木邨重成表忠碑 中之島公園 旧在所 豊国神社内
平五・十兵衛横町 開平小学校前
江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。
懐徳堂跡 日本生命ビル南側壁面
享保(きょうほう)9年(1724)中井甃庵(しゅうあん)らが創設した学問所。篤志の大坂商人の協力を得ながら、明治2年廃止されるまで145年にわたり人材を育てた。塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人のことも考え遅刻・早退も自由であった。中井竹山(ちくざん)・履軒(りけん)・五井蘭洲(らんしゅう)・持軒(じけん)らすぐれた指導者が多く、門下生として富永仲基(なかもと)・山片蟠桃(ばんとう)らを輩出している。現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている。
緒方洪庵
洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。
五代友厚の銅像 東京で死亡 墓は天王寺墓地
大阪金相場会所跡 大阪証券取引所入口
江戸時代の貨幣制度は、大別すると計数制と秤量制であった。金は両(りょう)、銭は貫(かん)、銀は秤ではかる匁(もんめ)など複雑な面があった。その上、関西は銭、関東は金と流通範囲が自然に分かれていた。そして相互の交換は法定されてはいたもののあまり信用されず、実際には相場が立てられそれが標準になった。そのため金相場の会所は存在価値が高かった。会所は最初高麗橋付近にあったが、のち現地に移り(寛保3年、 1743)、維新後、銀目取引廃止にともない閉鎖された
里程元標
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。
泊園書院(はくえんしょいん)
江戸時代から、中井一族による懐徳堂、緒方洪庵の適塾と並び称された私塾である。藤沢東がい(とうがい)が文政8年(1825)開いたもので、一時中断はあるが黄鵠(こうこく)・黄坡(こうは)ら4代、140年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献した。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に「泊園文庫」として保存されている。 南岳の孫 黄坡の長男、藤沢桓夫(たけお)
花外楼:大阪会議開催の地
明治維新間もないころ、新政府の方針をめぐり混迷をきわめた。体制を固めようとする大久保利通(としみち)は、当時反対を唱え下野していた木戸孝允(たかよし)や板垣退助を引き入れるため、伊藤博文・井上馨(かおる)らとともに、明治8年大阪で会合した。紆余曲折(うよきょくせつ)を経た会議は1カ月にも及び、ついに2月11日孝允の常宿、花外(かがい)楼(加賀伊を孝允が改称させた)で妥協した。これを称して大阪会議というが、ここでの話し合いも長つづきせず、6カ月後には再び混迷度を増したが、この会議は立憲政体を宣言した意義あるものであった。 三橋楼
八軒家船着き場跡 永田屋昆布店前
天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに8軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和20年ごろまであった。
熊野街道
平五・十兵衛横町 開平小学校前
江戸時代、経済制度の発展に伴い、今日の銀行的業務の必要が生じ両替商が生まれてきた。大坂では寛永5年(1628)天王寺屋五兵衛が始めたのが最初という。寛文10年(1670)には幕府により十人両替が誕生した。ここにはその中でも最大手の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が、道を挟んで店を構えていたことからこのように呼ばれた。
懐徳堂跡 日本生命ビル南側壁面
享保(きょうほう)9年(1724)中井甃庵(しゅうあん)らが創設した学問所。篤志の大坂商人の協力を得ながら、明治2年廃止されるまで145年にわたり人材を育てた。塾生は武士から庶民まで幅広く、席順も身分に関係なく、商人のことも考え遅刻・早退も自由であった。中井竹山(ちくざん)・履軒(りけん)・五井蘭洲(らんしゅう)・持軒(じけん)らすぐれた指導者が多く、門下生として富永仲基(なかもと)・山片蟠桃(ばんとう)らを輩出している。現在でも春秋2回、大阪大学の企画で懐徳堂講座を行っている。
緒方洪庵
洪庵(1810~1863)は岡山の人で17歳で来阪、中天游に学んだ。天保9年(1838)洋学を志す者のために、自宅に塾を開いた。1階の奥が洪庵の家族の住居で、2階は塾生が起居していた。そのなかから、大村益次郎(ますじろう)・橋本左内(さない)・福沢諭吉・長与専斎(ながよせんさい)らを輩出し、また洪庵は、大坂で最初の種痘を実施するなど医学者としても活躍した。
五代友厚の銅像 東京で死亡 墓は天王寺墓地
大阪金相場会所跡 大阪証券取引所入口
江戸時代の貨幣制度は、大別すると計数制と秤量制であった。金は両(りょう)、銭は貫(かん)、銀は秤ではかる匁(もんめ)など複雑な面があった。その上、関西は銭、関東は金と流通範囲が自然に分かれていた。そして相互の交換は法定されてはいたもののあまり信用されず、実際には相場が立てられそれが標準になった。そのため金相場の会所は存在価値が高かった。会所は最初高麗橋付近にあったが、のち現地に移り(寛保3年、 1743)、維新後、銀目取引廃止にともない閉鎖された
里程元標
江戸時代の里程計算の起点は、高麗橋の東詰にあった。ここが京街道・中国街道・紀州街道など諸国への道のり、車馬賃の基点となった。明治9年道路の制度公布によりひきつづき里程計算の起点となり、高麗橋の東南詰に元標がたてられた。現在は道路元標として梅田新道交差点西北角に移されている。また高麗橋は、江戸時代から公儀橋のなかでも重視され、西詰には町奉行所の制札場があった。なお高麗橋は大阪で最初の鉄橋(明治3年)である。
泊園書院(はくえんしょいん)
江戸時代から、中井一族による懐徳堂、緒方洪庵の適塾と並び称された私塾である。藤沢東がい(とうがい)が文政8年(1825)開いたもので、一時中断はあるが黄鵠(こうこく)・黄坡(こうは)ら4代、140年にわたって主宰され、大阪の文教発展に大きく貢献した。その間に蓄積された2万冊余の蔵書は、現在、関西大学に「泊園文庫」として保存されている。 南岳の孫 黄坡の長男、藤沢桓夫(たけお)
花外楼:大阪会議開催の地
明治維新間もないころ、新政府の方針をめぐり混迷をきわめた。体制を固めようとする大久保利通(としみち)は、当時反対を唱え下野していた木戸孝允(たかよし)や板垣退助を引き入れるため、伊藤博文・井上馨(かおる)らとともに、明治8年大阪で会合した。紆余曲折(うよきょくせつ)を経た会議は1カ月にも及び、ついに2月11日孝允の常宿、花外(かがい)楼(加賀伊を孝允が改称させた)で妥協した。これを称して大阪会議というが、ここでの話し合いも長つづきせず、6カ月後には再び混迷度を増したが、この会議は立憲政体を宣言した意義あるものであった。 三橋楼
八軒家船着き場跡 永田屋昆布店前
天満橋と天神橋の間の南側は、平安時代の、四天王寺・熊野詣の上陸地点であった。八軒家の地名は、江戸時代このあたりに8軒の船宿があったためといわれる。その当時は三十石船が伏見との間を往来して賑わった。明治に入ると外輪船が登場し、所要時間も短縮されたが、鉄道の出現で船による旅客の輸送は終ったが、貨物輸送は昭和20年ごろまであった。
熊野街道
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