東住吉区の史跡
大阪市中央図書館から借りました。
これこそ「世界に1冊しかない」
何度も 「大阪市から借りていますので 返却日までには 必ずカウンターまでお返しください。」
30年前の物ですので なかなか 何回かコピーしてあるので文字が薄くなっています。
全て手書きです。
平成3年1月4日が一番古く その年の10月2日ごろまで書かれたものです。
さて、資料はそろったが
前回同様 道標を拾ってみます。
道標2基 東田辺
道標その①
旧下高野街道の角に立っていたが、40年ほど前、道路整備の時当家に移建された。(1950年頃。) 下部欠損
施主 大坂住人
享保(1840)十一庚子四月
右 住よし さかい
左 平野 八尾 久宝寺 ふるい(ち)
道標 その②
元平野区平野南四丁目にあった辰己池(現 常磐会短大)の近くに立っていた。
40年ほど前、道路整備の時当家に移建された。(1950年頃。)
左 道明寺 ふぢい寺 大峰山上吉野道
右 京 大坂道
嘉永六年(1853) 壬癸四月 建 施主 平野□
左 大坂 平野道
はりみちの道標① 針中野3-2
正面 ☞ はりみち
左側面 ☞ でんしゃのりば
裏面 大正三年 四月 新吉 建之
はりみちの道標② 針中野3-3-1
正面 ☞でんしゃのりば ☜はりみち
裏面 大正三年四月 新吉 建之
はりみちの道標③ 針中野3-2-1 上の絵の③は見つけることができなかった
正面 なかの はりみち
右側面 大正五年 一月 新吉 建之
※ 新吉 さん 中野鍼療院の 中野一氏の祖父である。
八尾街道の道標 と力石 中野2-7 財団法人平野区画整理記念会館
東住吉高校の北、八尾街道の四っ辻に立っていたが、通行の自動車の接触により株が破損し、道路脇に横倒しになっていたので、近くの平野区画整理記念会館の玄関前の植え込みの中に移建された。
(北面) 八尾街道 距奈良街道分岐
(東面) 距 堺市元表 二里五丁三十九間
(西面) 距 平野郷町元表十四丁五十六間
(南面) 明治三十六年十二月建 大阪府
行基大橋と旧「天道の渡し」 矢田5-6
行基橋は 昭和五三年架設 行基菩薩にあやかって命名され、全長二〇七メートル 幅20.5メートル 上流三五〇メートル程の所に架かっている「下高野橋」の狭い交通事情が改善された。
「下高野橋」の少し下流に渡しがあった。
明治三〇年代に「下高野橋」がかかるまで、矢田と天美の間は「渡し」船で往来していた。 対岸の大和川南側には、休憩所もあったそうで、矢田近所の人は「天道(てんど)の渡し」と言っていた。
大和川は、もとは、現在の藤井寺、柏原氏のあたりから八尾を経て、京橋あたりで淀川に合流していたが、流域の水害が激化したので元禄十六年(1703)に幕府は付け替えを決定翌年二月十五日に起工、 同年宝永元年十月十二日に竣工 今見るような流水始めた。
「天道(てんど)」のいわれは、川を流れてくる砂や石ころで、川床が周囲の平野より高くなった、「天井川」がなまったのではないかといわれている。
地蔵石仏道標 矢田6-4 賽ノ神神社
下高野街道沿いに建っている。
矢田部落ではこの賽の守を「火の神さん」として崇めている。 毎年一月一五日には「とんど」の日で、六,七メートルもある青竹を何十本も立てて組み合わせ、しめ縄をその中に、さらに周囲にわらをくっつけて火をつけての「とんど祭り」は有名である。
右 なかの ひらの
地蔵尊陽刻
左 大坂 てんのうじ
注意 この石物は、多分下高野街道の分岐点に立っていたのであろう。
今川会館西に立っていた道標 平野区平野1 東南工営所保管
(東面) 右 大阪道 すぐ 北田辺天下茶屋築港 左 中野 南田辺 住吉
(北面) 明治四十三年十月 設立
(南面) 共融会
(西面) 倒されたままになっているので確認できず。
針中野探索
「はりみちの道標」ネーミング、けったいな道標です。
それで、興味を惹きました。それで調べてみると!
針中野駅のいわれを知りました。 面白いですね!
親柱の確認 まだ現存しているか!
鍼?中野探索 はりみち道標???
福西茂氏作
0 件のコメント:
コメントを投稿