加賀真砂子から返事をもらいました。
1.江坂西西の道標は「みごとな道標」で確認してもらいました。
2.片山の道標と、吹田街道・亀岡街道の間道については理解されませんでした。
3.岸辺の道標は、場所が分からなかったようです。再度
2.のことが大事です。次の機会に資料をそろえて確認してもらいます。
説によりますと
千里街道は、明治33年大阪府誌による、府道の設定では「天道」から「吹田停車場」になっていて、天道から高浜神社に向かい、現在のJRの線で停車場に向かう。となると、それは今となっては確認できません。
明治19年の地図で見ると、天童から片山村に抜ける道が間道ではないかと考える。片山村から、泉殿の北側をとおり、
帝釈寺前をとおり、吹田街道にであう。途中、道標らしい物が2基みられ、祠が2基存在する。「浄念寺門は元々北側にあったそうで、そこが通りに面していた」、もう一つの道標は、家の人が小さいときからあったといわれている。天道から第一小学校の抜け、片山に抜ける道が千里街道になると思います。
1.江坂西西の道標は「みごとな道標」で確認してもらいました。
2.片山の道標と、吹田街道・亀岡街道の間道については理解されませんでした。
3.岸辺の道標は、場所が分からなかったようです。再度
2.のことが大事です。次の機会に資料をそろえて確認してもらいます。
説によりますと
千里街道は、明治33年大阪府誌による、府道の設定では「天道」から「吹田停車場」になっていて、天道から高浜神社に向かい、現在のJRの線で停車場に向かう。となると、それは今となっては確認できません。
明治19年の地図で見ると、天童から片山村に抜ける道が間道ではないかと考える。片山村から、泉殿の北側をとおり、
帝釈寺前をとおり、吹田街道にであう。途中、道標らしい物が2基みられ、祠が2基存在する。「浄念寺門は元々北側にあったそうで、そこが通りに面していた」、もう一つの道標は、家の人が小さいときからあったといわれている。天道から第一小学校の抜け、片山に抜ける道が千里街道になると思います。
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