6/28
高川の堤防にある道標
高川の堤防にある道標
とよなかの歴史・文化財ガイドブックの説明
「この道標に刻まれた「天神様道」・・・」
実物の写真で確認するとどう見ても 天でなく大である。
天神様であれば、服部天神で頷けるが、
大神とはここらでは、勝尾寺又は服部神社になる
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