池田市の御礼メール・回答 10/7
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
池田市教育委員会
忘れられた橋 として登録
サボテン公園 一枚のスケッチから
一枚のスケッチ画から 池田市
その⑤ 巡礼橋の親柱
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
池田市の回答 10/7
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
池田市教育委員会
忘れられた橋 として登録
サボテン公園 一枚のスケッチから
一枚のスケッチ画から 池田市
橋の架け替えの記録
文政5年(1822)、天保14年(1843)
万延元年(1860)、文久2年(1862)
「巡礼橋」 広報池田 平成2年7月1日号 別な調査で 池田で見つけました。
明治10年頃まで「巡礼橋」と言っていた。
その⑤ 巡礼橋の親柱
「巡礼橋」 とは 池田市にあった巡礼橋ではないですか!
後ろは 欄干の丸い穴が
数々の石碑類が奄美大島に移転されていることは初めて知りました。
貴重な情報、どうもありがとうございました。
ご指摘の「巡礼」橋親柱ですが、結論を先に申し上げますと、
はっきりしたことは分かりませんでした。
呉服橋の古い写真ですが、こちらで確認できる写真は、
大正期と昭和初期のものだけです。
昭和期はまったく規模・形状が違っております。
大正期の写真のうち、はっきりと親柱がみえるものは、
書籍にも収められています
(池田市役所平成元年発行『市制施行記念誌 池田50年写真集』、
郷土出版社平成7年発行『目で見る北摂の100年』)。
最上部がくびれているのは似ていますが
形状は円柱でなく、角柱で「呉服橋」「くれはゝし」とあります。
ご指摘の親柱は古い呼称である「巡礼」橋の名称でつくられていることや
大きさなどから、もしもこの石碑が「呉服橋」のものとしますと、
大正期よりも遡るものかとも思われますが、
いずれにせよ、裏付けとなるような資料は見つけることが出来ませんでした。
いただきました情報は、こちらでも記録し、何か分かりましたら、
またお伝えしたいと思います。そちらでもお分かりになりましたら、
ぜひご教授いただけましたら幸いです。
池田市教育委員会
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