2015年1月28日水曜日

伊勢講 茨木

A)伊勢講
 数ある講の中でも、伊勢講は全国的な広がりがある。とともに、部落全員が
講員になっている。もともと伊勢神宮は民間の私費を禁じていたので、民間と
の接触は疎遠であったが、古代末から神宮に御供物を調達する人達との関係が
                 おんし
深まってきた上に、中世以来御師(伊勢神宮の神職だが、年末には暦や御祓を
配り参詣者の案内をした人々)が、民間へ伊勢信仰を積極的に働きかけたとこ
ろから、伊勢信仰は急速に伝播浸透していった。こうして全国的に神宮の末社
が設立され、信仰団体としての伊勢講も広く結成されていった。又、伊勢参宮
も目的の-つになるようになった。
 部落全員が講員であっても、10家族前後のグループに分かれ、それぞれに講
名をっけているところもある。こうした組織で全国的に分布し、少なくとも年
1回の会合、折々の神宮への代参を行っている。講員全員が-度に参宮はでき
ないので、何回かに分かれて参拝するのを代参(代表参拝・代理参拝)といっ
ていた。こうした点から一種の観光旅行という面が強く出て、近世末期に講社
が多く結社される原因ともなった。又、参拝のための路銀も大きいので、年々
積立てたり、共同出資したり、共有の山林や田畑(伊勢講田)の収入を当てた
りしている。しかし現在ではすべての講社は本来の目的を失い、単なる財産管
理団体・親睦会となりつつある現状である。

B)佐保の伊勢講
 村史に伊勢講について「天照太神を奉祭する講で、講数多く、株毎、若くは
数株連合して一講を組織していた。佐保は免山で4株、金井で1講、馬場東1
講、馬場西1講、計3講・・・・・・」とあって、現在の神社の氏子単位で講が結ばれ
いたようである。
伊勢講の成立は、全国的にみれは古く、室町時代後半には、成立していた所
あったようであるが、当地方では、それまで遡るものは見られず、江戸時代
中期に、爆発的に発生した感がする。
佐保では、安永頃から記録が見られるようになるから、発生の時期もほぼ推
定出来よう。伊勢信仰の流行には、神宮の神徳を説き、お札や暦を配布して歩
   おんし                       すす
た伊勢御師の活躍によるところが多く、積極的に結構を勧めたものと思われ
る。当村では、御師は伊勢の太夫と呼ばれ、天保8年から銀16匁1分が伊勢太
夫銭打として、村費に計上、戸数割されているから、その頃に村講的な存在と
なったのであろう。
                        だいさん
 講の行事としては、何年か事に行われる伊勢代参がある。佐保の高座神社の
氏子から講についていえば、この選出法等は不明であるが、総員20名で株々の
人員割りも決まっていた。
 顔ぶれ、日程が決まると、講貞一同氏神へ集まり、旅の無事を祈り水杯をな
し、絹やかねきんで作られた「神宮、天照皇大神」と大書された紅白の職を押
立てて、伊勢音頭賑やかに村はずれ神田平まで見送る。この所で、盛大に別れ
                          かみんじょ
の盃を汲み交わす。佐保川沿いに福井に出た-行は、上村の大黒屋藤兵衛方で
休息とる。大黒屋は一行に祝酒をおくる。福井を出て耳原から西国街道を芥川
に向かう、そこで伊勢からの出迎えの者とおち合い、その案内で参宮に向かう
のである。先に大黒屋から贈られた酒3升は、出迎えの者へのねぎらいとして
贈っている。ガイド付の観光旅行である。

 道中の地名に草津、石津、坂ノ下、津、くも川
等が出てくるから、だいたい
となるのである。羽目をはずした大宴会となる。
 話はもどるが、参宮に向かった留守宅へは、垣内はもとより、関係者から留
守見舞いが送られる。酒樽、同切手が主なものであるが、中には大鯛1枚とか
虎屋の鰻頑などもみられる。出立の翌日から留守宅では、宴会の準備にかかる。
土産物としての鰻頭や杓子等は、池田等で購入している。
 免山株では、大体30人分くらいの買物をしているから、村中と手伝人若干が
めやす
目安であったようであり、箸200膳を買っていることから、大体の様子がわか
るであろう。
 当日の入費参宮者、7人に割当てている。記録の中に、かずら借りちん、紅代
などが出てくるから女装していった者もあったようだ。手元の資料からは、以
上のことくらいしかわからない。また物的資料として参宮の見送りに使用した
幟(のぼり)数流、合印かと思われる紅白の布を縫いあわせた小旗のようなもの多数、当
                 てっこう きゃはん
日使用したと思われる山岡頭布、手甲、脚絆などが残っている。
 明治に入ると、新たに講田を購入して参宮の基金とした講もあったが、次第
に株内の宴会に終わるようになり、現在では、馬場の講で毎年の宴会が続けら
れているくらいである。

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